日下部保雄の悠悠閑閑

モータースポーツシーズンが始ま……らない

オイルショック前の1972年11月の志賀高原ラリー。クルマは「ギャラン A II GS」。この時は2位だった

 新型コロナウイルスの猛威はモータースポーツにも及ぶ。国内外を問わず次々と中止、あるいは延期となってしまった。SUPER GTをはじめとする国内戦はもちろん、F1やニュルブルクリンク24時間レース、ル・マン24時間レースも延期になるという前代未聞の事態だ。

 事前に他のイベントとの多くの調整を経てカレンダーを決めているモータースポーツのスケジュールだから、簡単に延期というわけにはいかない。世界選手権クラスのイベントが成立してから国内選手権が決まるのが普通なので、現場は大混乱だろう。

同じラリーのギャラン A II GS。万座峠だと思われる

 新型コロナウイルスの厄災は、マスクはおろかデマ情報で店頭からトイレットペーパーまでなくなるという、よく分からない現象まで起こしたが、店頭からものがなくなったのは第一次オイルショックの時も同じだった。

 この時は原油の元栓を閉められた状態だったので、店頭から多くのものが姿を消してしまった。トイレットペーパーはまさに争奪戦の様相で、家庭を守るお母さんがお店に殺到する映像がTVから流されていた。

 事の起こりは1973年に起こった第四次中東戦争だ。アラブ諸国が石油輸出を停止したため、原油価格が高騰してガソリンスタンドは休日休業、開店時間も制限された。

 モータースポーツもメジャーなレースも距離を短縮したりして、対策に大わらわだった。私はといえばまだ学生で、バイトのお金はすべてラリーに注ぎ込んでいた時代である。

 当時のラリーは土日にかけて行なわれるワンナイトのラリーだったが、オイルショックでガソリンの供給量が限られたので距離は短縮され、スタート時間も遅くなったと記憶する。それでもワンタンクでは到底ラリーの距離は走り切れない。走れるとしてもラリー会場から家までの往復もできない。そんな中、主催者は多くの関係者と交渉して、山の中にタンクローリーを配置して給油してもらったことが何回かある。なかなか得難い経験だった。

オイルショック後の1975年、360ccの軽自動車だけのミニカーラリー。シリーズで開催され、私はDCCSからフェローマックスで参加していた。この時は1位だったと思う。私はどこでしょう?

 現在のラリーは、グローバルスタンダードになっている閉鎖された林道などに設定されたスペシャルステージでの合計タイムで勝敗を競う。コ・ドライバーの仕事はペースノートを読み上げ、ドライバーの走行を助けることが大きく、その他のラリーマネージメントも同時に行なう。

 その昔の日本のラリーは、公道を閉鎖してスペシャルステージを設定できるような環境になく、主催者がいかに努力してもそのような道は開かれず、いきおいタイムラリーの方式が取られていた。

 つまり、チェックポイントから指示速度が示されて、次のチェックポイントはどこに出てくるか分からない。指示速度にいかに正確に乗せられるかで勝負が決まる。計測車とのタイヤの違い、試走車の走り方、路面の状況によってナビゲーターは頭を悩ませ、手動計算機か円盤状の計算尺で1分ごとにドライバーに遅早を指示する(その後ラリーコンピューターの出現で計算からは解放されたが、まだ先の話である)。コースもシークレットだったのでミスコースしないように地図も見なければならない。なかなか忙しいのだ。

時代は1978年のDCCSウィンターラリーのダイハツシャレード。スパイクタイヤを履いての走行。軽井沢浅間園のSSで

 ではドライバーは何もしないかと言えば、“ハイアベ区間”と言って、到底その指示速度に乗せられない区間を全力で走るのである。それでも遅れてしまう。つまりスペシャルステージのようなもので、ドライバーとナビゲーターのバランスで勝敗が決まるように作られていた。

 そして、日本のラリーは舗装でなくほぼ100%ダート(今でいえばグラベル)。わざわざ探さなくても林道はもちろん、県道も国道もちょっと山に入れば舗装してある方が珍しいくらいだったし、ラリー車もほとんどFRで、自然吸気の1.6リッターエンジンが主流派だった。出力も限られていたし、FRだったのでドライビングのイロハを学ぶのは絶好だった。滑りやすいダートでFRのラリー車を一晩中走らせるのだから贅沢な練習をさせてもらったと思う。

 夜間に行なわれたのは、ラリーコースが公道ということもあり、交通量が少なく、タイムラリーでも極力他の交通に迷惑をかけないことなどを考慮した結果だった。

1971年12月のRCC クリスマスラリー。積雪の富士山も走った。ジャンピングスポットを通過中。この時は9位だった

 現在のラリーは主催者のたゆまない努力があって、地方治自体との連携や経済効果など、WRCタイプのラリーができるようになった。その昔、目指していたラリーが開催されていることはまるで夢のよう。主催者には頭が下がるばかりだ。

 その昔の今だから話せる国内ラリーについてはまた触れてみたい。

日下部保雄

1949年12月28日生 東京都出身
■モータージャーナリスト/AJAJ(日本自動車ジャーナリスト協会)会員/16~17年日本カー・オブ・ザ・イヤー選考委員
 大学時代からモータースポーツの魅力にとりつかれ、参戦。その経験を活かし、大学卒業後、モータージャーナリズムの世界に入り、専門誌をはじめ雑誌等に新型車の試乗レポートやコラムを寄稿。自動車ジャーナリストとして30年以上のキャリアを積む。モータースポーツ歴は全日本ラリー選手権を中心に活動、1979年・マレーシアで日本人として初の海外ラリー優勝を飾るなど輝かしい成績を誇る。ジャーナリストとしては、新型車や自動車部品の評価、時事問題の提起など、活動は多義にわたり、TVのモーターランド2、自動車専門誌、一般紙、Webなどで活動。