【ブラジルGP】
来期も楽しみなマッサとハミルトンの戦い

 2007年に続いて、2008年もチャンピオン争いは最終戦にもつれこんだ。ルイス・ハミルトンがライバルに7点リードで優位に立つのも、昨年同様。ただ、ハミルトンに挑むのは、昨年のキミ・ライコネンと代わって、今年は同じフェラーリのフェリペ・マッサだった。

余裕のハミルトン、ホームゲームのマッサ

 

今年もチャンピオンシップで争いで優位に立つハミルトン
 昨年は圧倒的優位のなか、ハミルトンのマクラーレンMP4-22が突然失速。これでライコネンが逆転チャンピオンとなった。今年、マクラーレンは、日本GPの頃から「最後まで万全な体制で戦う」とチームを引き締めていた。

 マッサが優勝しても、ハミルトンは5位以内ならチャンピオンになれる。この楽な展開でも以前のハミルトンは、優勝狙いの走りをした。だが最終戦は、ポイント計算をする走りに徹するとした。常に優勝を狙う一本調子のやり方から、歴代チャンピオンがやってきた「(王座を獲るための)勝ち方」を意識するようになっていた。ただし、これはライバルの出方、相互の順位とポイント、自分の状況と順位と考える要素が増えて、冷静にならないと集中を乱されやすい立場でもある。

 一方、マッサにはもう後がない状況だった。優勝か2位がチャンピオンへの絶対条件。だが、ハミルトンの順位で左右される立場だった。マッサは攻めるしかなく、逆に目標を絞って集中しやすい立場でもあった。

 マッサは自信があった。ブラジルGPの開催コースは、レーシングカート時代からプロドライバーとして育ったまさにホームコースだったからだ。しかも、マッサは地元の大声援を自分の力と集中力を高める能力をもっていた。この点では、同じサンパウロ出身のアイルトン・セナがF1初優勝から地元ブラジルGPで優勝まで6シーズンかかっているのに対して、マッサはF1初優勝の翌年2007年には地元優勝を達成。このとき、ブラジルの大統領から表彰され、勲章を受章していた。

雨がすべてを決めた

 

成長著しいマッサ
 マッサは初日から攻めの走りを展開し、予選でもポールポジションを獲得。対するハミルトンは4番手につけた。

 今年のブラジルGPは、チケットが売り切れだった。大部分が、地元インテルラゴスサーキット出身のマッサの逆転王座獲得を願っていた。満員のサーキットはレース前から大盛り上り。ブラジルGPならでは光景だったが、今年はそのボルテージがよいりっそう高まった。1991年にチャンピオンのセナが地元凱旋したとき。1972年にF1史上最年少チャンピオン(当時)になったエマーソン・フィッティパルディが、翌年地元優勝したとき。現在インテルラゴスサーキットの正式名に名を残す地元出身ドライバーのジョゼ・カルロス・パチェが、生涯1度の優勝を地元で決めたとき。かつての地元のヒーローを全力で声援する熱気がブラジルGPに戻ってきた。

 スタート直前に強い通り雨が降った。これでスタートは10分延期。気象条件の変化が宣告された。これで全車がフロントウイングの角度とプレーキとラジエーターの冷却ダクトの変更が可能となり、ウェットタイヤも装着可能になった。

 フォーメションラップでクビサがピットへ向かい、ウェットタイヤからドライタイヤに変更。それ以外は全車ウェットタイヤでスタートした。マッサは、誰も追い付けないハイペースで逃げた。ミスのない完璧な走りだった。「雨になるとダメになる」。こんなマッサの定評は、過去のものになっていた。集中力が研ぎ澄まされたときのマッサのよさがいかんなく発揮されていた。

 一方、ハミルトンはチャンピオン最低条件の5位をキープしていた。マッサがトップである以上、ハミルトンの王座獲得は5位以上が絶対条件だ。ハミルトンもマクラーレンチームもできれば、最低条件ギリギリの5位より上位に付けて、精神的に楽な戦いをしたいはずだったが、それはできなかった。ハミルトンの前には、フェラーリのキミ・ライコネンが待ち構えていたからだ。

