【特別企画】輸入車が切り開いた戦後日本の自動車文化(後編)
クルマのアフターサービスのあり方を築く


現在のヤナセ世田谷支店(メルセデス・ベンツ 世田谷桜丘)の2階にはミュージアムを設置。ヤナセが取り扱いをはじめた当初に輸入した220や300が展示されている(入場無料)

 筆者はバブル時代に学生から新社会人へのステップアップを経験した。この頃、すでに日本ではメルセデス・ベンツ日本(MBJ)が設立され、メーカー自身の手による輸入が始まっていた。ところが僕の記憶にはメルセデス・ベンツ=ヤナセの記憶しかない。メーカー系ディーラーが日本での展開を開始するとき、既存の輸入代理店と事業領域が重なり、軋轢を生むことは少なくないが、ヤナセとMBJは相互に高め合う関係のように見える。前編に引き続き、後編では両者の近年の関係について振り返り、“これからのヤナセとメルセデス・ベンツ”について話を進めていきたい。

“日本におけるメルセデス・ベンツ”を生み出したヤナセ
 外国車の輸入自由化が開始した後も、ダイムラー・ベンツにとって、日本市場はあまり重要ではなかった。月間数十台程度のオーダー、それも遠く欧州から日本への船便を通しての輸入販売である。

 日本では国産車の性能への不満や海外製品の憧れもあっただろう。メルセデス・ベンツをはじめとする外国産高級車への注目は高まるばかりだったが、それに対する本社との温度差が大きかったことは容易に想像できる。今でこそ世界有数の経済大国となった日本も、当時は小さな存在だった。

当時、ヤナセのグループ会社であるウエスタン自動車でメルセデス・ベンツの輸入に携わっていた山岸秀行氏

 ヤナセグループでメルセデス・ベンツの輸入・販売に関わり、その後、最初期のモータージャーナリストとして活躍。現在も現役でコラムを多数執筆している山岸秀行氏(ペンネーム:成江淳氏)も「日本はダイムラー・ベンツにとって小さな存在。最新モデルもすぐには輸入できなかった」と振り返る。

 当然、日本の法規制に合わせ、本国仕様に加えて日本仕様のメルセデス・ベンツを並行開発し、新型車両の審査を発売前から受けるなどといった特別対応は望めない。車両の新型審査には半年以上がかかるため、本国で新型が発表され、発売されてそれを輸入し、審査を通して発売するまで、どんなにがんばっても1年以上がかかった。

 さらに日本仕様に合わせた変更が必要となれば、ドイツ本国での製品出荷から2年を経過してやっと日本で発売できるといった具合だ。しかも、自動車技術の進歩をリードしていたドイツは、日本車にはまったくない技術、装備を次々に採用していく。

 ヤナセがダイムラー・ベンツからの信頼を勝ち得て、パートナーと呼べるほどの関係にまでなれたのは、日本市場とドイツ自動車産業の間の橋渡しを行い、ドイツの自動車メーカーが日本の法規制の中で、しっかりと根付くための基礎を作り出したためだろう。

1957年にヤナセが輸入したメルセデス・ベンツ タイプ300。ワンオーナーでナンバーも当時のものこの300の車内にある操作ボックスは後付けの東芝製エアコン。当時のメルセデスにはエアコンがなく、後にヤナセでオリジナルエアコンを作って装着していたエアコンユニットはトランクにあり、後席の後ろの筒から冷風が出るシステムだった
ヤナセがメルセデス・ベンツの取り扱いをはじめた翌年に輸入したタイプ220(1953年式)。日本にはまだ高速道路がなかった時代に140km/hで走れる性能を有していた当時のマニュアル。英語版のマニュアルをもとにヤナセが日本語に訳したものを用意していた

 「日本ではドアミラーでは車検が通らない時代。フェンダーミラーに直さなければクルマを売れなかった」と山岸氏。メルセデス・ベンツに次々に投入される先進的な技術も、当時の日本では初めてのものばかり。例えば今となっては当たり前の装備となったABSも、最初に採用したのはメルセデス・ベンツで、当初は日本での認可が下りなかった。これをヤナセがなんとか通すと、国産メーカーが後を追って技術投入するという。そんなことが長い間、続いたのだそうだ。

