SUPER GT最終戦、NSX-GTを惜しむイベントが多数開催
NSX-GT有終の美に沸くツインリンクもてぎ

NSXにとって最後のレースとなったSUPER GT最終戦MOTEGI GT 250kmRACE

2009年11月7日、8日開催



 11月7日、8日の両日にわたり、SUPER GT最終戦(第9戦)となるMOTEGI GT250km RACEがツインリンクもてぎ(栃木県芳賀郡茂木町)で開催された。ホンダのNSX-GTのファイナルレースとなった同レースだが、そのNSX-GT勢の一角ARTA NSXがポール・トゥ・ウィンを決め、見事有終の美を飾った。

 ツインリンクもてぎでは、去りゆくNSX-GTを惜しんでさまざまなNSX-GT関連のイベントが開催された。レース前には、NSX-GTの開発者によるトークショー、NSXオーナーによるパレードランが行われた。

最後のレースで見事優勝をもぎ取った8号車 ARTA NSX最後の追い上げで3位に入った17号車 KEIHIN NSX18号車 ROCKSTAR 童夢 NSX
32号車 EPSON NSX100号車 RAYBRIG NSX
1990年9月に販売が開始されたNSX

1990年に登場し、2005年まで生産された“日本のスーパーカー”NSX
 ホンダのNSXは、19年前の1990年9月に販売が開始された車で、3リッターV型6気筒エンジンをミッドシップに搭載し、当時としては非常に画期的だったオールアルミボディーを採用することで軽量なボディーを実現したスポーツカーだった。

 ミッドシップの本格的なスポーツカー、“スーパーカー”に近いデザインを持つNSXだが、当時の同じようなスーパーカーが数千万円台だったのに対して800万円前後とリーズナブルな価格設定がされていたことと、日本がバブル景気真っ最中だったことなどが影響して、大人気を博し、中古車市場では新車よりも高い値が付くという現象すら生じたほどだった。

 その後NSXは、より強化されたモデルのtype Rが追加されたり、オープントップモデルのtype Tが追加されたりするなどのマイナーチェンジを続けながら15年間販売が続けられ、今から4年前の2005年7月に生産終了となった。この間、全世界で約1万8000台が販売された。

 レースシーンにおけるNSXの登場は、1994年のル・マン24時間への挑戦にさかのぼる。NSX type Rをベースにした車両で、1994年から3年間にわたってGT2クラスに参戦し、1995年にはクラス優勝を遂げる結果を残した。さらに、1997年には全日本GT選手権(SUPER GTの前身)に参戦し、2000年に道上龍選手のドライブで見事年間チャンピオンに輝いた。さらに2007年にもARTA NSX(伊藤大輔/ラルフ・ファーマン)がチャンピオンに輝き、今回のレースでの優勝を含めて通算で37勝をあげた。

最終戦で有終の美を飾ったARTA NSX表彰式が終わった後もARTA NSXの周りには多くのファンが集まっていたARTA NSXのルーフに書かれた「ありがとう」の文字は故本田宗一郎氏によるもの
ありがとうの文字はピットなどさまざまな場所に貼られたNSXのファンから送られた寄せ書き。「これを読むと涙が出そうになる」というチーム関係者の声も聞こえた

NSX-GTの歴代車両の展示や、NSXオーナーによるパレードランも
 そうした栄光あるNSXだが、今回でSUPER GTからは“引退”することが決定している。そもそも、今シーズンからのSUPER GTのレギュレーションでは、エンジンの搭載位置および駆動方式はFRと規定されており、MRのNSXは規定外になってしまっているのだ。このため、今年のNSXは“特認”の車両として規定されており、規定に合致している他の車両が不利にならないような“性能調整”を受けることになっている。

 これが実際のレースではかなりの足かせとなり、前半戦のNSXは、どのチームでも大苦戦が強いられてしまった。そこで、こうした状況を改善しようと、ホンダは来年以降NSX以外の車両を投入することを決定。NSXは今年のレースで“引退”ということになってしまったのだ。なお、現時点ではNSXの後継としてどの車両をSUPER GTで利用するのかは発表されていない。

