自動車研究家“山本シンヤ”が聞いた「MORIZOがニュル24時間へ挑む理由」

第16回:トヨタの「走る・壊す・直す」のクルマづくりが本格的にスタートした2009年のニュル24時間

2009年のニュル24時間参戦マシン「LF-A」

 開発車両でのニュル24時間への参戦によるフィードバックは、極めて大きなモノがあった。LF-Aは社内のテストコースに加えて、ニュルをはじめ国内外のサーキットで3年近い年月をかけて開発・評価を行なってきた。開発陣は現状の中での「ベスト」を尽くて挑んだが、それでもレースでは予期せぬトラブルが発生したのである。

 LF-Aはニュルを中心に開発を行なっているが、テストでは壊れなかったのにレースで壊れたのは、なぜか? そこには常に一定ではない路面環境、急激な温度変化や天候変化、他車と一緒に走る(=常にレコードラインを走れない)ことなどにより、テストでは想定しない極限の負荷がレース環境には存在したからに他ならない。それを開発陣はこの挑戦を通じてリアルに体感したのだが、これこそが豊田氏が常日ごろから語る「走る・壊す・直す」のクルマづくりのスタートであった。

 さらに、このリアルな経験は量産開発の改善・課題の発見にもつながった。チーフエンジニアの棚橋晴彦氏は、「レースに参戦するために、成瀬(弘)さんが手作りで補強をプラス。レースではスリックタイヤを履くのでバランスを取るためだったと思いますが、その後、量産の開発車と乗り比べるとステアフィールが違う。そこで量産仕様にすぐにフィードバックしました。まさにレースから“学んだ”ことですね」と教えてくれた。

 2009年のニュル24時間は2008年に引き続きLF-Aでの参戦となったが、2008年と大きく異なるのはLF-Aの開発テストとGAZOO Racingの活動がリンクし、「レースを通じて車両開発を行なう」がより本格的になったことである。

白から黒のボディには「プロトタイプから量産に近づいた(=色が付き始めた)」と言うメッセージが込められていた

 マシンは2008年の反省を活かし、ボディ剛性や空力を煮詰めたアップデート版となったが、量産車開発の一環であることは変わらない。ちなみにボディカラーにも意味が込められていた。ボディ後半分は2007年と同じく艶消し黒だが、ボディ前半は筆のタッチを思わせる白で彩られていた。これにも意味があり「プロトタイプから量産に近づいた(=色が付き始めた)」と言うメッセージだ。さらに2台体制にすることで、より多くのデータ収集とフィードバックを目指した。

 ドライバーは2008年以上に、バラエティに富んだ布陣となった。


14号車:モリゾウ/ハピエル・キュロス/木下隆之/飯田章選手
15号車:成瀬弘/アーミン・ハ-ネ/ヨッヘン・クランバッハ/アンドレ・ロッテラー選手


 そう、ジェントルマンとプロフェッショナル、そして開発ドライバーが混成で挑む体制が整えられたのである。

 モリゾウこと豊田章男氏は、2007年に続いて2回目のドライバーとしての参戦となったが、プロに混じって自ら走ることの意義を、このように語っている。

「なぜ、プロに交じってプロではない私がドライバーとして乗るのか? 一般のお客さんは走りのプロではありませんので、プロと一般のお客さんの間に私が入って、何かを少しでも縮めることができたら……。だからこそ、命を懸けてこういう活動をしています。ただ、私はレースをしていません。LF-Aの走りを確認するために走るのです」

2009年のドライバー布陣はジェントルマンとプロフェッショナルと開発ドライバーが混成していた

 また、GAZOO Racingの本質である「クルマ文化を、より身近に伝え、クルマを愛する人を増やしていきたい」と言う所に関して、GAZOO.comの「モリゾウのドライバー挑戦記」にこのように記している。

「ニュル24時間は、モータースポーツファンの目線で運営されているのも大きな特徴です。予選終了後にチームメンバー全員で、ニュルのコースを回りました。もちろんレーシングカーではなく市販のクルマ数台に便乗。

 GAZOO Racingニュル初参戦の時から、『MHスポーツ』というニュルのレースサポート会社は、色々とお世話になっています。今回の体験もMHスポーツの“ドマガラさん”という方のご厚意で実現でき、チームメンバーも大喜びです。

 コース周辺には、1週間ほど前から、仲間や家族のテントやキャンピングカー、お手製のやぐらなどで埋め尽くされていきます。

ニュル24時間レースのオフタイムでは、観客もコースに入れるイベントなども催していてる

 オフタイムには、観客もコース内に入ることができ、たくさんの人が歩き回ったり、座り込んで談笑したり、自転車に乗ったり、さらには、路面への落書きやラジコンカーから、花火まで……。みな思い思いに、自由に時間を楽しみます。そこには『観客やファンと一体になったモータースポーツ』があります。

