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【連載】西川善司の「NISSAN GT-R」ライフ

第22回:元日産GT-R開発責任者、水野和敏氏に聞く「日産GT-Rの真実」(後編)

 6月以降、毎月の海外取材で本連載執筆の時間が取れずだいぶ間隔が空いてしまったが、お待たせしていた元日産自動車のGT-R開発責任者である水野和敏氏のインタビュー後編をお届けしたいと思う(前編はこちらhttp://car.watch.impress.co.jp/docs/news/20130704_606103.html)。

R35 GT-Rのボディーカラーの話

 筆者は赤色が好きなので、これまで所有してきた車はすべて赤だったりする。

 R34スカイラインGT-Rは、出始めに赤のボディーカラーが存在したが、マイナーチェンジの際に赤はカタログ落ちした経緯がある。なので日産GT-R(R35 GT-R)には赤が設定されるか心配だったのだが、ボディーカラーの赤は、2011年のマイナーチェンジの際にもカタログ落ちせず現存し続けている。赤ファンとしては非常に嬉しいことである。かなり個人的な趣向の話題だが、筆者の記名連載なのでこうした話題についても水野氏に伺ってみた。

水野和敏氏(元日産自動車「GT-R」開発責任者)

水野氏:R35 GT-Rのボディーカラーは日本では白と黒で大半を占めるという状況ですが、実は北米では赤は定番色なので外せない色でした。北米では赤以外には黒も定番です。欧州では黒と青が定番です。R35 GT-Rのボディー色は6色と少なめですが、不思議と「この色がない」という不満はでてきていないですよ。

 性能面ばかりが取り沙汰されるR35 GT-Rだが、実はボディー塗装に際して、他車種にはない手間が加えられている。

 組み上がったボディーは防錆処理とともに下地処理がなされるが、同時に飛び石が当たったときの緩衝役割を果たす耐チッピング層も形成される。その上にボディーカラーが塗装され、さらにその上にクリア塗装が施される。ここで塗装ブースから一旦出され、さらに手磨きのバフ掛けが行われるとともに、クリアカラーコートが適用される。そして黒(メテオフレークブラックパール)だけは、その上から耐チッピング層(スクラッチシールド層)を形成させる塗装工程が行われる。

 たとえソリッドカラーであっても、R35 GT-Rのボディーに映り込んだ鏡像情景が、2重レンズ効果ともいうべき独特の味わいを見せるのは、この多層クリアコート効果によるものだ。

ここまで手の込んだ塗装は日産車では他に類を見ない
飛び石に強いアンチチッピング塗装はフロントバンパー上部とリアフェンダー前側にのみ適用されている

水野氏:これだけ手間の掛かっている塗装は、日産車ではもちろんのこと世界的に見てもR35 GT-Rだけでしょう。欧州のスーパーカーにも優るとも劣っていないと自負しています。

 ここからは筆者からの豆知識だが、R35 GT-Rを万が一ぶつけてしまった場合、補修して板金塗装を行うことになると思うが、その際、例え日産ディーラーの指定/提携板金塗装工場であっても、上記の多層塗装は実践されない点に注意したい。生産時にのみ適用される塗装なので、オーナーの方々は大事にしていただきたい。

 さて、R35 GT-Rに限った話ではないが、新車を購入した際にディーラーマンから納車直後のボディーコートを勧められるが、これはやるべきなのだろうか。

水野氏:やるならば半年くらいは寝かせた方がいいと思いますよ。納車直後にやるならば、塗装に優しいガルバナ系のコートに留めておくべきでしょう。

 ラインオフした新車の塗装は半年くらいは“生きている”と思った方がいいです。塗装が動くんですよ。塗装が落ち着く前、納車直後なんかに硬いガラス系のボディーコートを行うと、そのボディーコートが割れて細かい傷のようなものが出てくることがあります。

