【特別企画】輸入車が切り開いた戦後日本の自動車文化(前編)
道交法もなかった時代にメルセデス・ベンツを輸入したヤナセ


今から60年前の1952年、ウエスタン自動車がメルセデス・ベンツの輸入を開始した。当時創業から38年目のヤナセは、すでにGMとの契約があったため、メルセデス・ベンツは子会社であるウエスタン自動車が取り扱った。後に輸入をウエスタン自動車が、販売をヤナセが行う体制へと変わっていった

 世界でトップを争う自動車メーカーがひしめく日本。産業、ライフスタイル、文化、様々な側面で、自動車は日本の社会に根付いている。それどころか、情報通信技術を活用した社会インフラの構築においては、リーダーシップを発揮する立場にあると言ってよいだろう。

 “現在”というタイムフレームの中で考えると、それは当たり前のことと感じるかもしれない。しかし、60年前は違った。日本車は性能、機能、品質などの、あらゆる面で未成熟。一般消費者にとっても、“クルマ”は特別な存在で、文化として社会に根付いていなかった。

 その日本において、自動車文化が大きく花開いてきた背景には、当然、日本の自動車メーカーが世界的なブランドへと成長してきた事実がある。しかし、そうしたハードウェアとしての進歩だけで、自動車文化は語ることができない。自動車販売網やメンテナンス網、交通ルールの整備など、ソフトウェア面での進歩も見逃せない視点だ。

 今回の記事では、まだ国産自動車が産声を上げたばかりで、世界のレベルに追いついていなかった時代、輸入自動車の販売を通じて、そうしたソフトウェア面の整備で日本の自動車産業における先頭を走ってきたヤナセの歴史に着目。自動車の輸入販売を通じて、日本の自動車文化が発展してきた歴史を振り返ってみたい。

現在も続く日本自動車ジャーナリスト協会(AJAJ)の創設メンバーの一人でもある山岸秀行氏

 四半世紀にわたり日本のメルセデス・ベンツの総輸入代理店を務めたヤナセのグループ会社、ウエスタン自動車でメルセデス・ベンツのビジネスに携わる一方で、日本で最初期のモータージャーナリストとしても活躍。モータリゼーションが進んでいく中で、ヤナセとメルセデス・ベンツが相互を高め合うプロセスを目の当たりにしてきた山岸秀行氏(ペンネーム:成江淳氏)に話を伺った。
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 冒頭で“60年”という数字を紹介したが、実はヤナセがメルセデス・ベンツを取り扱ってから、今年でちょうど60年になる。今では輸入車の代表的なブランドとなったメルセデス・ベンツだが、輸入された60年前は、高速道路どころか道路交通法さえなかった時代。現在の日本とは道路事情、社会背景がまったく異なっている。戦後の輸入車の歴史を振り返ってみると、そこには新鮮な驚きがある。

 ヤナセは、三井物産から輸入自動車、輸入鉱油類の販売権を譲り受けて始まった。戦前からGM(ゼネラルモーターズ)のビュイック、キャデラックなど高級車を輸入していたが、太平洋戦争の勃発で事業は中断される。

1915年(大正4年)にヤナセが初輸入したビュイック当時の本社前。ビュイックのシャシーにヤナセで製作したトラックボディを乗せていた国産のパーツを集めて作ったヤナセオリジナルの自動車「ヤナセ号」
後に欧米車を日本に広めた功績が認められ米国自動車殿堂入りすることとなる梁瀬次郎氏(写真右)

 中興の祖となった二代目の梁瀬次郎氏(1916~2008年)は、終戦後に輸入車事業を再開させた。しかし、戦後、連合軍の管理化に置かれた日本で、自動車輸入が完全自由化されるのは1965年(昭和40年)のことだ。山岸氏がヤナセに入社した1958年(昭和33年)は、まだ輸入制限が存在したと語る。

 「まだ、私がヤナセに入社する前のことですが、終戦直後、首相が移動するときに使われていたのが大排気量8気筒エンジンのキャデラックなどのアメリカ車でした。そしてそれを新聞記者が追いかけながら取材するのですが、輸入制限がある時代ですから記者が使うのは国産車。ところが、無理してスピードを出そうとしているわけではない首相のキャデラックに、どんどん引き離されて追いつけず、そのうち見失ってしまう。それぐらい当時はまだ国産車の性能が低かったんですよ」と山岸氏。

 その後、日本政府は徐々に自動車輸入に対する制限を緩和していくが、最初に解禁されたのが報道機関向けの輸入車販売だったという。政府は報道機関に輸入車購入目的の外貨割り当てを始め、当初はGMの車を導入していた。しかし、GMだけでは車種ラインナップや日本向けに割り当てられる台数が不足していた。

 こうした背景があり、当時はちょっとした自動車輸入業のブームになっていたという。イギリス、イタリア、ドイツなどの様々な自動車メーカーを評価したが、ヤナセが最後に選んだのがメルセデス・ベンツだった。

「報道機関向けですから、実用性と性能の両立が必須です。ジャガーは性能はよいけれどスポーティすぎるし、アルファ ロメオやランチアはスポーツカー。ではどれが適しているのか?と評価していって、最後に残ったのがメルセデス・ベンツでした(山岸氏)」

 “アウトバーンで鍛えた”というフレーズは、かつてドイツ車を紹介する時の決まり文句だったが、日本車の性能不足に悩まされていた当時、まさにメルセデス・ベンツは“アウトバーンで鍛えられた”性能と居住性の高さの両面で注目されるようになったのである。

