メガウェブ「昭和のモータースポーツ名車展」見学記
「伝説の天才レーサー浮谷東次郎展」も併催


 アムラックス トヨタがお台場地区で運営する自動車テーマパーク「メガウェブ」(東京都江東区青海)。同館は3つの施設からなるが、往年の名車やレーシングカーなどを収集・レストアし、そして展示しているのがヒストリーガレージだ。ヒストリーガレージでは定期的に企画展を設けており、6月17日からスタートしたのが、2階の「昭和のモータースポーツ 名車展」と、1階の「伝説の天才レーサー浮谷東次郎展」。8月31日まで開催され、入場料は無料だ。

 今回の展示は、往年のモータースポーツファンに訴えると同時に、若者にもクルマ本来の楽しさを味わってもらうというコンセプトのもとに企画された。実車展示のほか、その時代のモータースポーツの模様を伝える写真展示や、映像コンテンツも用意されている。

2階にあるモータースポーツ名車展展示エリアエリアの奥には、展示車両の当時の資料映像を視聴できるコーナーもある
セリカ GT-FOUR(ST165)WRC仕様 サファリ優勝車(左)とトヨタ 2000GTスピードトライアル仕様(右)

モータースポーツ名車展では4台の車両を展示
 モータースポーツ名車展で展示されているのは、トヨタ自動車と日産自動車の往年のサーキットやラリーフィールドで活躍した名車たち4台。市販車としても人気のあった車を2台ずつ展示している。トヨタ車は、ヤマハ発動機との共同開発で誕生した「トヨタ 2000GT」の「スピードトライアル仕様」(1966年)と、90年代にラリーシーンで活躍した「セリカ GT-FOUR(ST165)」の「WRC仕様 サファリ優勝車」(1990年)を展示。

 2000GTは、映画「007」での活躍などでも知られ、今見てもその曲線的なデザインが魅力的に感じられる、日本初の高性能グランツーリスモだ。展示車両は、世界記録更新を目標に2000GTをスピードトライアル仕様にチューンした車両だ。

 2000GTは、高性能ながら使いやすさを併せ持った高級車というコンセプトから開発され、第12回東京モーターショー(1965年)でデビュー。レースでの好成績を得ることを大きな命題とされた1台だが、レースへの積極的な参加だけでなく、世界一の車であることを実証することを目指した。そこで挑戦したのが、世界記録の樹立だ。

 スピードトライアルは、1966年10月茨城県筑波郡谷田部町(現つくば市)にあった財団法人日本自動車高速試験場(現財団法人日本自動車研究所)の旧・谷田部自動車高速試験場で行われ、3つの世界記録と13の国際記録を達成し、その名を世界に知らしめた。樹立した世界記録は、平均速度206.02km/hでの72時間走行、1万5000km走行時の平均速度206.04km/h、1万マイル(約1600km)走行時の平均速度206.18km/hだ。特に第一目標としていたのは、1万マイルでの記録の達成だったが、それを果たした形だ。

 スピードトライアル仕様は、実はメガウェブではなく、トヨタ博物館の所蔵で、今回は拝借した形。2000GTというとホワイトのボディーのイメージがあるが、こちらはイエローのボディーにボンネットが濃いグリーンという目立つカラーリングとなっている。外見的には、ボンネット部分が通常の2000GTと異なっいるほか、、左リアタイヤの上にあるリアサイドウインドーもなくなっており、そこに電極が設けられている。後方には給油口が大きく突き出ている点も異なっている。

ツートンカラーに塗り分けられたスピードトライアル仕様。各所が市販タイプの2000GTと異なっている

 トヨタ車のもう1台は、「セリカ GT-FOUR(ST165)WRC仕様」。1990年のサファリラリーで、ビヨン・ワルデガルド(コ・ドライバーはフレッド・ギャラハー)がステアリングを握り、サファリラリーで初優勝したときの実車だ。

 セリカは、現在トヨタのラインアップからなくなっているが、1970年から2006年まで30年以上に渡って生産されたスペシャリティカー。“だるま”と呼ばれた初代TA22型からラリーフィールドで活躍しており、同車はデビュー戦となった1972年と、その翌年のイギリスのRACラリーでクラス優勝している。ST165型がデビューしたのは1988年のWRCツール・ド・コルス(フランス)で、まだ当時WRCにカテゴリーとして「グループA」があった時代。そのグループAで勝利するための必須条件として、2リッターターボ+4WDというパッケージングがあったが、それを満たした待望の車種がST165だったのである。当時、ランチア「デルタ インテグラーレ」の独壇場だったWRCだが、ST165はそれに真っ正面から挑んでいった。