 納車直後のR35 GT-Rのボディーを保護するならば、純正の「インドアボディカバー」をオススメします。値段がボディーカバーにしては高いですけどね(笑)。ただ、あれも私がこだわりを持って開発した製品なので、品質は保証しますよ。

屋内駐車場での使用を想定した「インドアボディカバー」は13万200円
屋外駐車場では「インドアボディカバー」に加えて「アウターボディカバー」の使用が奨励される。セット価格は15万7500円
オプションの「ハイパーチタンカラーコート」版のホイールはタイヤ空気圧警報システムセンサー付きで4輪セットで110万2584円

水野氏:ホイールも同様ですよ。一般的なホイールはどんな高級品でも大抵は下地処理、カラーペイント、クリアコーティングの3層塗装ですが、R35 GT-Rのホイールはクリアコーティングのところが3層コーティングとした全5層塗装なんです。

 下地処理、カラー塗装までは同じですが、その上にまずグレー・カラーを混合させたクリアを吹き、その上にさらにブラック・カラーを混合させたクリアを吹きます。そこからさらに仕上げのコーティングを施工します。

 この3層のクリアコーティングの部分はそれぞれ厚みが異なり、屈折率が違ってくるため、微妙な色あいやハイライトを生むんです。ディーラーオプションの「ハイパーチタンカラーコート」版のホイールも同様です。こんなことやっているのはR35 GT-Rだけでしょうけどね(笑)。

今あらためて聞く、R35 GT-Rの誕生秘話

 2007年にR35 GT-Rが世に送り出されて早6年が経とうとしている。そして、2013年3月一杯で“ミスターGT-R”水野氏は日産自動車を退社した。そして、2014年モデルからは新しいR35 GT-Rの歴史が始まろうとしている。

 ここで、改めてR35 GT-Rの開発誕生の経緯について聞き直してみたいと思う。今のR35 GT-Rの前身とも言うべき存在、スカイラインGT-R(R34型)は2002年を持って生産を終了。5年の「GT-Rブランド不在」の期間を経て2007年に新生GT-Rが発売された。

 登場時、ユーザーを驚かしたのは、新生GT-Rが「スーパーカー」という位置づけで登場したことだ。これまでのスカイラインGT-Rが「スポーツカー」として提供されてきたのとは違い、根本的にコンセプトが異なっていたのだ。

水野氏:私がR34 GT-Rの話をしないのは、あのモデルは言うなれば「演歌の世界」だったからです。R34 GT-Rは、R34スカイラインというベース車両があって、280PSの自主規制枠があって、その中でやりくりしてニュルブルクリンク8分切りを目指す……そんな世界観だったんです。

 ゴーンさんが、2001年と2003年に「GT-Rは世界に通用するグローバル・スーパーカーとして生まれ変わる」と宣言した時から、あるゆる角度から見てR34 GT-Rの開発手法をそのまま持ってくるわけにはいかなかったんですよ。

 ニュルブルクリンクを7分台前半で周回する性能を目指す、500PSオーバーのスーパーカーとして開発する以上、直列6気筒エンジンみたいな鼻先が重いレイアウトだとニュルブルクリンクでは吹っ飛んでしまいます。「適当なブレーキとサスペンションを採用して、あとはアフターパーツ屋に任せる」という「甘えた選択」は私にはなかったんです。

日産自動車社長兼最高経営責任者(CEO)のカルロス・ゴーン氏

 R35 GT-Rは、あらゆる角度から見てR34 GT-Rとは系統、血統が違うと言われた。R34 GT-Rは国内市場向け、R35 GT-Rは世界市場を視野に入れたモデル。根本が違ったため、開発のスタート地点も違えば終着点も違ったわけだ。ちなみに、水野氏はR32スカイラインの車両パッケージングの設計を担当し、R34 GT-R最終型の「M-SPEC Nur」の「M」は水野氏のMである。スカイラインやスカイラインGT-Rの開発に携わり、それらをよく理解した上で、従来型GT-Rの開発様式を切り捨てたわけである。

