編集後記(2011年1月21日)

作業中

小林 隆


 親にはそんな意図は毛頭なかったはずだが、スカイラインの開発者と同じ名前をもらったことは、小学生の頃から今にいたるまで僕のほぼ唯一の自慢の種であり、大きな心の支えだ。あっちは眞でこっちが真なんてのは誤差の範囲内だ。Car Watchに移って真っ先に、いつか本物の櫻井眞一郎に会えるかも、と思ったのだが、それは叶わぬ夢になってしまった。

 自分は今でこそ輸入車かぶれと思われているが、実を言えば本当のアイドルは櫻井スカイラインだ。横井くんのお父さんのハコスカ(エンジンが2.8リッターになっていて“すげーはえー”という噂だった)も、すみちゃんちのケンメリも、団長のマシンXも、ヤギ先輩の鉄仮面も、どれもが羨ましかった。我が家のセドリックがスカイラインになる夢を何度も見たし、父には何度も乗り換えを進言したが、そのたびに「スポーツカーはなぁ」「小さいクルマはなぁ」と却下されたのだった。

 子供の頃は技術者が文学的であるはずがないと思い込んでいたので、あれはたしか高校生の頃だったと思うが、R30の開発に際して櫻井氏が記したコンセプトストーリーを読んだ時には、大いにショックを受けた。それ以来、それがどんな分野であれ、何かに秀でた人は文章がうまい(もしかしたら一部の自称文学者よりも)、という法則を信じている。

 残念なことに櫻井スカイラインのオーナーになる機会はなかったし、旧車趣味はないのでこれからもオーナーになる可能性は低い。しかし、今の我が家のクルマであるBMW 320iは、現代の櫻井スカイラインと思って手に入れたのである。「直列6気筒、FR、マクファーソンストラット+トレーリングアーム、3ボックスのスポーツセダン」というフォーマットこそ最高のクルマだと擦り込まれ、未だその呪縛から自由になれないでいる。甲斐性がなくて6気筒は手に入らなかったし、時代の流れでトレーリングアームはマルチリンクになったが、それも誤差の範囲内ということにしておこう。

 スーパーカーブームの洗礼を受けてなお、流麗なV型12気筒のミッドシップよりも、四角い直列6気筒のFRのほうが魅力的に見える奴がいることこそ、櫻井スカイラインの偉大さの証ではないかと思う。

田中真一郎


 小・中・高と住んでいた三鷹市は、よくスバルの地元と言われます。確かに中島飛行機の工場がかつてあった関係でスバルの施設はあれこれあるのですが、やはり中島の末裔であるプリンス自動車工業の工場があったこともあって、日産のディーラーチャンネルはすべて存在していました。

 その中でも最大のディーラーだったのが狐久保の日産プリンス。ジャパンの発表会のときに親と一緒に行き、親がTIとサニーを最後まで悩み、結局自宅の車がサニーになったことは強烈に記憶に残っています。

 また、ジャパンターボデビュー時にもらった横長のターボカタログは当時珍しかった変形カタログで、ターボに関することはこのカタログで覚えてしまいました(セドグロやブルーバードのカタログは、ターボの解説が少なかった記憶があります)。

 中学生のときには、どっぷりカタログ集めにはまっていたせいで、3カ月に一度はプリンスのディーラーへ。スカイラインのカタログには櫻井氏のメッセージがあり、特別なクルマなんだなと子供ながら理解していました。C211、R30、R31と、知り合いや友人のクルマに乗せてもらうたびに、自宅のサニーの4気筒とは違う大きさを感じ、あこがれのクルマの一つであったように思います。

 氏のご冥福をお祈りします。

谷川 潔