 王座防衛のチャンスがなくなったライコネンは、前の中国GPでもマッサを先行させるなど、フェラーリの伝統に従ったチームプレーに徹していた。今回も、ハミルトンが接近すればマッサ防衛のためにライコネンは徹底的な抵抗をすることが目に見えていた。そのため、ハミルトンは終始ライコネンとの間隔を開けた5番手で、後続からの攻撃をかわすしかなかった。

 路面が序盤にドライに変わると、マッサはさらにペースをあげ、独走態勢を築いた。しかし、残り8周で再び雨が降り始めた。

 大部分のチームがウェットタイヤか、より排水性の高いエクストリームウェザータイヤに交換した。だが、トヨタは7位のティモ・グロックと8位ヤルノ・トゥルーリをピットに入れず、ドライタイヤで走行継続を指示する賭けに出た。これでグロックとトゥルーリは4位と7位に浮上。グロックの浮上と、セバスチャン・ベッテルに抜かれたことで、ハミルトンは6位に転落。マッサはトップのまま。王座の権利はハミルトンからマッサに移り、サーキット中が沸いた。

 しかし天候については大部分のチームの読みが正しかった。雨脚がより強くなり、ドライタイヤのトヨタ勢はマシンのコントロールも難しくなっていた。グロックは最終ラップの最終コーナーで大きく失速。残り数百mでハミルトンは再び王座の権利を手にして、チェッカーを受けた。23歳のハミルトンは、2005年にファルナンド・アロンソが24歳で記録していたF1最年少チャンピオンの記録をさらに更新した。

敗れても期待できるマッサ

 この記録だけでなく、今回はF1史上に残る名勝負となった。ハミルトンは薄氷を踏む思いでの王座獲得だった。マッサとはわずか1点差でのチャンピオンだった。7点のリードは1点に減ったが、ハミルトンは勝ちを狙う一本調子の戦いではなく、前後とライバルの状況とポイントを考えたクレバーな走りを見せた。そして、ギリギリの線で踏み止まり続けるという、最も精神的に厳しい状況で、大きなプレッシャーに打ち勝っていた。速いドライバーから勝てるドライバーに、ハミルトンはより成長した。

 最後のチャンスに全力で戦い敗れたマッサ。今季はシンガポールGPでのピットのトラブルなど、フェラーリチームにも大きなミスが目立った。これが、マッサを苦しい立場に追い込んだ。だがマッサは、ゴール直後に涙声の無線で、ともに戦ったチームの労を真っ先にねぎらった。

 「今年は、勝ち方も負け方も知り、多くの事を学んだ」と言うマッサは、ドライバーとして大きな成長をした。

 マッサはフェラーリが育成したドライバーで、2002年にF1デビューしたときも、エンジンとセットでザウバーチーム(現BMWザウバー)にレンタルされていた。その当時も、速さと反射神経の鋭さに輝きを放っていた。ただ、レース全体のまとめができなかった。

 2003年、フェラーリに呼び戻されたが、「リザーブドライバー」という名の飼い殺し状態だった。マッサは、毎戦パドックでふてくされていた。「早くフェラーリでレースに戻るべきだ。君は速いし、きっと勝てる」と僕は当時のマッサに声をかけた。仏頂面でけんか腰だったマッサは、うれしそうに微笑んでいた。

 マッサは、2004、2005年にザウバーでレース復帰。2006年にフェラーリで戦うことになると、トルコGPで圧倒的な大差で初優勝をした。だが、それも祝福されなかった。当時ミハエル・シューマッハーがアロンソとチャンピオンを争っている最中で、マッサの初優勝は「空気を読んでいない」とまで言われた。

