第78回「ル・マン24時間レース」リポート
アウディが表彰台を独占

第78回ル・マン24時間レーススタートシーン

2010年6月12日決勝



優勝トロフィー

ル・マン24時間レースの歴史
 フランスの田舎、パリから200kmほど西に位置する小さな町で行われる世界規模のお祭り、それがル・マン24時間レースだ。

 車検の行われるジャコバン広場を見下ろす大聖堂のステンドグラスは、世界遺産にも匹敵すると言われる。大聖堂の周りには旧市街も現存しており、なかなかの風情をかもし出す。これといった産業もないことから24時間レースが観光資源となり町を発展させてきた。2009年には路面電車も完成し、環境問題にもかなりの予算を割いているようだ。街も様変わりしてきたが、レースのほうも「偉大なる草レース」と称された時代は終わってしまった。もっとも街中は相変わらずのお祭りムード一色だが。

 近年ル・マン24時間レースには国産メーカーの参加がないためか、最近めっきり日本のメディアに登場しなくなったが、改めてこのレースを考えたとき、レースとは何か、何のためにメーカーがレースをするのかといった基本的な考えがよく分かる。

 ホンダが走る実験室と称してF1の世界を選んだのはすでに遠い昔。いまやF1は自動車レースの本分を忘れたかのようにショービジネスとなってしまった。スポンサーカラーに塗られることはよしとしても、空力だけが命ともいわれるシャシー、そこにはクルマの姿は見て取れない。メーカの広告塔でしかなくなったF1からの市販車へのフィードックなど、すでに期待するほうが無理な話なのである。

 しかし、現在の環境問題を考えたとき、一番の課題に挙げられるのが自動車であることは疑う余地もない。2006年、アウディがこのことに一石を投じた。レーシングカーにディーゼルエンジンを搭載し、ル・マン24時間レースでいきなり優勝して見せたのだ。日本のディーゼル事情を考えると、あまりピンとこないかもしれないが、トルクが大きいことからさほどアクセルを踏まなくても加速するといったメリットを持つディーゼルエンジンは燃費がよく、結果、環境に優しいという図式が成り立つ。いまやヨーロッパでは完全にディーゼルエンジンが一般車の主導権を握りつつある。そして昨年プジョーが3年計画の公約どおりに優勝(1993年の優勝以来2006年まで活動を休止)を遂げた。こちらもディーゼルエンジンである。

 実車からのフィードバック、これこそが自動車メーカーがレースをするための基本的な考えであり、それがメーカーのイメージアップにつながる。この考え方はル・マンのレースが行われたときから受け継がれ現在も続いている。

ポルシェコーナー右側がサーキットにつながるコースで左側が普段から使われている一般道かなり分かりづらいがここがアルナージュコーナー。普段は普通の交差点
もっとも有名なミュルサンヌコーナー入口ミュルサンヌコーナー出口

 2006年、レースに先駆けル・マン24時間ではグランプリ生誕100周年イベントが開催された。100年前、初めてグランプリと銘打ったレース(この件に関してはいろんな意見もあろうとは思うがイベントを開催したACOに敬意を払っておくこととする)が、ここル・マンで誕生した。しかし、その後グランプリは純粋なレーシングカーのレースとしてその地位を固めていき、現在のF1へとつながった。

 ル・マン24時間レースは、このグランプリがあまりにも参加車が高性能化して市販車とかけ離れていったことや、レースのスプリント化で、レース本来の耐久性、信頼性を証明するという意味を失いつつあったことに対する1つの答えだった。こうして、1923年5月23日、ル・マン24時間レースは第一歩を踏み出した。

 参加車両はカタログに掲載されているままの市販車で、必要な装備はすべて装着状態が義務付けられた。もっとも、国際レースというにはあまりにも海外からの参加が少なく(33台中3台)、あくまでもフランスのローカルレースといった感じだった。しかし、リタイアはわずか3台という、とんでもない記録を残した。この記録は現在も破られていない。

 1940年から1948年の間、第二次世界大戦や戦後の復興のため開催されなかったが、1949年復活を遂げた。ここで、現在の24時間レースにとって大きく影響を及ぼすルール変更があった。戦後まもなくだったこともあり、各メーカーも新型車を生産していなかったため、生産予定の試作車、つまりプロトタイプの参加を認めたのである。これこそが現在のル・マン24時間レースの基礎となった。

