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「フェラーリ 312T」「ウルフ WR1」などが走った「鈴鹿サウンド・オブ・エンジン 2016」レポート
2016年11月21日 14:39
- 2016年11月19日~20日 開催
三重県鈴鹿市の鈴鹿サーキットにおいて、11月19日~20日の2日間にわたり、「RICHARD MILLE SUZUKA Sound of ENGINE 2016(鈴鹿サウンド・オブ・エンジン)」が開催された。2016年で2回目の開催となる同イベントは、動態保存されているヒストリックカーを一堂に集め、グランプリコースでもある鈴鹿サーキットを実際に走らせて、そのサウンドや走りを観客に体験してもらうイベントだ。
RICHARD MILLE SUZUKA Sound of ENGINE 2016では4輪車関連では大きくフォーミュラカー、スポーツカーの2つのカテゴリーのヒストリックカーが走ったが、本レポートではそのうちフォーミュラカー関連の車両を採り上げて紹介していく。
「フェラーリ 312T」「ロータス 72C」「ティレル 006」「ウルフ WR1」などF1の歴史に光り輝くヒストリックカーが激走
1960年代~1970年代のヒストリックF1関連では、「フェラーリ 312T」「クーパー T86・マセラティ」「ウルフ WR1・フォード」「ロータス 72C・フォード」「ティレル 006・フォード」の5台が鈴鹿サーキットにエンジン音を響かせた。
フェラーリ 312Tは、1975年型のフェラーリF1。当時のF1は3.0リッター自然吸気エンジンの規定下にある。このフェラーリ 312Tにも、水平対向12気筒エンジンが当時としては画期的な横置きギヤボックスとともに搭載されている。アルミニウムのユニークな形状のフロントウイングが特徴で、煙突のようなインテークボックスもデザイン上の大きな特徴となっている。ドライバーはクレイ・レガッツォーニとニキ・ラウダで、この年ラウダは初めてのワールドチャンピオンを獲得する。
なお、ニキ・ラウダは現在、F1メルセデスチームで取締役を務めており、たびたびTVにも映るので若いファンには“メルセデスF1の偉い人"という認識だと思うが、実は3回のワールドチャンピオン(1975年、1977年、1984年)に輝くグレーテッドドライバーだ。
今回走行したフェラーリ 312Tは、イベントのスポンサーでもあるスイスの高級時計メーカー「RICHARD MILLE」の創業者が持ち込んだもので、鈴鹿サーキットではおそらく初めて、312Tの水平対向らしい甲高いサウンドを響かせていた。
ロータス 72C・フォードは、名門ロータスチームが1970年に導入した新型シャシー。導入時にはアルファベットはつかないロータス 72としてデビューしたが、その後B→Cと進化していった。エンジンはフォード・コスワースV型8気筒(いわゆるDFV)。
このシャシーを有名にしたのは、1970年のイタリアGPでの悲劇だ。72Cへと進化したロータスを駆るヨッヘン・リントは、1970年シーズンのF1GPを席巻していた。ところが、イタリアGPの予選でリントは大クラッシュ。そのまま帰らぬ人となってしまったのだ。だが、その後もリントのポイントを上まわるドライバーは現れず、今のところ唯一にして最後の死後にF1チャンピオンになるという悲しいストーリーの主人公となってしまったのだ。なお、ロータス 72はその後も改良が加えられ、ロータス 72Dを駆ったエマーソン・フィッティバルディは、1972年のF1チャンピオンに輝いている。
ティレル 006・フォードは、名手ジャッキー・スチュワート(1969年、1971年、1973年のF1チャンピオン)が引退する最後の年(1973年)に駆ったマシン。このティレル 006はスチュワートとチームメイトのフランソワ・セベールのコンビで勝ちまくり、コンストラクターズタイトルも獲得した最強マシンだったが、最終戦ワトキンスグレンでのアメリカGPの予選でセベールが事故死。スチュワートは決勝を走ることなく、そのままF1GPからの引退を決めた。
ウルフ WR1・フォードは、カナダの石油王ウォルター・ウルフが1977年に設立したF1チーム ウルフの最初のマシン。デザイナーは後にフェラーリやティレルで活躍し、1999年のホンダF1シャシーの設計にも関わったハーベイ・ポスルズウェイト。ウルフ WR1は1977年の開幕戦アルゼンチンGPで、後にチャンピオン(1979年)となるジョディ・シェクターが初参戦初優勝という偉業を成し遂げた。この初参戦初優勝という記録は、2009年にホンダF1の資産を買い取って参戦したブラウンF1(1年後にメルセデスに買収され、現在のメルセデスF1チームの原型となっている)が、ジェンソン・バトンのドライブで2009年の開幕戦オーストラリアGPで実現するまでウルフチームのみの記録だった。
