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中嶋悟とエプソンの40年、「エプソンというブランドも自分も一緒に存在を大きくしてこれた」と中嶋悟氏
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- エプソン販売株式会社
2022年3月29日 00:00
エプソンは長年にわたりモータースポーツのスポンサーを続けていて、モータースポーツファンにとってEPSONのロゴは“おなじみ”と言える存在になっています。1983年にスタートしたスポンサー活動は、2022年で40年目となります。自動車関連以外の国内企業で40年の長きにわたってモータースポーツを支えているエプソンは希有な存在です。1980年代前半まで時計の針を戻して、エプソンとモータースポーツ、そしてエプソンの活動を代表する中嶋悟氏の歴史を振り返ってみましょう。
3本の糸。ホンダ、中嶋悟氏、エプソンの出会い
エプソンがモータースポーツ支援を始めた1983年。このとき本田技研工業、中嶋悟氏、エプソンという3本の糸が1本にまとまり、数年後にF1の世界まで羽ばたくこととなります。
1本目の糸はホンダ。1968年でF1から撤退したホンダは1983年のF1復帰に向け準備を始めていました。1980年からヨーロッパF2選手権を戦うラルトにF2用エンジンを供給し、1981年にジェフ・リース、1983年にジョナサン・パーマー、1984年にマイク・サックウェルがチャンピオンを獲得します。
この最強のF2用エンジンは国内最高峰の全日本F2選手権にも1981年から供給されます。独占供給されたのは日本レース界のレジェンド、生沢徹氏が率いるi&iレーシング(チーム・イクザワ)。この年から1986年までホンダエンジンを搭載したF2マシンは、F3000移行まで6年連続で全日本F2選手権のチャンピオンを獲得します。
2本目の糸は中嶋悟氏。1977年、中嶋悟氏は当時最強チームと呼ばれたヒーローズレーシングに加入します。このときチームのファーストドライバーは星野一義氏。星野一義氏は1977年、1978年と全日本F2選手権のチャンピオンを獲得します。中嶋悟氏はシリーズポイントで2年連続3位となりました。
1979年、中嶋悟氏は生沢徹氏が率いるi&iレーシングに移籍します。1981年にホンダエンジンの国内独占供給が開始され2本の糸が交わり1981年、1982年と全日本F2選手権のチャンピオンを獲得します。1982年にはヨーロッパF2選手権にも参戦しますが、資金不足により頓挫。これを機にチームを離れ1983年に自ら中嶋企画を設立してハラダレーシングに移籍します。
このころのハラダレーシングは純粋なレーシングチームではなく、主に日本におけるフランスCIBIE社のスポンサー活動を行なっていました。前年、1982年のi&iレーシング(中嶋悟氏)は富士GCシリーズは黄色いCIBIEのカラーリング、全日本F2は黒金のJohn Prayer Specialのカラーリングで参戦しています。
i&iレーシングを離れた中嶋悟氏はCIBIEのスポンサーとして縁のあったハラダレーシングと組んで全日本F2選手権に参戦します。中嶋悟氏によるとこのころスポンサー獲得のため「ハラダレーシングと一緒に長野県のエプソンを訪ねた」そうです。
3本目の糸はエプソン。多くの人がエプソンと聞いて思い浮かぶのはプリンターでしょう。ほかにもプロジェクター、スマートグラス、時計、パソコン、産業用ロボットなども扱っています。会社名はセイコーエプソン。古くからパソコン好きな方は1980年代に発売されたハンドヘルドコンピューター「HC-20」(1982年発売)や、PC-98互換機(1987年発売)の「PC-286」「PC-386」などを覚えているでしょう。
1980年ごろの社名は信州精器で、当時は主力製品の時計を親会社の諏訪精工舎を通じて服部時計店に納めるグループの製造部門でした。社名を信州精器からブランド名のエプソンに変更するのが1982年。諏訪精工舎と合併してセイコーエプソンとなるのは1985年です。
エプソンのプリンター1号機は1968年に発売した「EP-101」。EP-101は他社の従来機に対して大幅に小型化、20分の1の省電力化を実現しました。そろばんに代わって電子式卓上計算機がオフィスに導入されつつあるころで、組み込み型の印字装置として電子式卓上計算機メーカーなどに採用され大ヒット製品となりました。