水野氏:日産在籍時代、私はさまざまな自動車ジャーナリストにGT-Rの試乗会に参加していただきましたが、取得したデータを見る限り、ちゃんと乗りこなせていたのは中谷明彦氏くらいでした(笑)。それ以外の方達はほとんどGT-Rの性能を引き出せていなかった。自動車ジャーナリストですらそうなんですから、多くのお客様達もそうかもしれません。ただ、乗りこなせないことがわるいことではないんですよ。

 「スポーツカー」と「スーパーカー」の違いって分かりますか。ユーザーが身の丈で楽しみ、自分の力量の範囲内で楽しむのがスポーツカーです。これに対しユーザー自身の力量を遙かに超えた性能を体感することの悦び、それを所有することに感動するための存在が、スーパーカーなんです。

 確かに、欧州の名だたるスーパーカー達は、明らかにオーバースペックである。ただ、そこには人々の憧れが集まり、高い価値を生んでいる。

 R35 GT-Rは、そうしたスーパーカーと比較すれば価格的には数分の1だが、日本車としてはかなり高価な存在であり、性能に関してはそうしたスーパーカー達すらを凌駕するほどの高性能が与えられている。もしかすると欧州のスーパーカーとは異なった方向性の「憧れ」かもしれないが、今や世界の人々はR35 GT-Rに対してその「価値」を認め、「憧れ」を抱くに至っている。

水野氏:2003年12月16日のことです、ゴーンさんに「GT-Rをお前に任せる」と言われたのは。

 この時にゴーンさんからもう1つ言われたんです。「1000万円を超える車の概念を分かる人間は、日産社内どころか日本の自動車業界にすらいない。GT-Rプロジェクトは俺とお前の直轄でやる。いいな」と。

 ゴーン社長は、これまでの日本式の開発スタイルで開発を進めるとまとまらないことを予見していたに違いない。だからこそ、特異な(スーパーな)才能と価値感を持つ水野氏に一任したということなのだろう。

水野氏:2007年にR35 GT-Rを発表したとき、「3年後にGT-Rの本当の価値が分かる」と、私は予言しました。登場当初、R35 GT-Rは「でかい」「重い」と自動車誌に叩かれました。これは自分も予想はしていたんです。ただ、3年経ってR35 GT-Rが世間に馴染んだころには、きっと理解してもらえるだろうという確信はありました。

 前編でも述べているが、R35 GT-Rの大きさと重さは意図的に設計されたものだ。結果的に「大きく重くなってしまった」のではない。これまでのスーパーカーの設計では、とにかく軽くすることに努め、重量物を車体の中央に集めることが良識とされた。

 しかし、自動車というのは4輪で自立している。タイヤが地面を掴んでいるからこそ自動車は進むし、曲がる。自動車の構造上、重量物の積載が避けられないとすれば、それを車体の中央に集めるよりも、最初からタイヤを掴むためのダウンフォースとして使えばよいのではないか。そうすれば空力の力を借りずとも、停止状態や低速時から路面に必要分のパワーを伝えられるではないか。水野氏はこう発想し、R35 GT-Rではエンジン重量を前輪に、トランスミッションとディファレンシャルギアの重量を後輪にかけるようにレイアウトした。それも極限まで低重心にして。

 「でかい」「重い」と言われたジオメトリやウェイトも、むしろR35 GT-Rに想定された500PSオーバーという出力に対する「最適解」なのだ。当然、20インチという大径タイヤの選択もそうだ。

水野氏が構想し、GT-Rに採用されたパッケージングには「日産・PMプラットフォーム」という名前が付けられ、特許が取得されている

水野氏:2007年発表時、毎年進化させるということも宣言しました。これは「未完成品を出すのか」と叩かれました。しかし、この「毎年進化」は、GT-Rにスーパーカーとしての価値を創出していくためには必要なアプローチだったんです。