クーパー T86・マセラティは1967年に登場したクーパーの新型車両。マセラティV型12気筒エンジンを搭載しており、後にチャンピオンになるヨッヘン・リントのドライブで活躍を目指すが、目立った成績は上げられず、翌1968年を持ってクーパーはF1から撤退した。
鈴鹿サーキットと関係の深い「フェラーリ F187」「ベネトン B189」、セナ初優勝マシン「ロータス 97T」などが登場
1980年代以降のヒストリックF1でも多数の貴重なF1カーが出走した。鈴鹿サーキットにもっとも縁が深いF1カーと言えば、フェラーリ F187を忘れることができないだろう。フェラーリ F187は、鈴鹿サーキットが1987年に初めてF1日本GPを開催したときに優勝したマシンだからだ。この当時、ホンダのF1エンジンが最強で、同エンジンを搭載するウィリアムズあるいはロータスが優勝することが期待されている中、勝ったのはゲルハルト・ベルガーがドライブするフェラーリ F187だったのだ。
フェラーリ F187は、1.5リッターのV型6気筒ターボエンジンを搭載し、ポップオブバルブと言われて空気流入制限器がなければ1000馬力を越えるとんでもないパワーを発揮するモンスターマシンだった。このほかにフェラーリ関連では、ミハエル・シューマッハがここ鈴鹿で5度目のタイトルを決定した時のマシンとなるフェラーリ F2003 GA、さらには1996年にフェラーリに移籍したばかりのミハエル・シューマッハがドライブしたフェラーリ F310なども出走していた。
ロータス 97T・ルノーは、1985年にアイルトン・セナがロータスに移籍して駆ったマシンとして知られている。1984年にトールマンからデビューしたセナは注目の新人で、翌年トップチームの1つであるロータスへと移籍した。その初年度に駆ったマシンがこのロータス 97T・ルノーとなる。ルノーV型6気筒ターボを搭載したロータス 97Tは、ブースト圧を最大にすると1000馬力は余裕で超えていたとみられており、当時のサーキットではコースレコードの更新が相次いでいた。セナはこのロータス 97Tを駆って、1985年の第2戦ポルトガルGPで、ウェット路面を苦にすることもなく優勝。そこから“雨のセナ”伝説が始まることとなった。
ベネトン B189・フォードは、1989年に鈴鹿サーキットで行なわれた日本GPで優勝したマシン。アレッサンドロ・ナニーニがドライブするベネトン B189は、マクラーレン・ホンダのセナについで2位でゴールしたが、アラン・プロストと接触したセナはその直後のシケイン不通過で違反を取られて失格。2位でゴールしたナニーニが1位に繰り上がった優勝したのだ。エンジンはフォード・コスワースのHB型と呼ばれるワークスエンジンで、3.5リッターV型8気筒エンジンとなっていた。
ティレル 019・フォードは、1990年のティレルチームで中嶋悟とジャン・アレジがドライブしたマシン。成功裏に終わったティレル 018の空力を受け継ぎ、"アンヘラルド・ウイング"と呼ばれるノーズを高い位置に置いて、フロントウイングを吊り下げる形にしたことが最大の特徴となる。このティレル 019を駆ったアレジは、モナコGPで2位を獲得。018で戦った開幕戦での印象的な2位と合わせて、アレジを一挙にスターダムへと押し上げることになった。
このほかにも、アルファロメオ 179C、ミナルディ M190・フォード、ベンチュリー LC92・ランボルギーニなどが参加したが、ミナルディとベンチュリーに関しては出走することは叶わず、ピットでの展示となった。
中嶋親子が走るヒストリックF1模擬レースや、1960年代の葉巻型フォーミュラカーが走る模擬レースが行なわれる
イベントでは、このヒストリックF1カーを利用した模擬レースも行なわれた。日曜日のレースにはロータス 97Tに石浦宏明選手が乗ったり、中嶋悟監督と中嶋大祐選手の親子がそれぞれティレル 019・フォードに乗って走るなどして注目を集めた。
ただし、その模擬レースで優勝したのは、終盤に石浦選手を抜いたオーナーが運転するとアナウンスされていたフェラーリ F187。終盤石浦選手はかなりスローダウンして2位以下のドライバーに華を持たせようとしたのだと思っていたら、なんとそのフェラーリF187をドライブしていたのは、オーナードライバーではなくSUPER GT GT500の2002年のチャンピオンでもある飯田章選手。そんな余興的なことも行なわれながら和気藹々とイベントが進行していったのが印象的だった。
また、今回は1960年代の葉巻型フォーミュラカー(1960年代にF2やF3を走っていた車両)によるレースも行なわれており、各ドライバーが半ば本気で走っていたのが印象的だった。