 心無い言葉はこれだけではかった。エースのシューマッハーへの支援役として能力不足。自分の役割をきちんと果たしてない。バッシングだらけだった。とくにイタリアのメディアは厳しかった。2006年に、フェラーリのモーターホームで行われたイタリアメディア向けの会見を見たが、それは会見というより、言葉によるつるし上げか、袋叩きだった。イタリア系ブラジル人のマッサはイタリア語も母国語のように扱えるため、この言葉の暴力もすべて受け止めなければならなかった。だが、マッサは冷静な態度で「皆さんがそう思うのであれば、僕の努力が足りないのでしょう。努力はしていますが、僕は皆さんの期待に応えられるようにもっと努力しないといけない」と対応していた。攻撃的なイタリアのメディアの輪の後ろで僕は「成長したな」と思って見守っていた。会見が終わるとマッサは、こちらに来て肩をポンと叩くと、笑顔を見せた。

 あれからさらに2シーズン。マッサはさらに成長した。その影には、シューマッハーの親身な指導もあった。マッサは、今回敗れた。だが、その将来に大きな期待を抱かせる存在になった。

円熟味を見せたベテラン陣

 

ルノーの戦闘力を高めたアロンソ
 ハミルトンとマッサという若い新世代による白熱の王座争いだったが、表彰台の2位と3位にはアロンソとライコネンのチャンピオン経験者が占めた。どんな条件でもきちんと結果を出すこと。2人の王者経験者はそんなことを、新世代ドライバーに態度で示しているようだった。

 アロンソは、戦闘力で劣るマシンをチームとともに改良を重ねて、優勝や表彰台が可能なレベルにまで仕上げてみせた。

 ライコネンは今季序盤に2勝したものの、途中マシンのトラブルなどで苦戦。モチベーションが切れたような時期が続いた。だが、最終戦は王者ライコネンらしさが戻っていた。レースの3分の2は、ハミルトンのけん制役に徹していたが、ハミルトンが5位のままでマッサの王座が厳しいとチームが判断すると、制約を解かれたライコネンは俄然ペースを上げ、3位を勝ち取った。これでライコネンはクビサと並ぶ75点に浮上。優勝回数の差で、ライコネンがランキング3位を獲った。終盤のライコネンは、得点、ランキングとすべてを考えての王者の戦いぶりと、ライコネンならではの鮮烈な走りだった。

 

今季でF1から退くクルサード(写真:Red Bull Racing - GEPA)復活? ライコネン
 

 一方、最終戦が厳しいものになったドライバーもいた。15年に渡るF1ドライバー生活からの引退を表明していたデビッド・クルサードは、スタート直後の混乱で0周リタイヤ。クルサードがスピンしてからんだ相手は、中嶋。日本GPのデジャブーのようだった。

 昨年F1デビューしたコースで、中嶋も成長ぶりを見せていた。予選では日本GPと同様ニコ・ロスベルグよりも速いタイムを出した。富士スピードウェイは中嶋の育ったコースで、中嶋に多少のアドバンテージがあると見られていた。だが、ブラジルは互角の条件での予選アタックだった。ゆえに中嶋への期待も高まった。だが、クルサードと接触。

 8周目に燃料を補給したとはいえ、中嶋は遅かった。通常決勝のレースペースでは、中嶋はロスベルグとほぼ同等だ。だが、今回はロスベルグに離されていた。そこで私はマシンのダメージを疑った。現代のF1はとても繊細で、ちょっとした接触でサスペンションやボディがわずかに狂っただけで、とても操縦しにくいものになるからだ。マシンがはねるくらいの接触だったので、ダメージがあったと見るほうが当然だった。やはり中嶋は「(接触で)ボディとサスペンションに多大なダメージを受けて、レースペースに大きく影響してしまった」とレース後にコメントしていた。1年間の集大成の走りはできなかったが、予選巧者と言われるロスベルグと互角のアタックができるようになったことで、中嶋の成長が確認できた。

 新世代の王者ハミルトンとライバルのマッサ。王者アロンソとライコネンの復活。そして、今季はクビッツァ、フェテル、コバライネンが初優勝も記録。「皇帝」と賞賛されたシューマッハーが去って2年で、F1はその歴史に、新たな主役達による新たな章を加え始めた。来年は、マシンの規定も大きく変わり、この新たな章にもさらに興味深いストーリー展開が加わるだろう。

URL
FIA(英文)
http://www.fia.com/

(Text:小倉茂徳 Photo:奥川浩彦)
2008年11月7日