 毎年の進化は、スイスの一流時計職人や人間国宝の陶芸家が、自らの技術と感性を磨いて毎年作品を送り出す概念を自動車に持ち込みたかったということなのだろう。

水野氏退社。その本当の理由

 水野氏が生み出した、そうした「新しいスーパーカーの価値」をもう少し水野氏の手で育んで行くことはできなかったのだろうか。

 水野氏は定年に達してからも、定期的に契約更新する常勤嘱託の形で2012年に2013年モデルの開発に従事している。この形でもうしばらく在籍できなかったのだろうか。

水野氏:2013年3月一杯で退社したのは、定年の年齢に達して1年経ったからですよ(笑)。GT-R開発プロジェクト開始当初は、ゴーン社長の直轄プロジェクトでしたから、従来の部門開発体制ではなく、開発チーム体制での開発を進めることができました。なので「あそこ(GT-R開発チーム)だけ特別なのはなぜか」といった周囲からのノイズを払いのけることもできました。

 ゴーン氏は日産自動車社長兼CEO、そしてルノー取締役会長兼CEOに加え、2009年に欧州自動車工業界の会長も兼任することになる。多忙を極めるゴーン氏はこの時、自らの直轄GT-Rプロジェクトから手を引く。ここには「GT-Rは今後も安泰だろう」という判断もあったのかも知れない。

水野氏:ゴーンさんが手を引かれたときに、今回のような事態はいずれくるだろうな、とは予測していました。それまで築き上げてきたものが崩れ始め、「特別扱いはおかしい」とする勢力と闘うのは難しくなってきたのは事実です。

 今思い返せば、GT-Rの開発ができたこと、ちゃんと完成して2007年に発表ができたのはゴーンさんがいたからだと言うことがよく分かりますし、ゴーンさんはGT-R開発チームの支えでした。

 2013年を持ってGT-R開発チームは解体され、現在は一般モデルと同様の部門開発体制に戻っている。水野氏の築き上げた「新しい価値を持ったスーパーカー」としてのコンセプトは今後も受け継がれていくことを期待したいものだ。

R35 GT-Rはなぜニュルブルクリンクで開発されたのか

 今でこそ、開発最終段階で「ニュルブルクリンクでテストしました」という自動車は珍しくないが、GT-Rのように足繁くニュルブルクリンクに通って開発された日本車は、過去ほとんど存在しなかった。少なくとも発売後、イヤーモデルの開発だけのために毎年ニュルブルクリンクに通い詰めたのはGT-R開発チームだけだろう。そこまでニュルブルクリンクでの開発にこだわり続けたのは一体なぜなのだろうか。

水野氏:それを語るには、その前に日本でスーパーカー、あるいはスポーツカーを開発することが、いかに大変かということを知ってもらう必要があると思います。

 日産には日産グループとしては国内最大規模のテストコースが日産栃木工場にありますが、あそこは栃木県上三川町の道路標識と制限速度に則って開発されています。つまり、テストコースにも速度制限があるのです。

 テストコースは世界中の路面が再現されている……とメーカーは言いますが、それはごく僅かな区間単位でしかなく、世界中の路面が現実レベルで再現されているわけではないことは皆さんでも容易に想像できるでしょう。しかもテストコースはほぼすべての時間帯で他車種との混走が行われており、単一車種が占有できる時間はごく僅かです。

 海外では、公道での走行テストを行うための開発車両ナンバープレートの提供が認められていますが、日本の国土交通省が定める法規ではこれが認められていません。つまり、テストコースを利用して開発するにせよ、世界に送り出す自動車を、いわば日本の法規内で開発せざるを得ないわけです。これは、世界の他国の自動車メーカーと闘うにはあまりにも大きいハンデであると私は考えています。

「市販前の未完成車両のテスト」という作業は、労働基準法で言えば準危険作業にあたります。つまり、会社命令で従業員に危険なことをさせているわけです、その結果、万が一でも怪我をしようものならば、労働基準監督署から査察が入ることになります。