型番のEPはElectric Printerの頭文字。このEPにSON(子供)を加え「EP-101の子供(SON)たちが、世に多く出ていくように」という願いを込めて、1975年にEPSONというブランドが生まれます。エプソンはパソコン用のドットインパクトプリンター「MP-80」を1980年、インクジェットプリンター「IP-130K」を1984年(価格は49万円)に発売していますが、日本でワープロ専用機が普及するのは1985年ごろ。パソコン用のプリンターが家庭に入るのはもう少し先です。おそらく、1983年にサーキットでEPSONのロゴを見たほとんどの人は何をしている会社か知らなかったと思われます。
1982年に信州精器からエプソンに社名変更してしばらく経ったころ、ハラダレーシングと中嶋悟氏が訪ねてきます。パソコン用プリンター事業が本格化するタイミングで、ブランドイメージ向上のため1983年からハラダレーシングと中嶋悟氏のスポンサーとなります。
国内独占供給されていたi&iレーシングに加え、2年連続で全日本F2選手権のチャンピオンを獲得した中嶋悟氏にも最強のホンダエンジンが提供されホンダ、中嶋悟氏、エプソンの3本の糸が1983年に1本となります。
1983年の日本のレース界は現在までつながる変革の年でした。中嶋悟氏は中嶋企画を設立、星野一義氏はヒーローズレーシングを離れホシノレーシングを設立します。現在、日本を代表するナカジマレーシングとホシノレーシングはここからスタートします。ファーストドライバーが去ったヒーローズレーシングはセカンドドライバーだった新人の高橋徹選手をファーストドライバーに上げてシーズンを戦うこととしました。
1983年3月、最強のエンジン、最強のドライバー、新たなサポートを受けてEPSONのロゴをまとったマシンは開幕戦で優勝します。このレースの表彰台には、直前に名門ヒーローズレーシングのファーストドライバーに抜擢された新人の高橋徹選手が立ちます。F2デビューレースで表彰台に立った高橋徹選手は大注目を浴びますが、この年の富士GCシリーズの最終戦でマシンが宙に舞い帰らぬ人となりました。
前年は6戦中4戦で優勝、全戦ポイント獲得でチャンピオンを獲得した中嶋悟氏は、1983年は開幕戦と第7戦で優勝するも、急造のハラダレーシングは最強チームとは言えず8戦中4戦でノーポイントと振るわずチャンピオンを逃します。1983年の全日本F2選手権のチャンピオンはヨーロッパからジェフ・リースを呼んだチーム・イクザワが獲得します。
1984年、高橋徹選手を失って空席となったヒーローズレーシングのシートに中嶋悟氏がファーストドライバーとして戻り「ヒーローズレーシング with ナカジマ」として参戦します。ホンダエンジンとエプソンもこれに加わり、ここから怒濤の快進撃が始まります。1984年、1985年、1986年と全日本F2選手権を3連覇。1981年~1986年のホンダF2エンジンの6年連続チャンピオンのうち1983年を除く5年を中嶋悟氏が制することとなります。そして1987年、中嶋悟氏はエプソンとともにF1に羽ばたくこととなります。
エプソンに訪れた奇跡
中嶋悟氏のスポンサーとなったエプソンにはいくつかの奇跡が訪れます。1984年、ネスカフェ ゴールドブレンドのTVCFに“違いのわかる男”としてレーシングカーデザイナーの由良拓也氏が登場します。TVの影響力が強かった時代、TVCFの中でEPSONのロゴをまとった中嶋悟氏のマシンが疾走するシーンが繰り返し繰り返しお茶の間に流れエプソンの認知度が上がります。このTVCFはYouTubeで「1984 Nescafe Gold Blend CM ネスカフェ」と検索すれば見ることができます。
1987年、中嶋悟氏は日本人初のフルタイムF1ドライバーとなります。前年にコンストラクターズチャンピオンを獲得したウィリアムズ・ホンダに加え、中嶋悟氏が乗るロータスにもホンダエンジンが供給されます。チームメイトは若き天才アイルトン・セナ選手。残念ながらピケ、マンセル、セナ選手と比べると世界中のF1ファンからは中嶋悟氏の注目度は高くありません。
