日下部保雄の悠悠閑閑

フィアット・パンダ45

MINICHAMPSのパンダ34の1/43。パンダ34は日本に入っていなかったと思います。僕の乗っていたのは45で数字は出力を示しているそうな。34は34PSなんでしょう。でもパンダが懐かしくてオートモビル・カウンシルで見かけたミニチェアカーに手が伸びました

 人生で一度だけイタリア車に乗ったことがあった。フィアット「パンダ45」だ。デザインやコンセプトに惚れて衝動買いしたんだと思う。長男が生まれた年だと思うが後席をハンモックにして寝かせ、伊東の実家に帰った記憶があるので、1983年頃のコトだったかもしれない。薄いイエローのボディに左右非対称の鉄板打ちっぱなしのフロントグリル。全部が平面でシンプル、斬新! 現物を見てこんなクルマができるんだと心底衝撃を受けた。

 当時フィアットはオイルショックで苦境にあえぐ中、苦し紛れ(?)に作ったのがパンダ。イタリアに多数あったカロッツェリアの1つ、イタルデザインに開発を委託し、天才ジウジアーロはガラスを含めてすべてを平面でデザインしてコストの削減を図りながら、素晴らしく夢のあるパッケージングを成立させた。

斜めから見たパンダ。見事に平面です

 近所にあったチェッカーモータースからやってきたパンダのキャビンは布と金属で、プラスチックはあまりないイメージだ。とてもシンプル。メーター、スイッチ類はユニット化されて布のダッシュボードにくくり付けられ、その下には大きくえぐられたスペースがあってなんでも放り込んでおけた。日本車にはない自由な発想だ。

 そしてシートもハンモック構造で薄くて軽く、それ自体も簡単に取り外せて外でチェアとしても使え、夢が広がった。

 当然、後席もハンモック。3本のパイプに張られたシートは全部外してバンのようにできるほか、前側のパイプを上にあるフックにかけてハンモックのようにしてベビーベッドとして使うなど自由なアイデア満載だった。

シートもハンモックタイプだったので少しイメージが違います。また自分の45はWキャンバストップがアクセントになっていました

 うちにあったのはキャンバストップ。前後に分かれており、キャンバスを手でクルクル巻いて、バンドで止め、燦燦と陽の光を受け止める。イメージはいろいろと広がる。

 もっとも現実はなかなか厳しく、板バネのリア固定軸にホイールベース2160mmはポンポン跳ね上げられ、ハンモックシートはクッションがないに等しいので、細かい振動も正しく伝わってきた。

 太陽燦燦のはずのWサンルーフは夏の日本には厳しく、後席のハンモックに寝かされた長男はポンポン跳ねながら汗びっしょりになっていた、慌ててサンルーフを畳んだのは言うまでもない。

 全長3380mm、全幅1460mmと軽自動車よりもコンパクトなサイズは左ハンドルの4速MTでも苦にならず、家内は初めての左ハンドルでもすぐに慣れてよく出かけていた。

 0.9リッターの直4OHVエンジンの力はなかったし、コーナーではすぐに後ろ脚は持ち上がったけど、動いているだけでワクワクするような不思議なクルマがパンダだった。

裏側。パワートレインのレイアウトとサスペンション。リアのリーフスプリングが分かります。懐かしい

 覚悟していた故障は、ウチに来た翌日、突然エンジンが止まりウンともスンとも言わなくなったことが1回だけあった。それも、家内がハンドルを握っている時だったので、パニックになって半ベソかきながら帰ってきた。何回かイグニッションを回していたら何事もなかったようにブーンとかかり、まるでこちらがパンダと付き合う気あんの? と聞かれているような事件だった。

 何もかも新鮮なパンダだったが夜も感激することがあった。カラフルなメーターもさることながらハロゲンライトの明るかったコト! 日本車が提灯みたいなシールドビームだった頃、こんなに遅い(ゴメン!)パンダでも真昼のように明るくなったのだ。やはり欧州とのアベレージ速度の違いはこんなところにも出るんだなと妙に感心したものだった。

 わが家でのお役目ゴメンになった後は、よく知る知人に引き取られ湘南地方で暮らしていた。ひどい追突をされて修復不能になるまで20年近く大したトラブルもなく潮風に吹かれながらかわいがられていたようだ。

 今回も当時のパンダの写真はありません。自分のクルマの写真は不思議なほどないのは、テレなのか、いつでも見ることができるからなのか?

 今では到底作ることができない自由なクルマだったなぁと久しぶりにミニカーに手を伸ばしたのでした。

日下部保雄

1949年12月28日生 東京都出身
■モータージャーナリスト/AJAJ(日本自動車ジャーナリスト協会)会員/2020-2021年日本カー・オブ・ザ・イヤー選考委員
 大学時代からモータースポーツの魅力にとりつかれ、参戦。その経験を活かし、大学卒業後、モータージャーナリズムの世界に入り、専門誌をはじめ雑誌等に新型車の試乗レポートやコラムを寄稿。自動車ジャーナリストとして30年以上のキャリアを積む。モータースポーツ歴は全日本ラリー選手権を中心に活動、1979年・マレーシアで日本人として初の海外ラリー優勝を飾るなど輝かしい成績を誇る。ジャーナリストとしては、新型車や自動車部品の評価、時事問題の提起など、活動は多義にわたり、TVのモーターランド2、自動車専門誌、一般紙、Webなどで活動。