惜しまれつつF1から撤退するブリヂストン
F1日本グランプリで軌跡をたどる展示やステージを実施


グランドスタンド裏に設置されたブリヂストンブースで行われていた「F1 CHALLENGE 軌跡展」。左に見えるステージではブリヂストン MS・MCタイヤ開発本部フェロー 浜島裕英氏によるトークショーが行われている

 F1日本グランプリを開催中の鈴鹿サーキットでは、グランドスタンド裏に設置されている物販ブースで、F1関連の各種グッズが販売されているほか、F1関連の企業による各種の展示などが行われていた。

 本記事では、そのなかでも最大のブース展示を行っていた、ブリヂストンブースの模様を中心にグランドスタンド裏の模様をお届けする。なお、取材日である土曜日(10月9日)は、土砂降りの雨のため予選がキャンセルされることになった。

 ブリヂストンはすでに今年の最終戦を最後にF1から撤退することをすでに発表しており、鈴鹿でのF1参戦も今年が最後になる。そのブリヂストンのブースでは「F1 CHALLENGE 軌跡展」と題した展示を行っており、同社のF1挑戦の歴史を年度ごとに解説したパネルや、実際にF1で使用したタイヤ、F1参戦以前にF1タイヤのテストに使用されたテスト車(リジェ・無限ホンダ)、2005年のフェラーリF2005などのブリヂストンが所有しているF1マシンを展示し、多くの来場者を集めていた。


本格的な参戦を模索していた70~90年代前半
 ブリヂストンのF1参戦は、1976年と1977年に富士スピードウェイで行われた「F1 in Japan」(当時日本グランプリの名称が別のレースで使われていたため、こうした名前になった)に、星野一義選手(現インパル代表)ら日本人ドライバーとともに参戦したのが最初となる。特に大雨となった1976年のレースでは、星野選手が一時3位を走りながら、ピットインしたときに交換するタイヤ(ブリヂストンの展示によればホイール)がなくなってしまい、残念ながらリタイアせざるを得ないという惜しいレースを展開した。

 ただし、この時の参戦はあくまでスポット参戦というべきもので、その後シリーズにレギュラーで参戦するという流れにはならなかったが、雨のレースでブリヂストンのタイヤが高いパフォーマンスを発揮したことは多くの関係者にインパクトを与えたのだ。そうした流れのなか、ブリヂストンはヨーロッパのF2へと参戦し、ホンダエンジンと共に1983年、1984年とほぼ完勝に近い状態で、ヨーロッパでもやれるという大きな自信をつかんだのだった。

 その後ブリヂストンは、1980年代後半から1990年代の前半にかけてF1タイヤのテストを国内で繰り返した。このテストには星野一義選手など、日本のトップドライバーが動員され、タイヤテストが繰り返し行われたのだった。

 そして万を持して、1996年に翌年からのF1参戦を発表し、リジェから実際のF1マシン(リジェJS41-無限ホンダ)を購入し、それにブリヂストンのF1タイヤをつけて世界各地のサーキットでテストを行った。今回展示されたテストカーというのが、そのリジェJS41-無限ホンダで、ブリヂストンのコーポレートカラーに塗られてテストが行われた。

ブリヂストンの「F1 CHALLENGE 軌跡展」で掲示されたパネル。年代ごとにF1におけるブリヂストンの歴史が表示されていた1976年、1977年にはF1 in Japanにスポット参戦し、星野一義選手ら日本人選手にタイヤを供給本格参戦前にテストに利用されたリジェJS41-無限ホンダ

1997年に本格的に参戦を実現し、1998年には念願の初優勝と初タイトルを獲得
 1997年にF1に本格的な参戦を開始したブリヂストンだが、当初は下位チームとのみの契約で、上位チームはいずれも米国のグッドイヤーに押さえられており、車の出来が結果を左右するF1ではかなり厳しい状態だったのだ。展示会場の隣のメインステージに登場した、ブリヂストン MS・MCタイヤ開発本部フェローの浜島裕英氏は「この当時上位チームはライバル社に押さえられていたので、我々はピンポイントで性能を発揮するタイヤを目指して開発し、それが成功した」と、当時のタイヤ開発の方針などを語った。