戦後のヤナセを支えた二代目の梁瀬次郎氏

 もともと、ヤナセの二代目である梁瀬次郎氏(1916~2008年)は、海外の自動車文化を見て回り、欧米のモータリゼーションを熟知していた。その推移を見つめながら、当時、道路交通法の草案を起草し、後に“戦後の交通警察発展の司令塔”と呼ばれた第三代警察庁交通局長・内海倫氏(1917~2012年)との親交を通じて、日本の自動車産業の発展と交通安全の両立に尽力してきた。そうした流れもあって、ヤナセがメルセデス・ベンツの採用する最新技術を通じて、最新の自動車文化を日本に導入するという流れが生まれた。

 ダイムラー・ベンツも、日本で自らの存在感、ブランド力が高まる様子をひしひしと感じていたのだろう。それは右肩上がりの販売実績と、日本から集まる絶賛の声で実感できる。こうしたことが、ヤナセとメルセデス・ベンツ、2つのブランドを強く結びつけていったことは想像に難くない。

急速に広まったメルセデス・ベンツのブランド
 筆者の記憶では1980年前後から、日本におけるメルセデス・ベンツの流通量が急拡大した印象がある。もちろん、その背景にはヤナセとダイムラー・ベンツの関係が強まると共に、日本経済が急速に拡大していったことがある。

 同時に80年前後は国産車の品質が向上していった時期だ。性能、品質ともに日増しに高まり、モデルチェンジごとにまるで別の自動車メーカーが作ったかのように、まったく新しい魅力を備えたクルマになっていく。すると、それまで国産車の実用性や性能、信頼性に疑問を持っていた人たちが、当時、外国車の主流であったGMなどのアメリカ車から国産メーカーへと乗り換え始めた。

 「オイルショックの影響は小さくありませんでした。重厚長大なアメリカ車は、オイルショックを契機に敬遠されるようになり、GMの高級車からトヨタのクラウンに人気の中心は移っていったのです。しかし全員が国産車に移ったわけではありません。一部はクラウンなど国産高級車に、そしてそれ以外の人たちは輸入量や輸入車種が増え、乗りやすく買いやすくなったメルセデス・ベンツへと向かったのです(山岸氏)」

 こうなってくると、メルセデス・ベンツの販売拡大はとどまることを知らない状況になっていった。日本の生活レベルが向上するとともに、メルセデス・ベンツの販売は拡大していく。

バブル景気に後押しされ、メルセデス・ベンツの裾野を広げた190E

 80年代中頃、日本にバブル景気が始まらんとするタイミングで、“小さな高級車”とうたわれた190Eが発売される。当時、山岸氏は国産車が大型化していく中、小さくなる方向に向かうメルセデス・ベンツの方向性をやや心配していたという。

 しかし、バブル景気は中間層の所得を押し上げ、190Eの販売台数はうなぎ登りとなった。この小さな高級車の人気は、一部の限られた富裕層に知れ渡っていたメルセデス・ベンツの魅力が、幅広い層の人達にも知られるきっかけになった。

 同時に顧客層も典型的な富裕層の贅沢品から、ファミリーユーザーの割合が増えていく。一方で高級オープンカーを売りながら、一方ではファミリー向け高級車という新しいジャンルを開拓していく。メルセデス・ベンツのブランドと信頼感は、この頃、急速に広まり、現在に至る評判を獲得した。

国産車の品質向上に対し、“サービス”の質向上でメルセデス・ベンツを支えたヤナセ
 「人々の憧れをブランド価値とするなら、そのブランド価値、憧れの支えとしてヤナセが存在している」と山岸氏は指摘する。高価なクルマを扱うヤナセは、販売と整備のネットワークを構築するだけでなく、中古車の流通まで含め、輸入車種の価値を製品のライフタイムサイクルで維持する工夫を施した。結果、ヤナセが扱う車種は中古車市場でも高値を維持し、それが新車を購入する顧客に対するブランド力にもつながっている。支払った金額に見合う以上の満足感を、いかにして顧客に届けるか。それこそがヤナセ・ブランドの源泉である。