ヤナセが初めて輸入したメルセデス・ベンツ1954年にオープンしたウエスタン自動車京都出張所1957年当時の新聞広告

 しかし、明確な目的、理由がなければ外貨割り当てが行われない時代背景にあって、輸入自動車の市場には、大使館、進駐軍、報道機関ぐらいしか顧客が存在しない。それでもメルセデス・ベンツの高性能や高品質は、瞬く間に富裕層に伝わり、本格的な自動車輸入制限解除を前に、少しずつ一般市民にも輸入車が割り当てられるようになる。

 “特別割り当て”と呼ばれた一般市民への輸入車販売は、オークション形式で自由入札。ごく一部の人たちだけが輸入車を手に入れたのだが、メルセデス・ベンツに対する性能、品質の評判はここでさらに高まっていったと山岸氏は振り返る。

 「当時の輸入車は簡単に買えるものじゃありませんから。名も金もある人だけがメルセデス・ベンツを買えたんです。そして手に入れてみると、国産車とは全く違う品質。これはスゴイと評判になるけれど、それを体験できる人はごく一部です。こうしたことも、メルセデス・ベンツというブランドが日本人にとっての憧れへとつながった側面はあると思います(山岸氏)」

 そして、1965年に自動車輸入完全自由化が実施される頃には、富裕層にはメルセデス・ベンツのよさについての評判が定着していった。日本が終戦後に急速な立ち直りを見せる中で、欧州にビジネスマンが赴任する機会が増え、現地の高速道路でメルセデス・ベンツを走らせた時の体験を語る人が増えていったことも、こうした状況を後押しした。

 ところが、規制が解けても「商売には、ほとんどならなかったんですよ」と山岸氏。日本市場が重視されていなかったこともあり、日本向けに割り当てられた台数は年に数十台だけ。欲しいと注文を出しても、納車までには数カ月から、長い場合は1年ほど待たなければ入手できなかった。これでは“商売にならない”と嘆くのも当然だ。

 さて、こうして話を聞かせていただいた山岸氏は、この頃、ご自身がヤナセでメルセデス・ベンツのマーケティングを担当していた。時は1968年(昭和43年)のことである。新車のカタログ製作を担当する中で、顧客はクルマに対して何を求めているのかを考え、それをヤナセの業務と照らし合わせながら、顧客満足度を高める工夫を始める。

 年間数十台しか割り当てがない中でビジネスを成立させるために、1台あたりの価格を引き下げることはできない。そもそも、価格を下げたところで急に輸入量を増やせるわけでもない。山岸氏はカタログ製作で経験を積む中で、メルセデス・ベンツを買い求める顧客層がどのようなニーズを持っているかを徹底的に研究していった。

 ヤナセは、高価でもよりよいクルマが欲しいという顧客志向に合わせて、メルセデス・ベンツの高品位、高級感に見合う顧客サービスの充実こそが、満足度を高めていくために最善だと確信するようになる。では、高価ながら高品位で高級感のある商品を、その価格やブランド力に見合う商品にするにはどうすればよいのか。

 「最初の1台を売るのは営業の仕事ですが、2台目以降も指名してもらうには、クルマ自身の品質に加え、サービス対応が優れてなければならない。そうヤナセは考えたんです」と山岸氏。もともと、GMの高級車を販売する販売店ネットワークを全国に巡らせていたヤナセは、メルセデス・ベンツの販売と整備体制を徹底して強化することで、顧客との関係強化を図った。

輸入したクルマは1台ごとにダメージチェックを行うGMで培ったヤナセの販売網とサービス網を活用し、クルマを買った後も安心できるサービスを提供していった

 ヤナセとメルセデス・ベンツ。この2つのブランドが結びつき、信頼と品質のブランドとして、70年代から80年代にかけて、相互にブランドを高め合ったことは、クルマ好きならみんなが知っていることだ。ジャーナリストとして両ブランドの成長を見つめてきた山岸氏は、ヤナセがメルセデス・ベンツをリスペクトし、クルマの販売や整備サービスを通じて、常に顧客に最高の価値を提供することを意識し、メルセデス・ベンツのブランドに見合うものに高めていこうとしていたからだと指摘する。

 「1926年にダイムラー・モトーレン・ゲゼルシャフト社とベンツ&シー・ライニッシェ・ガスモトーレン・ファブリーク社が一緒になり、メルセデス・ベンツが生まれたとき、ゴットリープ・ダイムラーが言った、“Das Beste oder nichts(Best or Nothing)”。ヤナセは自らが行う仕事として、これを顧客に対して実践しようとしたんですよ(山岸氏)」

 日本語訳は難しいが、意訳するならば「最高のクルマでなければ意味がない」だろうか。顧客に対して最高の製品を届けたい。ライバルがどんなに安価で人気のある製品を作ろうとも関係ない。自分たちが作りたいものは、今、届けられる最高のものなのだ。誰にも追いつけない、自分たち自身が納得できるクルマを徹底して作り込んでいく。

 そんなメルセデス・ベンツの“意気”を、販売とサービスに置き換えて実践してきたことが、相互のブランドを高め合ったとの見方だ。その言葉を証明するように、ヤナセとメルセデス・ベンツは、不可分とも言える強い関係で結ばれるようになった。

 それは1986年、メルセデス・ベンツ日本が設立され、ヤナセの役割がメルセデス・ベンツの輸入販売から、純粋な販売会社という位置付けに変化してからも、ずっと長い間「ベンツならヤナセ」というイメージを保っていることからも分かるだろう。ヤナセが販売したメルセデス・ベンツの累計台数は、73万台にも達している。東京・世田谷に日本最大級のメルセデス・ベンツ専門のショールームを建設するなど、ヤナセのメルセデス・ベンツへのコミットメントは、今でもまったく揺るぐ様子がない。

 後編では、その強い結びつきが、どのように生まれてきたか、近年の関係について振り返り、“これからのヤナセとメルセデス・ベンツの60年”について話をしていきたい。

(本田雅一)
2012年 8月 27日