この年、エプソンは中嶋悟氏のパーソナルスポンサーでチーム・ロータスのスポンサーではなくマシンにロゴはありません。普通であればEPSONのロゴに気付く人は極めて少なかったはずですが、この年は中嶋悟氏のマシンにだけ車載カメラが搭載されます。
このころの車載カメラは今のようにスマートなものではなく大型の監視カメラに近いイメージ。空力的には不利ですがエプソンにとってはこれも奇跡となります。車載カメラの映像が流れると中嶋悟氏のヘルメット横の描かれたEPSONのロゴが否が応でも世界中のF1ファンの目に入ることとなります。
1987年はエプソンがPC-98互換機を出した年で、日本では「一太郎 Ver.3」や「ロータス 1-2-3」も販売され、パソコンやプリンターの普及期が近付いていました。エプソンにとって世界にブランドを知らしめる絶好のタイミングでした。
1988年からエプソンはチーム・ロータスのスポンサーとなりマシンにもEPSONのロゴが貼られます。日本で空前のF1ブームが訪れる中、1989年までロータス、中嶋悟氏の移籍にともない1990年と1991年はティレルをスポンサードし、中嶋悟氏とともに世界のサーキットを転戦。1991年の中嶋悟氏の引退とともにF1へのスポンサー活動に区切りを付けることとなります。
エプソンは中嶋悟監督が率いるナカジマレーシングをサポート
引退した中嶋悟氏は、戦いの舞台をナカジマレーシングの監督として国内に移します。全日本F3000(現在のスーパーフォーミュラ)、全日本ツーリングカー選手権、全日本GT選手権(現在のSUPER GT)などに参戦。フォーミュラ・ニッポンでは1999年にトム・コロネル、2000年に高木虎之介選手、2002年にラルフ・ファーマン選手、2009年にロイック・デュバル選手がチャンピオンを獲得しています。
現在ナカジマレーシングはモータースポーツで日本で最も人気のある「SUPER GT」と国内最高峰の「スーパーフォーミュラ」に参戦、エプソンはその活動をサポートしています。
エプソンは40年にわたりナカジマレーシングを継続的にサポート。日本のレース界においてエプソンは大切な存在であり、なくてはならないものとなっています。
2004年から2018年までの15年間は、「エプソンナカジマレーシング」として「SUPER GT」のメインスポンサーを担当、現在もサブスポンサーとして、その活動を支え続けています。2009年から2018年までは「SUPER GT」に参戦するナカジマレーシングのレーシングカーのカラーリングデザインを、一般公募で決定するなどモータースポーツを身近に感じてもらえる企画を展開。自分のデザインしたレーシングカーが、実際にカラーリングされてレース参戦できることから、プロアマ問わず多くの方からの応募を集めました。
また、2016年には日本レース写真家協会(JRPA)協力のもと、当時西新宿に居を構えていたエプソンイメージングギャラリー「エプサイト」で、写真展「FASTEST LAP」を開催。JRPA会員が長年にわたり撮りためてきたモータースポーツシーンの中から、エプソンに関するJRPA会員の思い出や記憶に残っている名シーンを厳選して展示。エプソンの高画質インクジェットプリンターで出力された迫力ある作品ファンを魅了しました。
エプソンならではのペーパークラフト
SUPER GTのパドックを訪れた人はナカジマレーシングのピットにGTマシンなどを精巧に再現したペーパークラフトが飾られていたのを見たことがあると思われます。このペーパークラフトは、まさにエプソンならではの取り組みだと言えます。
現在、ダウンロードできるペーパークラフトの数は150を超えており、PDF形式で公開されています。
古くは2004年の全日本GT選手権のマシン(https://www.epson.jp/sponsor/nakajima/nsx_museum/2004/index.htm)から2021年のSUPER GTのマシン(https://www.epson.jp/sponsor/nakajima/craft/)までラインアップされています(2022年3月現在)。
2004年といえば、家庭用のプリンタ―で、プリンタ―とコピー、スキャン機能が一体化した複合機が市場に本格的に普及しはじめた時期。エプソンは、家庭のプリンタ―を使って、本格的なペーパークラフトを楽しんでもらうため無料でPDFデータを公開、以来現在に至るまで毎年、レーシングカーの公開を続けています。
