自動車研究家“山本シンヤ”が聞いた「MORIZOがニュル24時間へ挑む理由」

第13回:トヨタのニュル24時間レース黎明期の活動を裏で支えたキーマン「監督ボス」に当時を振り返ってもらった

2007年にニュル24時間に参戦した2台(109号車、110号車)のアルテッツァRS200(画像はトヨタ ガズーレーシング フェスティバル 2011でのデモ走行)

 よく言えば“裏番組”として、わるく言えば“ゲリラ的”にスタートしたニュルブルクリンク24時間への挑戦。社内外のサイレントマジョリティのサポートもあり、2007年に参戦。

 2025年の東京オートサロンで配布された資料には、このように記されている。


『ここから味作りの旅が始まった』


 ニュル24時間初挑戦はトヨタの正式なプロジェクトではなく、インターネットサイト「GAZOO.com」のコンテンツの1つで、クルマの魅力と楽しさを伝える企画としてスタート。既存のレーシングチームなどに頼るのではなく、全てがトヨタ社内のメンバーで構成され、若き日のモリゾウやマスターテストドライバー・成瀬弘さんを中心に技能系メンバーが参加。中古車の「アルテッツァRS200」を2台レーシングカーに仕立て、レースという極限状態での“クルマとの対話”を学んだ小さな第一歩だった。

 筆者(山本シンヤ)はこの時取材をしているのだが、今のように中まで踏み込むことができなかったので、これ以上の情報を持っておらず……。そのため、実際に現場ではどのようなストーリーがあったのかを、当時関わっていた人に聞いてみたいとずっと思っていた。そのキッカケを作ってくれたのは、モータージャーナリストの先輩でありレーシングドライバーの佐藤久実氏だった。

 佐藤氏はGRのニュルの活動に古くから参画。筆者もニュルの現場で何度も話を聞かせてもらった。ある日、ひょんな事から「GRのニュルの活動を振り返っているんですよ」と話をすると、「それなら、絶対にこの人に聞かないとダメ」とある人物を紹介をしてくれた。

「ニュルブルクリンクへの挑戦 2007」では、Team GAZOOのメンバーをイラストとコメントで紹介している

 TGRのニュル24時間の活動を紹介しているホームページに「過去のシーズン」というリンクがあるが、2007年のページには当時のメンバーが紹介されていて、実名ではなくあだ名で書かれている。

 ちなにに「キャップ」は成瀬弘氏、「モリゾウ」は豊田章男氏なのはいわずもがなのだが、1人だけ分からなかったのが「監督ボス」だ。紹介文には「見た目は怖いが、根はやさしい肝っ玉とうさん」と書かれているが、実はこの人こそが、佐藤先輩が紹介してくれた、成瀬弘氏と豊田章男氏のニュル24時間の活動を裏で支えたキーマン・宮寺和彦氏である。

 宮寺氏は2009年にトヨタを退職。トヨタ紡織を経て現在はトヨタとの直接のビジネスがないユニークな技術を持つ会社をサポートするコンサルタントを行なっている。連絡を取りンタビューのお願いをすると「私でよければお話しますよ」と快諾をいただけた。

モータージャーナリストの先輩でありレーシングドライバーの佐藤久実氏の紹介によって、ニュル24時間の活動を裏で支えたキーマン・宮寺和彦氏にお話を聞く機会を得られた

 そもそも宮寺氏がなぜチーム監督に任命されたのだろうか?

「当時、私はトヨタのヨーロッパ拠点であるTME(トヨタ・モーター・ヨーロッパ)の技術トップでした。古くから成瀬さんはよく知っていて、ニュルのテストの時に万が一の事故に備えて『ドイツの中でどこの病院が良いか? 最短距離はどこか?』など安全管理のサポートを行なっていました。

 ある日、成瀬さんと現地で食事をしていた時、成瀬さんから突然『ニュル24時間に参戦するので、監督をやってほしい』と言われ。私はレースの監督の経験がないので『本当に私でいいんですか?』と戸惑いましたが、最終的には『何かあったら責任を取ればいい(辞めればいい or クビになるだけ)』と腹をくくって引き受けました」

 技術トップ……トヨタの中では「白い巨塔」側の人間だが、これまでのニュルでのテストでサポートしてもらっていたこと、日本から離れて比較的自由(!?)な環境であること、そして現地での交流から「コイツなら大丈夫」という“何か”を感じて声をかけたのだろう。

 車両製作、チーム運営は日本サイドで進めていたが、実際の所はどうだったのだろうか?