 少なくとも、コースの中に入るなんてことは日本では考えられません。24時間レースを選手だけではなく、「皆で楽しもう!」という文化にはいつも感動しますし、この先、日本でもそういう文化が育てていければと思います」。

 ちなみに、このニュルのコースをひと回りするツアーに1人だけ反対していたのが成瀬氏だった……。豊田氏は「このツアーの唯一の抵抗勢力は成瀬さん。『レース前にお前ら何をやっているんだ!』と怒られました」と、当時を振り返っている。

モリゾウはコースの縁石にサインを入れ、ニュルの地にに思い出を刻んでいた

 チームはニュル24時間前に実戦テストを兼ねてニュル耐久シリーズ(VLN)に3回出場。優勝、2位、3位と上位入賞を果たしていた。加えて、木曜日の予選前にはRCNレースという耐久レースにも参加して最終チェックを完了。万全な体制で24時間レースの公式スケジュールを迎えた。

 予選は14号車が総合24位(SP8クラス3位)、15号車が総合23位(SP8クラス2位)を記録。参戦目的は順位を追い求めることでないものの、誰もがラップモニターに釘付けになっていたそうだ。

 決勝はニュルは2008年以上に牙を向いた。15号車がオープニングラップにドライブシャフトのジョイント破損、途中まで順調だった14号車も夜明けに充電系のトラブル発生。どちらも修復にかなり時間を要したが、修復後は後は安定に走行を続けた。しかし、ゴールまで残り1時間半、15号車はメカニカルトラブルでリタイヤ。14号車はシッカリと走り切って総合87位(SP8クラス3位)を獲得した。

 モリゾウは「悔しい場面もありましたが、その瞬間、瞬間が何事にも変え難い“明日への希望”につながるものだったと思います。そして同時に、この24時間でいくつもの宿題をいただきました……」と語った。

 ちなみにこの年は、コース外で記憶に残るエピソードもあった。2009年6月に社長就任を控えたニュル24時間、ピット・パドックにはレースでは不釣り合いなスーツを身にまとった新聞・経済紙の記者が押し寄せた。当然、レースとは無関係な質問が来ることを予見した豊田氏は取材を断った。

 そんな彼らはインタビューが取れなかった腹いせに、同じ日本チーム(STI NBRチャレンジ)のチーム監督である辰己英治氏と、ドライバーの清水和夫氏がいるピットを訪れ、このような質問を投げかけた。

「社長の道楽でレースに出ているのは、どのように思われますか?」

 2人は即座にこのように答えた。

「クルマ屋の社長が、クルマの運転をして何がわるい!!」

 ちなみにこの年のニュル24時間には、アストンマーティンのウルリッヒ・ベッツCEO(実は2007年から3年連続で同じピットを使用)、VWの技術担当副社長であるウリッヒ・ハッケンベルグ氏がドライバーとして参戦していた。トップが自らステアリングを握ってレースに参戦……海外ではそれほど珍しい光景ではないが、日本では前例がないことと「楽しそうに見える=遊び?」と言う解釈が、残念ながら一般的だったのである。

当時は道楽でレースに出ているなど誤った報道も多かった

 豊田氏はこの時のことを、「その話はどこからか僕の耳にも漏れ伝わってきました。まわりの人間の多くが穿った目で見ている中でのあの言葉、本当に嬉しかった。まさに『ありがとう』のひと言に尽きます。実は当時はニュルの活動がいつ終わってもおかしくない状況でしたが、そんなニュル仲間のエールに『我々もニュルの活動を絶対に続けていかなければ』と決心しました」と、今でも鮮明に覚えていると語っている。

 このように2009年の挑戦は、トヨタのクルマ作りと日本のモータースポーツ文化に大きな一歩を刻んだような気がしている。

山本シンヤ

東京工科自動車大学校・自動車研究科卒業。自動車メーカーの商品企画、チューニングパーツメーカーの開発を経て、いくつかの自動車雑誌を手掛けた後、2013年にフリーランスへと転身。元エンジニア、元編集者の経験を活かし、造り手と使い手の両方の気持ちを分かりやすく上手に伝えることをモットーにしつつ、クルマの評論だけでなく経済からモータースポーツまで語れる「自動車研究家」として活動中。日本カー・オブ・ザ・イヤー選考委員、ワールド・カー・アワード選考委員、日本自動車ジャーナリスト協会会員。YouTubeチャンネル「自動車研究家 山本シンヤの現地現物」も運営中。