元アウディのデザイナー、和田智氏のトークショー開催
「デザインは過去と未来を結びつける」

2010年7月23日開催
アウディ フォーラム 東京



 アウディ ジャパンは7月23日、東京 表参道のアウディ フォーラム東京で、デザイナー和田智氏のトークショー「未来のつくりかた Audiで学んだこと」を開催した。

 和田氏は1961年東京生まれで、武蔵野美術大を卒業してから日産自動車を経て、1998年に独アウディAGに入社。A6、Q7、A5といった主要車種や、コンセプトカー「アヴァンティッシモ」「パイクスピーク・クワトロ」をデザインしたことで知られる。2009年にアウディを退社し、現在は自身のデザインスタジオSWdesign TOKYOでEVなどのプロジェクトに関わっている。

 トークショーは、同名の書籍を和田氏が上梓したのを記念して行われたもの。同書からアウディ時代に学んだことと、現在氏が手がけているデザインについて語られた。

アウディ フォーラム東京には和田氏のデザインスケッチや和田氏が手がけたA6、A5が展示された

 

ドイツで働くということ
 アウディでは、唯一の日本人デザイナーだった和田氏だが、同社では外国人(ドイツ人以外)のデザイナーは「起爆剤として使われている。ダイナミズムを興すために、ぐるぐるとかき回す役割を負っている」。そして「ドイツ人は空気を読まない。空気を読む奴は信用しない。デザイナーがディレクターとケンカしている」ようなスタジオで、やっていけるのか心配になったと言う。

 しかし、アウディで働くうちに「夜8時になったらデザインスタジオには誰もいない。仕事のあとは家族や自分のことをやる。自分の暮らしや人生をどう生きるかを常に考えていることを、アウディで知り合う人間を通して勉強させてもらった」。

 アウディの量産車で初めて手がけたのがA6だが、このデザインスケッチで、現在のアウディのアイデンティティである「シングルフレームグリル」が初めて登場したと言う。これは「先進性のあるモダンでフューチャリスティックで新しい感覚のデザイン」として受け入れられたが、一番最初の社長展示の時に「このデザインは新しいけど軽い」と言われた。それは和田氏が「日本人の考える新しさの表現で、そのまま提案してしまったから」。以来「このデザインではヨーロッパの大地に佇めない。このままやっていたらあっという間にクビになる。どうやったらヨーロッパの文化の中に溶け込めるのか」を考えていたと言う。

和田氏がアウディで初めて手がけたパイクスピーク・クワトロ映画「アイ・ロボット」に登場した未来のアウディも和田氏が監修
A5こちらは未発売のA7

 

ワルター・デ・シルバ氏

ワルター・デ・シルバの影響
 そんな中で、現在はフォルクスワーゲングループのデザインを統括するワルター・デ・シルバがアウディのチーフデザイナーとしてやってきた。

 その頃、A5を担当していた和田氏は、デ・シルバ氏の部屋に呼ばれた。そのときデ・シルバ氏は「A5の話だと思っていたら、子供の頃、ミラノの街の風景と、そこで見たクルマの話を始めた。彼は“街の風景の中でクルマが存在している感覚にすごく感動した。だからクルマのデザイナーになった”と言った」。デ・シルバ氏はアウディの話をまったくせず、ヨーロッパのクーペのエレガンス、ヨーロッパの人たちにとって大切なものについて、クルマを通して話していた。

 「ヨーロッパでクーペをデザインできるのは、デザイナーにとって光栄なこと。彼にとってクーペはヨーロッパの文化を表すもの。それを僕の腕に託してくれたことに感動した。そしてワルターは、A5に自分が子供の時の感動を込めて、今、そして未来の子供達に伝えたいのだと言っているのだと分かった」。

 その結果、A5はドイツ連邦デザイン大賞を受賞。しかし「ヨーロッパの究極の古典を表現した」という評価を見つけた和田氏は心外だったと言う。「レトロなデザインにはしなかったし、アウディはモダンが命だったから」。だがデ・シルバ氏はにやっと笑って「智、それでいいんだ。その言葉が出た瞬間に、アウディは1つの壁を乗り越えたんだ。ヨーロッパの時の中で刻まれたものを子供達に見せて、彼らに僕が感じたような感動を感じさせられたら、それが今、市場をリーディングできているアウディの役割なんだ」と言ったと言う。「彼は、デザインは未来だけを考えてはいけないんだ、デザインは過去と今と未来を結びつけるものなんだと言ったのだ」。

 

22世紀に向けて
 さてアウディを退社してからの和田氏は、電気自動車のプロジェクトのほかに、将来を見据えたプロジェクトを2つ行っている。

 その1つが建築家の寺澤任弘氏と組んで行っている「22世紀の東京」のケーススタディ。皇居を中心に半径2~3kmの範囲、つまり神田川とその支流、東京湾に囲まれた地域をゼロエミッション地区とし、境界線を電気自動車専用の首都高新環状線(電化道路)や水路が囲む構想。

 ゼロエミッション地区の高速道路や高層ビルは排除し、地区の外側の環状エリアに、都外から来た車両を停め、高層ビルの機能を収容できる建造物を丘陵状に作ると言う。

 もう1つは、和田氏が大きな影響を受けたという故イサムノグチ氏が計画した原爆慰霊碑の復活。広島にある慰霊碑は、当初はノグチ氏案が内定していたが、ノグチ氏が日系アメリカ人であることから却下された。

 この慰霊碑をノグチ氏案どおりに作り、核廃絶や平和運動のためのセンター機能を加え、皇居前広場や世界各地に建設しようというもの。

 最後に和田氏は「今我々が取り組んでいることはほんのちっぽけなボイス。でも、ここに至るにはドイツの経験があり、いろいろな人との関わりの中でクリエイターがどんなことをしなければいけないのかを、創造者として表現しなければいけないのではないか。今、誰かがやらなければ伝わらない」と締めくくった。

東京の中心部を水路で囲み、内側をゼロエミッション地区とするゼロエミッション地区を囲む地帯は構造物で江戸時代の丘陵地形を再現、内部に駐車場やオフィスなどを作る
イサムノグチ氏の原爆慰霊碑を復活させ、世界中にサインに応じる和田氏

 

(編集部:田中真一郎)
2010年 7月 26日