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【祝!! 佐藤琢磨優勝】モータースポーツジャーナリスト・小倉茂徳

「今の佐藤は心、技、体ともインディカードライバーして最高潮にある」

 佐藤琢磨が2017年の「インディ500」で優勝したことに、素晴らしいことを成し遂げたという感慨はあった。でも、驚きはしなかった。

 佐藤琢磨がF1で走っていたとき、「このドライバーはインディカーに向いているかもしれない」と感じていた。常に積極果敢で度胸満点な走りで目覚ましい結果も出していた半面、常に全力で走ることからエラーもあり、結果と順位をより重視するF1では佐藤琢磨の走りについて「やりすぎ」とか「オーバードライブ」だという批判もあった。

 一方、インディ500に求められるドライバー像について、アメリカにはこんな伝統的な表現がある。それは「鉛の右足、鋼鉄の胃袋を持った者」。「鉛の右足」というのは、常にスロットルペダルをベタ踏み全開にし続けるということ。「鋼鉄の胃袋」とは、どんなときも恐れず動じない勇気とメンタルな強さを備えているということ。「レジェンド」とも呼ばれる歴代インディ500チャンピオンには、この資質が備わっている。

 予選では370km/hオーバーで壁際ギリギリまで攻め、決勝でも350km/hオーバーで激しいバトルをし、他車のクラッシュによる危険もかいくぐって走り続ける。スタート順位がわるくても、決してあきらめずに戦い続けることで上位になる強い精神力。そして「2位は最速の敗北者」として、最後の瞬間まで優勝のためにすべてを賭けて戦う。インディ500のレース関係者やファンは、こうしたドライバーたちに敬意を表し、大切にする。

「ノーアタック・ノーチャンス」として、常に全力でチャレンジする佐藤琢磨の姿勢は、まさにこのインディ500のレジェンドたちが備えている資質に似ていると思っていたし、インディカーに転向すればきっとアメリカのファンやレース関係者に愛され、尊敬を勝ち取るだろうと思っていた。インディカーのなかでもインディ500では、超高速オーバルでの走行、激しいタービュランス(乱気流)の中での密集戦など、独特のノウハウが多数あり、それらを会得するには多くの経験を必要とする。

 だが、佐藤琢磨の知的なアプローチがあれば大丈夫だと感じていた。佐藤はレーシングカート経験がきわめて乏しいところからF1まで急速に成長してきた実績がある。トレーニングなどすべてを知的な裏付けを持って行なったことで、短期間できわめて効率よく結果を向上させてきたのだ。

 佐藤琢磨にとって残念なことは、F1でのキャリアが2008年で終わってしまったこと。しかし、それが2010年からのインディカーへの扉を開くことになった。この扉を開いたのも佐藤自身の強い思いだった。

2010年のINDY JAPANで走行する佐藤琢磨選手

 インディカーデビューイヤーのカンザスはそのシーズン初のオーバル戦で、佐藤琢磨にとって初めてのオーバルでの実戦だった。佐藤は初めてのオーバルでの戦いに不安な思いを口にしていたが、「大丈夫だよ、今日の午後にはハイレーン(アウト側のライン)を通って、高速でブッ飛ばしているよ。琢磨さんならできるよ」と伝えた。彼の学習能力の高さと勇気があれば、きっとできるという確信があったからだ。

 そして、さらにこう付け加えた。「大丈夫だよ、琢磨さんならすぐに慣れるし、すぐにポールを獲って、優勝もして、そのうちインディ500でも勝てるようになるよ」と。「そんな持ち上げても何も出ませんよ、そんな簡単じゃないですから」と、佐藤琢磨は笑顔を見せた。でも、彼の言葉はどうあれ、「この人はきっとインディカーレーサーとして成功する」という強い思いが筆者になかにはあった。

 翌2011年、佐藤琢磨はインディカーで初のポールポジションをアイオワスのオーバルで獲得。短期間で結果を出せる学習能力の高さは、やはりただものではなかった。さらに、ロードコースのエドモントンでもポールを獲得し、多彩なコースに対応することを求めるインディカーに慣れてきたところを示した。

 2012年には、インディ500の最終ラップのターン1でトップを獲るべく果敢にアタックしたが、結果は外壁へ突っ込んで終わった。F1的な視点で見ていた人たちには、「なぜ2位を守らないのか」となったが、インディ500では優勝がすべて。勝利のために最後のチャンスにすべてを賭けた佐藤の勇気と姿勢は、まさにインディ500レーサーの伝統を受け継いでいるとして、アメリカのインディカーファンを魅了した。