 今回のSUPER GT最終戦では、そうした去りゆくNSXを惜しむイベントが開催された。1つは歴代のSUPER GT(全日本GT選手権も含む)向けNSXの車両展示。1997年に初めて全日本GT選手権に投入したavex 童夢 無限 NSX、2000年にチャンピオンを獲得したCastrol 無限NSX、そして現行車となるROCKSTAR 童夢 NSX、KEIHIN NSXの4台がHonda Racingブースに展示され、うちKEIHIN NSXに関してはドライバーシートへの体験搭乗も行われた。周囲には常に多くのファンが集まり、熱心に写真を撮ったりのぞき込んだりしている姿が印象的だった。

Honda Racingブースには歴代NSX GTマシンが展示された。写真左からavex 童夢 無限 NSX(1997年)、Castrol 無限NSX(2000年)、ROCKSTAR 童夢 NSX(2009年)
KEIHIN NSX(2009年)はコクピット搭乗体験も実施された。子供だけでなく大人も乗れるとあって、多くのファンが列を作ったメインステージで行われたJ SPORTSトークショーには、ARTA NSXを走らせる鈴木亜久里監督とRAYBRIG NSXを走らせる高橋国光監督が招かれNSXに対する思いが語られた
会場ではファンにメモリアルステッカーが配布された。NSX-GTのヒストリーが記される

 また、決勝レースの前には、歴代のNSXオーナーによるパレードランも行われ、多くのNSXがこれに参加し、NSX-GTの“引退”レースに花を添えることとなった。

オーバルコースに、この日集まったNSXが集まり、パレードランを行ったスターティンググリッドに並ぶ前、NSX-GTの5台が最後にコースインし、コースをパレードしながらファンにその勇姿を見せた
本田技術研究所 NSX-GTプロジェクトリーダー 白井裕氏

NSX-GT開発で“地獄を見た”のは2003年のターボ化、その苦労が2007年王者獲得につながる
 今回のファン向けイベントの目玉の1つとなったのが、NSX-GT開発者によるトークショー。NSX-GT開発者の本田技術研究所 NSX-GTプロジェクトリーダー 白井裕氏がステージに登壇し、NSX-GTに関するトークショーを行った。白井氏は1975年に入社、1989年からはホンダのF1活動に携わり、ホンダが中嶋悟氏の駆るティレルにV10エンジンを供給していた1991年には、その責任者としてサポート。その後もホンダのF1活動にエンジン技術者としてかかわり続け、2001年の末にF1から全日本GT選手権へと移動。プロジェクトリーダーとして、ホンダの全日本GT選手権におけるエンジニアリング面での責任者として活動をしてきた人物だ。

 白井氏によれば、F1から全日本GT選手権に移ったときにもっとも戸惑ったのが、規制の多いレギュレーションだったと言う。「当時のF1ではほとんど制限がなかったが、SUPER GT(当時の全日本GT選手権)ではレースを盛り上げるということもあり、制約が多く、それに対応するのが大変だった」と、レースごとにウエイトが増えるなど、全日本GT選手権独特のレギュレーションに苦労させられたことを述べた。

 その中で、特に2003年のレギュレーションでミッドシップの車に対して厳しい規制がかけられたことに触れ「最初はずいぶん厳しいなぁと思ったが、それに対応しようといろいろ試行錯誤した。エンジンをターボにしてみたりといろいろやってみたが、正直地獄を見た」(白井氏)とNSX狙い撃ちとも言われる規制強化の際の苦労について吐露した。

 「ターボに関しては量産でもF1でも経験があったのでさほど難しいとは思っていなかったのだが、当初はレスポンスについてドライバーから不満が出たり、オイルが漏れたりとさまざまな問題が発生した」(白井氏)と予想外のトラブルに苦戦したことを挙げ「結局最後は白井さんには内緒でもターボやめます!と現場に言われて、シーズン中にNA(自然吸気)に戻すことになった。結局レース活動というのは、結果を出すためにどのようなプライオリティをつけるかが重要であり、それを学べたという意味で、あの1年は重要だった」(白井氏)と、このターボ化の苦労が、後の2007年にシーズンを圧勝し、シリーズチャンピオンを獲得する原動力になったと語ってくれた。

ピットウォークでは、NSX-GTのエンジンも展示されたエンジンのスペックや最高出力の推移

 また、司会者からどのようなドライバーが好きかという質問を振られると「素直なドライバー」(白井氏)と述べ、来場者の笑いを誘い、「結局我々エンジニアは自分で車を試すことができない。だからこそ、きちんとしたフィードバックができるドライバーが重要だ」と、マシンの開発にはドライバーのフィードバックが欠かせないことを説明した。

(笠原一輝)
2009年 11月 10日