 ST165は、1989年のオーストラリアラリーで初優勝を成し遂げると、1990年にはカルロス・サインツがドライバーズ・チャンピオンを獲得。市販車は、1991年にモデルチェンジをするが、WRCでは引き続きST165で戦い続け、その後継機種であるST185が1993年にトヨタ念願のマニュファクチャラーズ・タイトルを獲得している(1994年にはダブルタイトル獲得)。また、1995年には、ST185で藤本吉郎が当時WRCの1戦であったサファリラリーで日本人の初優勝を遂げた。

 なお、市販モデルのセリカ GT-FOURは、1986年10月にシリーズ初のフルタイム4WDスポーツとしてデビュー。4WDの機構はベベルギアのセンターデフ式フルタイムを採用し、最高出力185PS/最大トルク24.5kgmを発生する2リッターエンジンを搭載していた。

 展示車の特徴は、WRC仕様ということで、前面の4連ヘッドランプやコクピット脇のランプが目立つ。TTE(Toyota Team Europe)から参戦していたが、トヨタだけにスポンサーは国内企業も多く、EPSON、FUJITSU TEN、PIAAなどのロゴが見受けられる。また、タイヤはピレリ、ホイールはO・Z、オイルはレプソルという具合だ。

セリカ GT-FOUR(ST165)WRC仕様。増設されたライトなどラリー車ならではの装備を持つ
スカイライン2000GT レーシング(S54)(左)とフェアレディ 240Z サファリ優勝車(HS30)(右)

 日産(プリンス)車では、プリンス「スカイライン2000GT レーシング(S54)」(1964年)と「フェアレディ 240Z サファリ優勝車(HS30)」(1971年)を展示。

 スカイラインといえば、日産を代表する車種だが、もともとは日産と合併したプリンスが開発した車。プリンス自動車工業は、レースでの勝利が販売につながるという、当時の国内の自動車メーカーとしては斬新な考えのもと、「グロリア」に積まれていたG7型エンジンをスカイラインに搭載して2000GTを開発。日本グランプリ出場の公認を得るためだけにわずか100台をホモロゲーションモデルとして生産し、1964年5月の第2回日本グランプリに出場させた。

 レースは、レース専用車両として開発されたポルシェ「904GTS」(ドライバーは式場壮吉)が最終的には勝利を収めるが、一時は生沢徹のスカイライン2000GTがレースをリードする展開となる。これが未だに伝説として語り継がれる「スカイライン神話」の誕生の瞬間であった。結果は、2位から6位までをスカイライン2000GTが独占している(2位は砂子義一の39号車で、生沢の41号車は3位)。展示車両は砂子義一の39号車である。

 市販モデルのスカイライン2000GTは前述したとおり100台のみが生産され、第2回日本グランプ開催年の翌年、1965年2月に市販された。すでに発売されていた「スカイライン1500」をベースとしたが、グロリアの6気筒SOHC2リッターエンジンを搭載するためにはエンジンルームが不足していたため、ノーズを200mm延長。押し込むようにしてエンジンを搭載している。3基のダブルチョーク・ウェーバーキャブレター、前輪ディスクブレーキなどを装備し、「羊の皮を被った狼」と評された。なお、同年にプリンスは日産と合併し、9月には日産から圧縮比を落とし、キャブレターも1基に減らした「スカイライン GT-A」が発売されている。それにより、当初の100台は、「GT-B」と改称された。

 なお、スカイライン2000GT レーシングのみ展示が7月12日までとなっていて、7月14日~8月31日まで、日産「スカイラインGT-R レーシング(KPGC110)」(1973年)が展示される。2代目GT-R「ケンメリ」のレーシング仕様で、開発はされたものの、日産がレース活動を中止していたため、結局1度もレースに出なかったという「幻のGT-R」と呼ばれた1台だ。

スカイライン2000GT レーシング。第2回日本グランプリでの2位入賞車

 最後は、フェアレディ240Z サファリラリー(1971年第19回大会)優勝車(HS30)。HS30型のフェアレディ240Zは、ダットサンブランドで出場。直列6気筒OHCのL24型エンジン(排気量2497cc)を215馬力にチューンアップしており、1971年の第19回大会は3台が参戦し、11号車のエドガー・ハーマン/ハンス・シュラー組により総合優勝を成し遂げている。このときは2位にも240Zが入り、初年度から1-2フィニッシュを達成している。1972年は5位、6位と表彰台に届かなかったが、翌年の第21回大会は再び総合優勝(1号車S・メター/L・ドリューズ組)を飾ったほか、2位にブルーバード(9号車H・カールストローム/C・ビルストラム組)が入るなど、日産は5冠(総合、チーム、3つのクラス優勝)を達成している。