 もっとも、ここに至るまでにはもちろん、日々改善の努力が繰り返されてきた。その背景にあったのは、前述したような国産車の品質・性能の向上である。商品力が上がってくれば、商品の単価も上がり(もちろん日本経済の発展という要素もある)、自然とディーラーのサービス品位も向上してくる。こうしたことが、ヤナセがさらに高い満足度を……と、貪欲にサービスの質を高めていくモチベーションになったと山岸氏は考えている。

 「クルマの進化とともに、以前ほどクルマは壊れなくなった。ディーラーに愛車を持ち込んで、そこで信頼関係を築く、かつての自動車販売のリレーションシップは失われつつあります。しかし、そうはいってもクルマは命を預けるもの。タイヤやエンジンオイルの交換で接点を持ちつつ、万全を期して技術的な説明を誰もが行えるよう、徹底した社員教育を行っている。クルマを売るだけでなく、クルマを知るための知識も提供できるところまで、自動車ディーラーの価値を高めたのはヤナセなんです(山岸氏)」

 たとえば、普段は人口の少ない軽井沢。ここにヤナセは夏季限定の提携サービス拠点を構え、顧客の支援を行っている。かれこれ50年も運営しているという軽井沢のサービス拠点。ここにサービス拠点を置く理由は、もちろんメルセデス・ベンツのオーナーが、避暑のために別荘へとクルマでやってくるからだ。碓氷峠を越えるのがやっとだった昔のクルマ。だからこそ、顧客の動線に合わせてサービス拠点を構え、故障が大幅に少なくなり、性能も向上した今でも運営を続けている。利益追求よりも、顧客にとって必要だからだ。顧客が望むサービスを提供することで、結果的に利益を得られる。これはヤナセの基本的なDNAとも言える。時代背景と車事情に合わせ、逐次新たなサービス網を展開をしていくというのは、実にヤナセらしい考え方だと取材を通じて感じている。

 その成果は、戦前から自動車輸入と販売を手がけ、現在まで活躍を続けている民族系ディーラーはヤナセを含めて一握りしか残っていない、という事実に現れている。もちろん、そこにはメルセデス・ベンツという優れた自動車との出会いがあるのだが、ヤナセ自身の自助努力も見逃せない。

メルセデス・ベンツ販売60周年の今年12月には本社のある東京・芝浦に都心最大の店舗がオープン

ヤナセとメルセデス・ベンツのこれから
 よい製品、よいサービスに触れると、どんな人でも、思わず表情が緩むものだ。上質な空間、上質なサービス、上質な製品に触れたときの、なんとも言えない心地よさ。これはメーカーであるメルセデス・ベンツ、ディーラーであるヤナセだけが生み出しているものではない。よい製品、よいサービスに触れてきた顧客が共に生み出してきたものだと山岸氏。

 「ヤナセの資産と言えば、やはり顧客です。とにかく顧客のレベルが高い。上質さを知るだけでなく、クルマに対する造詣が深い。こうした顧客を最初から獲得できていたわけではなく、60年の歴史の中でディーラーであるヤナセと顧客の相互が影響し合い、高めあった結果。ブランドとは、そのブランドに接している人達が自身が作っていく世界観です。これは、いくら広告宣伝をやって上質さを演出しても得られるものではない(山岸氏)」

 山岸氏はヤナセが2002年に輸入業者としての権利をすべて返上し、顧客とのリレーションシップ強化に徹したことが、これからのヤナセを支える糧になると信じている。

 「自動車を輸入して、ブランドの認知を高め、それを販売、メンテナンスしていくのは、とても手間の掛かる仕事です。しかし、ヤナセは顧客と向かい合うことこそ、自分たちの価値であると気付いた。製品を売り、メンテナンスし、日々顧客との関係を積み重ね、信頼を築いていく。ここに焦点を当て続ける限り、ヤナセとメルセデス・ベンツの未来は明るいと思うな」そういって、笑顔でインタビューを結んだ。

(本田雅一)
2012年 9月 3日