2021年のペーパークラフトを見るとナカジマレーシングだけでなくARTA、Red Bull MUGEN、Astemo、STANLEYとすべてのNSX-GTのペーパークラフトが揃っています。マシンだけでなく給油リグ、ジャッキなどのピットパーツも用意されているのでジオラマを作ることもできます。
また、全国のサーキットにマシンやピットパーツを運ぶトランスポーターまで用意されており、毎年、人気のあるコンテンツになっているそうです。
もう1つエプソンならではと思わせるのは、エプソンのインクジェット技術がチームの運営を支えています。ナカジマレーシングのマシンのカーラッピングの素材には、エプソンの大判インクジェットプリンタ―を使って印刷されたデカールが使用されています。
2017年11月にツインリンクもてぎで開催されたSUPER GT最終戦では、それまでチームのシンボルカラーであった青と白のカラーリングデザインを、大胆にも黒基調のデザインへと変更、レースファンの注目を大いに集めました。デザイン変更の企画がスタートしてから、わずか1か月たらずでデザイン変更が実現できたのも、エプソンのインクジェット技術の賜物だといえます。
日本のレース界のレジェンド対決
2022年3月5日、「鈴鹿サーキット60周年ファン感謝デー」が開催されました。2輪、4輪の様々なイベントの中で最初に行なわれたのは「永遠のライバル対決~60周年復活スペシャル~」でした。永遠のライバル=星野一義氏、中嶋悟氏、言わずと知れた日本レース界のレジェンドです。
元々「永遠のライバル対決」というイベントは2012年3月の「鈴鹿サーキット50周年ファン感謝デー」に行なわれた「夢のF1競演 中嶋悟 × 星野一義」から始まりました。中嶋悟氏がF1に旅立つ前年、1986年のF2最終戦、JAF鈴鹿GPレース以来26年ぶりの対決が実現し、中嶋氏は自身が1988年にドライブした黄色いキャメルカラーでおなじみのロータス100T。星野氏は1986年にナイジェル・マンセルがドライブしたウィリアムズホンダFW11をドライブしました。
同年9月の「鈴鹿サーキット開場50周年アニバーサリーデー」で名称を「永遠のライバル対決」と改め、以降SUPER GT、SUPER FORMULAなどマシンを変更しつつ2018年まで続く大人気イベントとなりました。3年ぶりの対決はホンダのN-ONE、マシンは変われど星野一義氏、中嶋悟氏が登場するとサーキットは一気に盛り上がり、これからも日本のレース界を牽引していく存在だと感じられました。
中嶋悟氏にエプソンとの40年を聞いてみました
エプソンとの始まりは1983年。生沢さんのところを離れて、自分で会社を立ち上げ、ハラダレーシングさんで参戦することになり、ハラダレーシングさんと一緒にエプソンさんにご挨拶に行ったのが最初でした。世界で戦うという自分の夢を話し、それを理解いただき、ともに世界を目指すことができたと思います。
F1に行ってからはCMに起用してもらったり、歌を歌わせてもらったり、いろいろなことをやらせてもらいました。エプソンさんが自分を会社のイメージとしてCM起用してくれたのはありがたかったと思います。
F1が終わってからもずっと応援してもらえました。40年続いたのはお互いに役に立ったからだと思います。エプソンというブランドも自分も一緒に存在を大きくしてこれた。これまであうんの呼吸でお互い尊重しあってきたのが長く続いた理由かもしれません。
個々の製品を想定したスポンサー活動ではなく、エプソンという会社は先を見た企業で、しっかりしたビジョンを持って会社を運営されている。流行に乗るのではなく流行を作る……だからプリンターなどの業界をリードしてこれた。そうした心意気のある会社だから、ここまで長くお付き合いができたと思います。
エプソンはナカジマレーシングだけではなく、ゴルフの横峯さくら選手、吉田優利選手を支援しています。また、長野県松本市を本拠地とするJリーグの松本山雅FCのオフィシャルパートナーとしても活動を続けています。
スポーツは、国境や言葉の壁を越え、人々に夢や希望、そして感動を与えてくれる存在です。エプソンは、そうした共通言語であるスポーツを通じて、世界中のより多くの人々とのつながりを深め、身近な存在に感じていただき、ともに喜びを分かち合えるよう、スポーツスポンサーシップ活動を実施しています。