 要するにオールラウンドな性能を持つタイヤを目指すのではなく、特定のサーキットなどでよい結果を残せるようなタイヤを作り、その印象を元に翌年以降の上位チームとの契約を目指すという戦略だったのだと思う。

 実際それは成功した。例えば、参戦2戦目となるブラジルグランプリで、プロストAP1-無限ホンダに乗るオリビエ・パニス選手がいきなり表彰台となる3位に入賞し、注目を集めた。さらに夏場の暑い時期に開催されるハンガリーグランプリでは、それまで入賞もおぼつかなかったアローズ-ヤマハに乗る前年度(1996年)のチャンピオンであるデーモン・ヒル選手が、最初の数周でフェラーリのミハエル・シューマッハ選手を抜きトップに立つと、そのままトップを独走。残念ながら最終周前にエンジントラブルが発生し、その年のチャンピオンになるジャック・ビルニューブ選手に抜かれ2位になったものの、トラブルさえなければ勝てていたレースとして関係者に大きな衝撃を与えた。

【お詫びと訂正】記事初出時、デーモン・ヒル選手のマシンをアローズ-ハートとしておりましたが、正しくはアローズ-ヤマハとなります。お詫びして訂正させていただきます。

 そうした結果、1998年はマクラーレン・メルセデスとの契約に成功した。ブリヂストンはそれまでDTMなどでメルセデスとよい関係を築いていたものの、F1では契約に至っていなかった。それが前年によい結果を見せつけたことで、マクラーレンはグッドイヤーとの契約を破棄し、ブリヂストンとの契約を選んだのだ。そして初戦のオーストラリアグランプリを1-2で完勝し、ついにF1で初優勝したほか、最終戦の日本グランプリでライバルのグッドイヤーを履いたフェラーリのミハエル・シューマッハ選手がリタイアしたことにより、ドライバー(ミカ・ハッキネン選手)、コンストラクターズ(マクラーレン)ともにブリヂストン装着車が獲得し、この年限りで撤退したグッドイヤーとの戦いに勝利したのだった。

初参戦となった1997年には2戦目でいきなり表彰台を獲得するなど大活躍。翌年の躍進につながる年になった1997年のオーストラリアグランプリで使用した初参戦時のタイヤ
1998年にはマクラーレン・メルセデスと契約し、初優勝、初タイトルを獲得
1998年のオーストラリアGPで初優勝したときに、マクラーレン・メルセデスのミカ・ハッキネン選手が実際に履いていたタイヤ1998年の日本グランプリで、ミカ・ハッキネン選手が初タイトルを獲得した時に履いていたタイヤ

ミシュランとの争い、ドライバー選手権で4勝2敗と勝ち越す
 1999年~2000年の2年間は、ブリヂストンのワンメイクタイヤとなり競争はなくなったが、今度はすべてのチームに同じクオリティのタイヤを供給するという、それはそれで大変な事態となった。

 2001年には、フランスのミシュランがF1に復帰し、再びタイヤ競争が激化。ミシュランは、1980年代前半にF1に参戦し、グッドイヤーとの戦いを優位に進め、実際1983年、1984年とドライバー、コンストラクターズともに勝利するなど鮮烈な印象を残していた。実際、市販車の世界市場シェアでもブリヂストンとミシュランは激しく競り合う1、2位のメーカーで、ブリヂストンにとっては負けられない相手となった。

 結論から言えばドライバータイトルで、4勝(2001~2004年)2敗(2005、2006年)と勝ち越したものの、最後の2年でミシュラン装着車が増えたこととでやや不利な戦いになり、ミシュラン撤退の最終年も惜しくもタイトルを逃がす結果になった。しかし、最初の4年間は、ブリヂストンと強いパートナーシップを結んだ、フェラーリとミハエル・シューマッハの組み合わせが、ワンメイク時代も入れると5年連続でドライバータイトルを獲得することとなり、大成功を収めた。

 また、2005年のアメリカグランプリでは、ライバルのミシュランが持ち込んだタイヤがオーバルコースでの安全性に問題があることが分かり、レースを棄権するという展開の中、その年唯一の勝利を得ることになった。レースファンにしてみれば、6台だけのグランプリは寂しいレースになったが、ブリヂストンにしてみれば同社のタイヤの安全性を大いにアピールするステージとなった。