 ジャガーの時代、フェラーリの時代があり、フェラーリ買収に失敗したことで強くなったフォードの時代もあった。そしてグループCカーの時代、ポルシェ956/962に影響を受けたトヨタ、日産がこぞって参加するようになった。日本はまさにバブルの時代、このときのジャパンマネーがサーキット近代化に一役買ったのは云うまでもない。

 1991年にはマツダがメルセデス、ジャガー、プジョーらヨーロッパの強豪を破って総合優勝を果たしたほか、日本人ドライバーも1995年にY.ダルマス、JJ.レートとともにマクラーレンF1GTRを駆った関谷正徳氏が、2004年にはチーム郷がエントリーし、T.クリステンセン、R.カペッロと組んでアウディR8をドライブした荒聖治選手がそれぞれ総合優勝を果たしている。

1991年に優勝したマツダ7872004年に総合優勝したチーム郷のアウディ・R8

予選では上位4位までプジョーチームが独占
 今年で78回を数えるル・マン24時間は、タイムスケジュールを大きく変更した。

 まず、月曜日と火曜日に行われていた車検が、今年から日曜日(6月6日)と月曜日(6月7日)に変更になった。これは日曜日に行うことで多くの観客にマシンを見てもらおうというのが目的で、この試みはうまくいき、例年にも増して多くの観客が押し寄せた。

 ただし、例年車検の行われた広場が工事中で、本来なら駐車場として使われていた場所が車検場になったため、多くの観客で身動きがとれない状態になってしまった。とはいえ、普通のサーキットとは違いル・マン24時間の車検は街中で行われ、マシン近くで記念写真を撮ることも可能なので観客には好評だ。また、この街では幼稚園児や車いすの人たちの集団が車検場で多くみられるのも、ほかのサーキットとは大きく趣が違う点だろう。

 従来は水曜日(6月9日)の日中のセッションはフリー走行で、22時から2時間が予選1というスケジュールだったが、今年のフリー走行は従来の19時からではなく16時からとなり、例年よりも長い時間走行することができた。木曜日(6月10日)は例年通りのスケジュールで、19時から21時が日中のセッション(予選2)、22時から0時までがナイトセッション(予選3)となる。

 フリー走行は、テスト走行ができないル・マン24時間にとって非常に重要な意味を持つ。なにしろ、レースで使われるコース自体、年に4日間しか存在しないため、当然セッティングのためのテストなどできるはずもない。だからこそ、チームのノウハウが大きくレースに反映されるのだ。

 6月9日に行われたナイトセッションの予選は、かなりの接戦が予想されたが、上位4位までをプジョーチームのマシン、プジョー908 HDI FAPが独占した。8位につけたガソリンエンジン車のローラ・アストンマーチン(アストンマーチン・レーシング)は7位のアウディR15 TDI(アウディスポーツ・チーム・ヨースト)から2秒遅れ、人気のナイジェル・マンセル率いるビーチディーンマンセルは18位につけた。木曜日(6月10日)も予選が行われたものの、昼夜ともに9日のタイムを上回ることはなく、予選グリッドが決定した。

予選トップだった3号車のプジョー908 HDI FAP(プジョースポール・トタル)ポールポジションを獲得した3号車 プジョー908 HDI FAP(プジョースポール・トタル)のS.ブルデー選手、P.ラミー選手、S.ペジナウ選手日本からランボルギーニ・ムルシェラゴ(JLOC)で参戦した余郷敦選手、山西康司選手、井入宏之選手
5号車のジネッタ・ザイテック(ビーチディーン・マンセル)はマンセル親子が駆る

日の出を見ても完走できなかったプジョー
 そして迎えた土曜日(6月12日)の決勝、スタートは15時だが、9時から行われたウォームアップは雨に見舞われため、走行を早めに切り上げるチームがほとんどだった。ウォームアップが終わるころには雨が止んだものの気温は低かったが、スタート1時間前あたりから急激に気温が上昇し、いよいよレース本番といった雰囲気に包まれた。

 迎えた15時、スタートと同時に飛び出したのはやはりプジョーチームの4台で、アウディに付け入るすきを与えなかった。最初の波乱は4周目に起きた。人気No.1のナイジェル・マンセルがこともあろうか最高速の出るコーナーでスピンアウト、このためセーフティーカー(SC)が入った。ル・マン24時間のSCは独特で、同時に3台が別の場所からコースに入ったが、なんとアウディチーム3台の前に入ってしまった。このため、プジョーとアウディの差は約1分も開いてしまい、スピードに勝るプジョーにとってはかなり優位に立ったと思われた。しかしポールポジションをとった3号車のプジョー908 HDI FAP(プジョースポール・トタル)が足まわりのトラブルでリタイアしたのはわずか38周目だった。