 なかでも、インディ500最多優勝(4回)の“レジェンド”であるA.J.フォイトが佐藤を絶賛。佐藤は2013年からA.J.フォイトのチームで走ることになり、インディカーで伝説的なナンバーであるA.J.フォイトの「14」を受け継ぐことになった。これは、ニューヨーク・ヤンキースでベーブ・ルース、ルー・ゲーリック、ジョー・ディマジオの背番号を日本人が引き継ぐようなものだったし、日本の野球で言えばジャイアンツの背番号3を外国人選手が引き継ぐようなものでもあった。いかに佐藤への評価と期待が大きいものだったかを示すナンバー14だった。

 移籍早々の2013年、第3戦ロングビーチで佐藤はインディカー史上初の日本人による優勝も達成した。しかし、A.J.フォイトのチームは決してトップチームではなく、成績は乱高下し、苦戦も多かった。

2013年の第3戦ロングビーチでインディカー史上初の日本人優勝を飾った

 2017年、佐藤琢磨はAndretti Autosportに移籍。インディ500で強さをみせているチームへの移籍で、佐藤のチャンスが広がった。同時に、佐藤自身が積み重ねた経験による巧さが、フリー走行から出ていた。決勝直前の金曜日「カーブ・デイ」での最終調整のフリー走行でも2番手タイムとなり、ホンダエンジンではトップ。佐藤とチームが絶好調な様子だった。そして、第101回インディ500を日本人として初めて制したのだった。

 インディ500は、1911年から始まった歴史と伝統を誇るレース。アメリカではこのインディ500が開催される5月を「Speed Month(スピード・マンス)」とも言い、生活にも深く根ざした国民的なスポーツ行事になっている。その人気の高さは、NFLのスーパーボウルやメジャーリーグのワールドシリーズかオールスターゲームにも匹敵する。歴史と伝統と優勝の重みで言えば、ゴルフのマスターズでグリーンのジャケットに袖を通すこととも同様である。レースに興味のない人でも、大部分のアメリカ人はインディ500チャンピオンの名前は知っている。決勝日の観客動員数は毎年30万人をはるかに超え、最大では40万人にもなった。これは単日で開催されるスポーツイベントとして世界最大の規模で、ここでもインディ500の人気の高さを示している。

 インディ500伝統のボーグ・ウォーナー・トロフィーには、歴代のインディ500チャンピオンの顔のレリーフと名前が刻まれる。今年、そこに佐藤琢磨の顔と名前が加わることになった。ヒロ松下、桃田健史、松田秀士、服部茂章、中野信治、高木虎之介、ロジャー安川、松浦孝亮、武藤英紀。これまでも日本人がこのボーグ・ウォーナートロフィーを目指して挑んできた。佐藤琢磨が日本人初のインディ500チャンピオンとなったことは、「日本の先達たちの思いを引き継ぐ」という新たな伝統を創ることにもなった。

 佐藤琢磨は、自身の勝利によって次の世代の日本人のインディカー挑戦へのきっかけになることを願っているという。この勝利によって、インディ500とインディカーの歴史的意義と知名度がより広まることで、それも可能になるかもしれない。

 コロラド州の記者が、戦没者記念日直前の日曜日に日本人の佐藤琢磨がインディ500で優勝したことについて批判的なTweetをした。インディ500の開催地であるインディアナ州は、第二次大戦中に太平洋戦線に行って亡くなった人たちが多く、かつては反日的な傾向が強いとされていた。戦後、アメリカ人と結婚してインディアナポリスで長年レースフォトグラファイトグラファーとして活躍してきた日本人女性のカツエ・グラッドバックさんも、こうした現実を体感してきた1人。だが、今ではカツエさんをはじめ日本人たちの献身的な努力と社会貢献によって日本への悪感情はほとんどなくなり、好意的な思いが大多数となっているという。

 今回のコロラド州の記者にも多くの反対意見が集まった。佐藤琢磨の勝利のおかげで、時代と人々の心がよりよい方向に進化していることを示すことにもつながった。インディ500のベテランフォトグラファーとして特別な地位にあるカツエさんも、今年の佐藤琢磨の優勝を祈り、日本人ドライバーが初優勝したこととともに、この勝利が社会へのさらなる好影響があることもとても喜んでいた。

 大目標を達成してインディ500と日本との歴史のドアを大きく開いた佐藤琢磨は、現在40歳。だが、今の佐藤は心、技、体ともインディカードライバーして最高潮にあると言え、インディカーシリーズをまだ充分戦えるはず。なかでもインディ500は経験と知識に基づいた「勝ち方」を知っていることがより大切となり、他のインディカーシリーズのレースよりも選手生命が長いレースでもある。「勝ち方」を体得した佐藤琢磨なら、まだしばらくインディ500に挑み続けられるだろう。参戦体制さえよければ、佐藤琢磨の2度目、3度目のインディ500チャンピオン獲得も夢ではないはずだ。

 でも、今はこう声をかけてあげたい。「おめでとう! 見事でした! 素晴らしい! で……、カンザスで言った通りになったでしょう?」と。