「それはもう大変でしたよ(苦笑)。我々はレースに関してはド素人集団でしたので、レースのノウハウどころか必要な道具すら持っていない状態。さらにマシンが車検に通らないレベルで、現場で慌てて対応。加えてレース直前まで雨漏りが直らないなど、とにかくレースが始まる前からドタバタの連続。言葉を濁さずにいえば、当時は同好会レベルの素人同然のチームだった。当然、レース中はもっと大変だった。

 レース中もピットの役割分担も決まっておらず、手の空いている人が作業を行なう状態。ピット作業は『短時間で正確に』が基本ですが、作業もおぼつかず……。ニュル24時間はピットを複数のチームで共有するので連携が必要ですが、他のチームから『いつピットに入るんだ、邪魔だから退け!!』と怒られることも。プロのレース現場の中では不釣り合いな状況だったのを覚えています。リソースも人も全く足りておらず、現場は常に大混乱でしたが、全員が同じ目線で必死に動いており、それが一種の“連帯感”を生んでいました」

 現地での宿泊設備は用意されておらず、メンバーはチームテント内にパーティションを手作り、その中のベンチに寝袋を敷いて寝る環境だったそうだ。ちなみに豊田氏はこの時ニュルに大量にレトルトカレー(実は大好物)を持参。毎日のように食べていたので、ヘルメットの中がカレーの匂いで充満……というエピソードも。

 そんな豊田氏に関して、いろいろ印象に残っているエピソードを聞いてみた。

「父親である(豊田)章一郎氏からは『お前は走らないんだよな?』と釘を刺されていたようですね。そのため、『レースには出ません。あくまで練習走行やチームサポートです』と答えて現地入りしていたと聞きました」

 ちなみに当時の豊田氏は、ニュル24時間の凄さ、そして過酷さをあまり理解していなかったようである。

「成瀬さんと『この挑戦は“完走”することが目標』と決めていました。それを章男ちゃん(宮寺氏は親しみを込めてこう呼ぶ)に伝えると、『完走? レースは勝たなきゃ意味ないじゃないのか?』と。恐らく『レースに出る=勝負』というイメージだったのでしょう。ただ、その考えはレースと共に変化していきました」

 ちなみに2007年のニュル24時間はニュル特有の濃霧の影響で10時間くらいレースが中断。この時の事を豊田氏はこう振り返っている。

「成瀬さんの後ろで、ずっとバックミラーを見ながら走りました。とにかく後ろからクルマが来たら全部抜かさせる、そんなレースでした。今思えば、よく成瀬さんは僕を走らせたし、僕も何もなく帰ってこられたと思います。そんな1回目の走行(夜間)を終えて仮眠を取っていました。ふと起きると周囲が静かな上にスタッフも誰もいなかったので、『あれっ、寝過ごしたかな!』と不安になりました。レースが中断していることを聞いて事態は飲み込めましたが、もしかしてスタッフが私を心配するあまり、私が寝ているのをいいことに、『ちょうどいい、そっとしておけ』となったのではと、一瞬、頭に来てマネージャーに『なんで起こさないんだ!』と電話しました(笑)」

 恐らく、スタッフがレース中断時にクルマを整備・修理していることを、自分だけが何も知らされず寝ていたことに対して「申し訳ない」という気持ちになったのだろう。ちなみに現在、豊田氏はS耐24時間やニュル24時間の時、必ずヒットに深夜・早朝にチームの状況を自ら確認しにくるのは、この時の教訓なのだろう。

