自動車研究家“山本シンヤ”が聞いた「MORIZOがニュル24時間へ挑む理由」

第8回:なぜ成瀬氏は、モリゾウにニュル24時間参戦を勧めたのか?

小規模で開催されていた「ニュル24壮行会」

「ニュルのレースに出てみませんか?」

 筆者は以前、成瀬氏のインタビューで、この時の“やり取り”の経緯を聞くと、まるで昨日のことのように丁寧に教えてくれた。

「運転訓練を5年くらい続けてきたので、『ニュルのレースに出てみませんか?』と聞いてみました。確か2005年の後半だったかと思います。最初は立場上悩んでいましたが、しばらくして『やりたいので、お願いします』と。ただ、すぐに参戦した訳ではなく、そこから3年近く猛特訓を行ないました。ニュルブルはそんなに甘くないですからね。


 豊田章男氏は、時事をこう振り返っている。

「成瀬さんからのひと言は、私にとって想定外のできごとでした。確かに運転訓練でニュルを走ったことは何度かありましたが、それはLマーク(Lesson=訓練中)を付けて成瀬さんの後ろを走ったレベルです。当時は80スープラで1周12分くらいのペースだったと思いますが、それでもあまりの過酷さに『果たして生きて帰ってこられるのか?』と絶えず恐怖と戦いながらステアリングを握っていたことをよく覚えています。

 私は40歳を超えてから運転トレーニングをスタートさせましたが、ニュルだけは『クルマが好き』『クルマの運転がちょっと上手』と言う気持ちだけは全く通用しない……それくらい厳しい道です。そこでレースをする。親からはレースに出ることは反対されていましたし、自分自身も『あの怖いニュルでレースなんてとんでもない!!』と思っていたので、『成瀬さん、何の冗談を言っているのですか?』が率直な気持ちでした。今思えば、とても危険な状態で、成瀬さんもよく僕を走らせようとしたと思います。今の私だったら、当時の私に対してニュル24時間参戦は絶対に反対したはずです(笑)」

80スープラで運転特訓を積んでいたモリゾウ(右)と成瀬弘氏(左)

 成瀬氏はなぜ、そこまでして章男氏にニュル24時間参戦を勧めたのか? 成瀬氏は明確には答えてくれなかったが、「この人なら、トヨタを変えてくれるに違いない」と思ったのだろう。章男氏に頭でっかちのエリートになってほしくない。そのためには第1線で体を張り、クルマづくりの厳しさ、そして現場が命を懸けてクルマをつくっていることをリアルに理解する必要がある。それが結果としてトヨタを変える大きな原動力になると。

 ただし、単独で走るのと、まわりのライバルと共に走るレースでは、危険度・リスク共に計り知れないのも事実だ。

 成瀬氏は当時、「最近のニュルブルは路面の補修が行なわれて、だいぶフラットになってきましたが、今も危険なコースです。僕は40年以上ここ走っていますが、400人以上が亡くなっていると聞きました。実際にコース上で事故を目撃したこと、そして助けたことも何度もあります。

 章男さんは今後のトヨタを背負う人なので、絶対に何かあってはならない。それに、もし何かあったら新聞記者たちは面白おかしく書くでしょ? そこで僕は章男さんとこのような約束をしました。それは『レースには出るけどレースはしない』『クラッシュしたら、即終了』だと」。

ニュルブルクリンクはとても危険なコース。モリゾウへ課せられた参加条件は「クラッシュしたら、即終了」だったという

 ニュル24時間レース参戦を決意した章男氏は、3年近く今まで以上に運転特訓を行なってきたが、ニュル24時間レース参戦には競技ライセンス(国際Cライセンス)が必要となる。取得条件は国内のJAF公認レースに参戦し2回完走(当時)である。

 実は実績によってはJAF公認クラブから推薦をもらって取得……と言う方法もあるのだが、章男氏は一般の人と同じステップを踏んだ。そのキッカケは、トヨタ車で長年レース活動を行なっている名門レーシングチーム「TOM'S」の会長兼ファウンダーの舘信秀氏のひと言だった。

 舘氏は当時、JAF公認クラブ「TMSC(トヨタ・モーター・スポーツ・クラブ)」の会長だったため、成瀬氏が推薦を頼みにいくと、「推薦はできません。章男さんは正々堂々と真正面から順序を踏んで取得したほうがいい」と断られたそうだ。

 そこでライセンス取得に向けた国内レースに参戦するわけだが、最初は2007年3月11日にツインリンクもてぎ(現モビリティリゾートもてぎ)で開催されたヴィッツカップに。その次は3月25日に岡山国際サーキットで開催された2時間耐久レースにアルテッツァ(100万円で購入したレーシングカー)で参戦し完走。国際Cライセンス取得の資格を得た。

 この時ドライバー名を豊田章男ではなく「MORIZO(モリゾウ)」にしたのは、以前の記事で話した通りだ。

 章男氏にこのレースのことを聞くと、「必死だったので、何も覚えていません」と笑いながら教えてくれたが、2回目のレースの日付(3月25日)はしっかりと覚えていた。なぜか? 実は翌日の3月26日にニュル24時間の壮行会が行なわれている。つまり、もし章男氏が前日のレースで完走できなかったら、このプロジェクトは成立しなかったのである。

 ちなみに壮行会は東京の紀尾井町にあるトヨタのゲストハウスで行なわれたが、何とその隣の部屋では、当時の社長が懇親会を開催していたそうだが、壮行会のことは梅雨知らず……。

 章男氏は2025年ニュル24時間レース後、全メンバーに向けて「よく言えば“裏番組”として、わるく言えば“ゲリラ的”にスタートしたニュルの活動ですが……」と語っているが、本当にトヨタから応援されない船出だったのである。

 ちなみに、当時のトヨタは販売台数で世界No.1となったが、クルマ好きからの評価は真逆で「トヨタはつまらない」「欲しいクルマがない」とソッポを向かれていた。つまり、企業としては優秀だったが、クルマ屋としては落第だった……。

山本シンヤ

東京工科自動車大学校・自動車研究科卒業。自動車メーカーの商品企画、チューニングパーツメーカーの開発を経て、いくつかの自動車雑誌を手掛けた後、2013年にフリーランスへと転身。元エンジニア、元編集者の経験を活かし、造り手と使い手の両方の気持ちを分かりやすく上手に伝えることをモットーにしつつ、クルマの評論だけでなく経済からモータースポーツまで語れる「自動車研究家」として活動中。日本カー・オブ・ザ・イヤー選考委員、ワールド・カー・アワード選考委員、日本自動車ジャーナリスト協会会員。YouTubeチャンネル「自動車研究家 山本シンヤの現地現物」も運営中。