 2007年以降は再びワンメイクになり、08年には参戦200戦目を迎え、ゴールドの記念タイヤが作られそこにドライバーがサインするなどがセレモニーが行われた(そのタイヤは今回のイベントに展示されていた)。そして、昨年の末に10年限りでの撤退が決定され、今年の最終戦を最後にブリヂストンのF1挑戦の歴史は幕を閉じる予定だ。

1999年、2000年はワンメイクの時代となる、イコールコンディションのタイヤを供給するのに苦労したと言う2001年には新たにミシュランが参戦。競争は激化したがフェラーリのミハエル・シューマッハ選手が、2004年までタイトルを獲得する
2002年にはジョーダン・ホンダの佐藤琢磨選手が日本グランプリ5位入賞で盛り上がった2003年、2004年もミハエル・シューマッハ選手によりタイトル獲得一転して2005年はつらいシーズンに、シーズンわずか1勝にとどまった。その勝利したアメリカグランプリではミシュラン勢がオーバル部分を安全に走れないと棄権、ブリヂストンタイヤの安全性を証明するレースになった
2006年のドイツグランプリで通算100勝目を獲得したが、タイトルはシューマッハ選手が日本グランプリをエンジントラブルでリタイアしたことで失ってしまったミハエル・シューマッハ選手が2006年のドイツグランプリで優勝した時に履いていたタイヤ。これで通算100勝を達成ミシュランが2006年で撤退し、2007年からは再びワンメイクタイヤとなる
2008年には参戦200戦を達成参戦200戦を達成した2008年のヨーロッパグランプリを制したフィリペ・マッサ選手(フェラーリ)が履いていたタイヤ参戦200戦のメモリアルで作られたゴールドタイヤ。当時参戦していたドライバーのサインが入っている
2009年には150勝を達成。2009年から再びスリックタイヤの時代に通算150勝を達成した2009年のヨーロッパグランプリを制したルーベンス・バリチェロ選手(ブラウンGP)が履いていたタイヤチャリティ目的で作られたピンクタイヤ
今年のF1で使用されたドライタイヤ(緑線が入っているのでオプションタイヤ)今年のF1で使用されたスタンダードウェットタイヤ(いわゆる浅溝タイヤ)今年のF1で使用されたエクストリームウェットタイヤ(いわゆる深溝タイヤ)

土砂降りにもかかわらず多くのファンがステージや物販ブースに足を運ぶ
 このほかにも、グランドスタンド裏に設置された特設ステージでは、複数のドライバーを呼んでのトークショーなどが行われた。筆者が訪れた時間には、オークションにKVレーシングテクノロジーのインディカードライバーである佐藤琢磨選手が登場し、その場で来ていたシャツをオークションに出すなどして盛り上がっていた。

 そのほかにも、ロータス・レーシングのヤルノ・トゥルーリ選手とヘイキ・コバライネン選手、フェラーリのフィリペ・マッサ選手などのドライバーが登場するたびに、あいにくの雨にもかかわらず、多くのファンが集まってきて、ステージ周辺は瞬く間に人だかりができていた。

 あいにくの雨となった土曜日だが、物販ブースには多数のファンが詰めかけていたし、ステージ前にも多数のファンが熱心に次のイベントを待っているなどの様子を見ることができた。もし来年日本グランプリを観戦する計画があるなら、公式セッションの合間に、こうした物販ブースやステージなどを見に行くのもよいのではないだろうか。

グランドスタンド裏へと続くメインゲート土曜日は雨が強く、車重の軽いF1マシンではアクアプレーニングでまず走れない状況だった。予選が順延されたのも無理がない状況メインステージにも傘の花が……。ブリヂストンの浜島氏ほか、関係者のトークショーが多数行われていた
ロータス・レーシングのヤルノ・トゥルーリ選手がステージに登場KVレーシングテクノロジーの佐藤琢磨選手が、チャリティステージに登場。着ていたシャツがオークションにかけられていたグランドスタンドの裏にもブリヂストンの看板が。母国の最終戦ということもありかなり気合いが入っていたようだ

(笠原一輝)
2010年 10月 15日