 ちなみに宮寺氏は「当時はピットにふらっと現れて会話ができる自然な環境でしたが、現在は周囲のスタッフの動きで事前に到着が分かってしまい、昔のような『気がついたらそこにいた』という緊張感や親密さが薄れているような気も……」とも語っている。

 で、2007年の結果はどうだったのか? 2台のアルテッツァは満身創痍ながらも完走を遂げた。最終ドライバーは成瀬氏と豊田氏だった。フィニッシュ直後、宮寺氏は豊田氏を撮影したが、涙で顔はクシャクシャだったという。リザルトは109号車が80周走ってSP3クラス16位(総合110位)、110号車が82周走ってSP3クラス14位(総合104位)と記録には残らないものだったが、チームメンバーはまるで優勝したかのように喜びにあふれていた。

ゴール直後のモリゾウ選手ことトヨタ自動車株式会社 代表取締役会長 豊田章男氏(※提供:宮寺和彦氏)

 ちなみに宮寺氏はレース直後のBolgで、ニュル24時完走をこのように総括している。

「我々はレースで勝って宣伝したいのではなく、レースに参加して走る喜びをわかちあい、レースに参加してチームメンバーの成長に貢献したい……。そうした想いを胸にニュルにやってきました。レースという『限られた時間』『相手がいる場』の中で、着実に走行させるためには、力を合わせて息の合った仕事は必須で、ニュル24時間への道はまさに『最高のトレーニング』でした。今回のチーム運営はできるだけ自分たちで分担し進めてきましたが、短い時間でここまでやってこられたのは、プロジェクトに関わるチーム全員が、それぞれの役割をよく理解し、ベストを尽くしたお陰です。 『夢・チャレンジの実現は、皆の思いの結集』『思いつづけて努力すれば、夢は実現する』 、ありきたりですが、私なりの結論です」

 そして、周囲に反対されながらも進めたこの小さな第1歩こそが、トヨタが、そして豊田章男が“変わる”礎を築いたのはいうまでもないだろう。恐らく、豊田氏は極限状態を乗り越えた先にある「クルマとの対話」、そして「仲間の信頼」をこのレースを完走したことで、経営者としてではなく1人のクルマ好きとしての心を激しく揺さぶったのだろう。

2台ともにゴールを達成し、喜びにあふれていたという

 その後、ニュルの活動は継続的に行なわれたが、世界中に脅威をふるったコロナウイルスの影響で一旦休止。しかし、2025年に復活を遂げた。現在は「モータースポーツを起点としたもっといいクルマづくり」を体現する重要な取り組みの1つであることは、皆さんのご存じの通り。

 そんな黎明期のニュルの活動を支えてきた宮寺氏は、その後のニュルの活動をどのように見ていたのだろうか?

「当時は誰もが『自分が動かないとどうにもならない』という危機感の中で動いていました。恐らく、当時と比べると体制・人材・技術など当時とは雲泥の差だと思いますが、よくもわるくも組織化された印象で、かつての情熱が維持しにくい状況が見受けられます。その辺りは章男ちゃんもちゃんと認識しているからこそ、『2025年は原点回帰』と宣言したのでしょうね」

2025年のニュルブルクリンク24時間レースにて、第2スティントの9周を走り終えた後、ファンの記念撮影要望に応じていたモリゾウ選手こと、トヨタ自動車株式会社 代表取締役会長 豊田章男氏(中央右)
山本シンヤ

東京工科自動車大学校・自動車研究科卒業。自動車メーカーの商品企画、チューニングパーツメーカーの開発を経て、いくつかの自動車雑誌を手掛けた後、2013年にフリーランスへと転身。元エンジニア、元編集者の経験を活かし、造り手と使い手の両方の気持ちを分かりやすく上手に伝えることをモットーにしつつ、クルマの評論だけでなく経済からモータースポーツまで語れる「自動車研究家」として活動中。日本カー・オブ・ザ・イヤー選考委員、ワールド・カー・アワード選考委員、日本自動車ジャーナリスト協会会員。YouTubeチャンネル「自動車研究家 山本シンヤの現地現物」も運営中。