 プジョーチームの残りの3台がレースをリードし続けていたが、そのペースは予選時ほどアウディチームを上回ってはいなかった。7号車のアウディR15 TDI(アウディスポーツ・チーム・ヨースト)もGT2クラスのBMW M3との接触を避けるためにコースアウトしてしまい、遅れをとっていたが、残りの2台が淡々とプジョーを追い、プライベートチームである4号車のプジョー908 HDI FAP(チーム・オレカ・マットムート)は徐々に遅れ4位に下がった。1号車のプジョー908 HDI FAP(チーム・プジョー・トタル)は夜の時間帯に電機系統のトラブルでピットインし、貴重な時間を失いトップの座を2号車のプジョー908 HDI FAP(チーム・プジョー・トタル)に譲った。さらに2位に9号車のアウディR15 TDI(アウディスポーツ・ノースアメリカ)、3位に8号車のアウディR15 TDI(アウディスポーツ・チーム・ヨースト)がつけ1ラップ遅れでトップを追走。

表彰台はアウディチームが独占した

 ル・マン24時間は「日の出を見れば完走できる」とよく言われるが、今年のトップ争いはそうはいかなかった。日が昇り空の朝焼けが消える7時ごろ、トップを快走していた2号車のプジョー908 HDI FAP(チーム・プジョー・トタル)が右サイドから炎をあげリタイアしてしまい、遂にアウディが今年のル・マン24時間で初めてトップに立った。プジョーの最上位は3位につける4号車のプジョー908 HDI FAP(チーム・オレカ・マットムート)と、5位にピットから舞い戻った1号車のプジョー908 HDI FAP(チーム・プジョー・トタル)がつけ、両車とも予選並みのハイペースで追い上げを続けたが、昼過ぎに両車とも1号車のプジョー908 HDI FAP(チーム・プジョー・トタル)同様にエンジントラブルでリタイアし、プジョーチームは全滅した。アウディチームは残り1時間30分ほどを走りきり、表彰台を独占する形となった。

 ガソリンエンジンの最上位は009号車のローラ・アストンマーチン(アストンマーチン・レーシング)がリタイアしたため、6号車のオレカ01・エイム(エイム・チーム・オレカ・マットムート)の手に渡った。このチームはプジョー4号車と同じチームで4位を譲り受けた形となった。しかし、トップから28ラップ遅れ。総合5位でLMP2クラストップはアメリカン・ル・マンシリーズでも活躍している42号車のHPD ARX.01(ストラッカ・レーシング)が入り、4位との差はわずか2ラップと大健闘した。GT1クラスはワークスコルベットがGT2クラスに移行したこともあり50号車のサリーンS7R(ラルブル・コンペティション)の優勝となったが、多くのワークス勢の参加するGT2クラスの優勝車である77号車のポルシェ997 GT3 RSR(チーム・フェルバーマイヤープロトン)からは7周の遅れをとった。

総合結果

総合順位マシンNoマシン名チーム名総ラップ数
1位9アウディR15 TDIアウディスポーツ・ノースアメリカ397
2位8アウディR15 TDIアウディスポーツ・チーム・ヨースト396
3位7アウディR15 TDIアウディスポーツ・チーム・ヨースト394
4位6オレカ01-エイムエイム・チーム・オレカ・マットムート369
5位42HPD ARX.01ストラッカ・レーシング367
6位7ローラ アストンマーチンアストンマーチン・レーシング365
7位35ペスカローロ-ジャッドOAKレーシング361
8位25ローラ HPD クーペRML358
9位24ペスカローロ-ジャッドOAKレーシング341
10位41ジネッタ-ザイテック 09Sチーム・ブリュイッヒラディッチ341
総合優勝を果たしたアウディR15 TDI(アウディスポーツ・ノースアメリカ)3位に入賞した7号車のアウディR15 TDI(アウディスポーツ・チーム・ヨースト)GT1クラスで優勝した50号車のサリーンS7R(ラルブル・コンペティション)
77号車のポルシェ997 GT3 RSR(チーム・フェルバーマイヤープロトン)はGT2クラスで優勝ガソリン車のトップだった6号車のオレカ01・エイム(エイム・チーム・オレカ・マットムート)LMP2クラストップは42号車のHPD ARX.01(ストラッカ・レーシング)

ル・マン24時間フォトギャラリー

(中野英幸)
2010年 6月 21日