 国内仕様の製品を海外でヒットさせることよりも、グローバル仕様として開発した製品がヒットしにくいのは、こうした理由があるからではないかと私は思っています。つまり、世界各地のユーザーが行ういろいろな走らせ方、使い方に正しく向き合えて開発できていないのではないか、ということです。

 つまり、世界に通用するスーパーカー/スポーツカーを開発するためには、日本の外で開発する必然性があったと言うことだ。現在、ホンダが開発を進めている新型「NSX」も、開発拠点を北米に置いているが、これはメイン市場が北米であることのコストメリット以外に、水野氏がここで述べたような理由があるのかもしれない。

水野氏:逆に言えば、日本の自動車メーカーのエンジニアはそうした制限の中で世界に通用する自動車製品を開発しているわけだから、凄いとは思いますよ。

 ただ、欧州メーカー勢が開発する250km/h超走行を想定した高性能車に対抗できるクルマを、日本の法規内、日本の会社組織の枠組みだけで作れるかと言えばノーと言わざるを得ないでしょう。これを実現するためには個人単位のリスクを背負う必要がどうしても出てきてしまうんです。

 さて、開発の現場に選ばれたのはドイツのニュルブルクリンクだった。主に活用されたのは全周約20kmの北コース(ノルドシュライフェ)。総コーナー数は170を超え、その全周区間での高低差は約300m。2kmを超える最長直線区間ではR35 GT-Rも最高速が300km/hに迫るほど。しかも、舗装状態はとてもよいとは言えないとされている。「世界でもっとも危険なコース」という理由を挙げるとキリがないほどなのだ。

水野氏:ニュルブルクリンクでのテストスピードは最長の直線では300km/hに迫りますし、実際、アウトバーンでの公道テストでも300km/h走行が行われます。万が一、事故が起きた場合、ドイツに住んでいてドイツで試験すればドイツの法律が適用されますが、日本からの出張では、当然日本の法律が適用される部分もあることでしょう。

 何かあったときには、現場の責任者である私がすべての責任を取る覚悟で現地での開発には臨んでいたのです。言い換えれば、私自身が刑務所に入る覚悟があったと言っても差し支えありません。逆に言うとR35 GT-Rの開発にはそういう覚悟すら必要だったということです。

 現在は1990年代までと比べ、国産のスポーツカーの絶対数が少なくなっているのは、市場要因も大きいとは思うが、もしかするとここまでの覚悟を持ってスーパーカーないしはスポーツカーを開発するエンジニアが少なくなってきているからなのかもしれない。

水野氏:2007年のR35 GT-R発表時、私は「GT-Rは300km/hで隣の席の人と会話することができる」ことをコンセプトにこの車を開発したと言いました。すると、ある自動車ジャーナリストが「そんな場所が世界中のどこに、ましてや日本国内にどれくらいあるんだ」と鼻で笑ったんです。でも、私はそれを実現するために、刑務所に入る覚悟でこの車の開発に取り組んでいたことは知っておいていただきたいですね。

 中近東地域の王族の間ではR35 GT-Rの人気が高い。それは、悪条件の道路であっても安全な超高速クルージングが楽しめるからだという。あまり知られていないが、R35 GT-Rはその開発に際しては、こうした地域での走破テストも行っている。

水野氏:中近東の王族の人は、そのクルマが300km/hで走れるとなったら、エンジンかけてすぐに300km/hで走ろうとするし、実際走っちゃうんです(笑)。しかし、砂漠の中の舗装道での高速テストなんてのは、日産社員のテストドライバーに任せるわけにはいかないんです。なぜならば、万が一のことがあったら大変なことになるからです。そこで、そうしたテストは私自身が行いました。砂嵐の中でのエアコンのテストもね(笑)。要するに、私はGT-Rの開発に際して命をかける覚悟があったということです。

 ユーザーが体験しうる危険を先に経験し、それに対処する性能を磨くことはメーカーの責務である。ただ、R35 GT-Rの場合、その対象となる危険領域がすでに「スーパー」だったのだ。R35 GT-Rの圧倒的なスタビリティは、文字通り、水野氏が命をかけて実現したものなのだろう。