 そのほか、240Zはダットサンブランドとして、当時、サファリ、RACと並ぶ3大ラリーといわれたモンテカルロラリーにも挑戦。1971年の第40回大会は3台が参戦して最高位は総合5位、クラス2位(62号車ラウノ・アルトーネン/ポール・イースター組)。1972年の第41回大会は2台体制参戦し、5号車ラウノ・アルトーネン/ジーン・トッド組が3位入賞を果たした。1973年の第42回大会も2台体制で挑み、17号車トニー・フォール/マイク・ウッドが9位を獲得している。

 フェアレディ240Zは、初代フェアレディZのS30系に属する車。市販車は、S30が1969年にオープンスポーツカーの「フェアレディ」の後継車として発表され、1970年11月から発売がスタートした。アメリカで大変な人気となり、北米市場で先行投入されたのが、L24型エンジンを搭載した240Zシリーズだ。国内には1971年11月に導入されている。1974年1月にはホイールベースを延長して後部座席を設けた4人乗り仕様を加えた。

フェアレディ240Z サファリラリー(1971年第19回大会)優勝車。ボディー各所に凹凸があり、戦いの激しさを物語る

伝説の天才レーサー浮谷東次郎展
 若い世代のレースファンで浮谷東次郎の名を知る人は、それほど多くはないのではなかろうか。1965年8月21日にわずか23歳という若さで、しかもレーシングドライバーとしてはたった15カ月しか活躍せずに、鈴鹿サーキットでの練習中の事故が原因(コースにいたドライバーとマーシャルをよけたために自らが大クラッシュ)でこの世を去ってしまったからだ。その彼が生前のレース活動で乗り込んだ車両や写真、トロフィー、そして足跡などを展示したのが、「伝説の天才レーサー浮谷東次郎展」だ。ヒストリーガレージの1階で、8月31日まで展示が行われる。

 展示車両は、トヨタ「スポーツ800」20号車(レプリカ)、ロータス「エラン」19号車の2台と、彼が15歳の時に行った東海道単独旅行で乗ったドイツ製の2輪車クライドラー「K50」(当時は14歳で免許を取得できた)の3台だ。

伝説の天才レーサー浮谷東次郎展。当時のモノクロ写真が多数飾られている展示はヒストリーガレージの1階。すぐ外は、試乗コース「ライドワン」のルートの一部トロフィーや原稿執筆に利用したタイプライターなども展示

 ヨタハチことスポーツ800(20号車)は、1965年7月に船橋サーキット(1967年に閉鎖)で開催された第1回全日本自動車クラブ選手権レースのGT-Iクラスで優勝した際に浮谷が乗っていた車両のレプリカ。このレースでは、序盤に浮谷は接触して大きく出遅れるが、大逆転の優勝を遂げている。なお、大の親友でもあった生沢とは、全日本自動車クラブ選手権レースで激戦を繰り広げ、往年のレースファンには未だに語りぐさになっていると言う。

浮谷東次郎が駆ったスポーツ800。展示車はレプリカ

 一方のロータス「エラン(26R)」はレース用に120馬力までチューンされたレーシングモデル。浮谷がスポーツ800で出走した第1回全日本自動車クラブ選手権のGT-Iクラスレースの4時間前に開催された、GT-IIクラスで彼がドライブして優勝した際の実車だ。

 K50は、浮谷が親に購入してもらい、15歳のときソロツーリング「東海道単独旅行」で使用した50ccバイクだ。千葉の市川から大阪まで1500kmの旅で、後に「がむしゃら1500キロ」という記録本にしている。その旅の途中でで、道ばたでスイカを売っている少女の姿を見て、浮谷は衝撃を覚え、親のお金でゆうゆうと旅行している自分が情けなくなり、必ず何かを生み出す存在になろうと決意したと言う。

このエランは実際に浮谷がレースで使用した車クライドラー K50

 伝説の天才レーサー浮谷東次郎は、短い人生、短いドライバー生活を送ったが、この特別展はそんな彼の生き様を垣間見られる展示企画となっている。

 

(デイビー日高)
2009年 6月 22日