 筆者は一般自動車誌のR35 GT-Rの試乗記等で「GT-Rは速いが『魂』がない」と書いてあるインプレッションを目にしたことがあるが、実際にR35 GT-Rのオーナーになってみると「つかみ所のない『魂』」よりも、「確かな『スタビリティ』」があることの方にありがたみを感じる。これだけは間違いない。

終わりに〜R35 GT-Rに掛けた「日本のもの作り」の想い

 R35 GT-Rの開発目標の1つに、新しい「日本ブランドの創出」があったとも水野氏は語る。R35 GT-Rの登場は、日本製自動車の「優等生な量産品」というイメージから大きく飛躍することに成功した。その意味では、水野氏の思いは遂げられたように思える。

水野氏:世界の人々が日本製品に求めているものってなんだか分かりますか。生産効率、量産性、コストメリットの追求ですか。違いますよね。それだけを追い求めていたら「日本のもの作りの価値」は消失してしまうでしょう。

 確かに、フェラーリがコストメリットを追求して人件費の安い他国で開発や製造を開始したとしたら、フェラーリのブランドは崩壊することだろう。世界の人々はイタリア人が発想・設計し、開発するフェラーリに夢や情熱、そして憧れを抱くのだ。

水野氏:日本の会社が日本に存在して、日本でもの作りを行うことの価値って、一体どこにあると思いますか。それは、「日本人」という「人間の質」に価値があるからですよ。

 それは具体的にはどういうものかと言えば、「自分を捨てでもお客様に喜ばれるものを作る」という日本人だけが持つ価値感、道徳観です。「人の悦び」を「自分の悦び」に変えられる気質、と言い換えてもよいかもしれませんね。そこにこそ「日本のもの作りの価値」があると私は思っています。

 私が日産でR35 GT-Rの開発でやってきたことというのは、まさにそういうことでした。このあと、こうした想いを日産が継承してくれるかどうか。日産を退社してしまった私にはもう分かりませんが。

 水野氏がこだわった「日本人の気質」が生きる「日本のもの作り」の概念は、他の業界にも通用するものだ。

 一般に(というか直接的には)「文化」と呼ばれるものは「形ある産物、成果物」を指すことが多いが、もしかすると水野氏が指摘した「日本人ならではのもの作りに対する姿勢」というものこそが、日本人にとって誇るべき「文化」なのかも知れない。もの作りに携わる人々、エンジニアは、今一度この部分に真剣に向き合う必要があるかもしれない。

 日産を退いた水野氏は今、もう一度「日本のもの作り」に挑戦するか、あるいはそうしたもの作りができる人材育成に従事するか決めかねているという。水野氏の今後の活躍とR35 GT-Rの今後の進化に期待したい。

水野氏から直接、GT-R各所に込められたこだわりの部位の解説をいただいた
Aピラー脇の突起はデザインではなく、実は機能パーツ。高速走行時、走行風がドアミラーの間を抜けるときに起こる風切り音を低減するための工夫で、水野氏自らのアイデアによって付けられたという
自動車開発に関する水野氏の哲学的な話も拝聴できたのだが、本連載テーマからやや離れるため、そのあたりはまたいずれの機会にお届けしたい

西川善司

テクニカルジャーナリスト。元電機メーカー系ソフトウェアエンジニア。最近ではグラフィックスプロセッサやゲームグラフィックス、映像機器などに関連した記事を執筆。スポーツクーペ好きで運転免許取得後、ドアが3枚以上の車を所有したことがない。以前の愛車は10年間乗った最終6型RX-7(GF-FD3S)。AV Watchでは「西川善司の大画面☆マニア」、GAME Watchでは「西川善司の3Dゲームファンのためのグラフィック講座」を連載中。ブログはこちら(http://www.z-z-z.jp/BLOG/)。

(トライゼット西川善司)