自動車研究家“山本シンヤ”が聞いた「MORIZOがニュル24時間へ挑む理由」
第15回:モータースポーツを起点としたもっといいクルマづくりの原型
2026年4月10日 00:00
「世界では自動車大国と呼ばれているにも関わらず、日本にスーパースポーツが存在しない現状を何とかしたい」
そんな想いを胸に、2000年にトヨタの中で1つの特別なプロジェクトが静かにスタートした。そのクルマの開発コードは「654Z」、のちにレクサスLFAと呼ばれるモデルだ。
企画当初は「既存のコンポーネントを活用しながら」だった、加藤光久副社長(当時)の「トヨタはあと2年でF1に出る(2002年から参戦)。ありきたりなスポーツカーでお茶を濁すのではなく、もっと凄いのを作ろう!!」の声に、チーフエンジニアの棚橋晴彦氏は全てをゼロから開発することを決断したそうだ。
棚橋氏は世界のさまざまなスーパースポーツに触れ、「このクルマを開発する上で、性能や速さはもちろん、『乗ってどう感じるか』という数値に表れない官能性を大事にしたい」と考えた、開発コンセプトは「世界一速く、世界一安全で、世界一官能的なスーパースポーツ」。そんなクルマにするために、評価・味付けは合議性を取らず1人のドライバーに委ねた。それが成瀬弘氏である。
「成瀬さんは『クルマはニュルでないと鍛えられない。人間もね……』が口癖でしたので、このクルマは彼に託したいと思っていました。そこで2003年にプロトタイプができる時、どちらからともなく『一緒にやりませんか』となりました。成瀬さんは『命をかけてやってくれ、といわれれば、私はこのクルマに命をかけますよ』といってくれました(棚橋氏)」
このスーパースポーツは、2005年のデトロイトショーで「レクサスLF-A(レクサス・フューチャー・アドバンス)」として世界初公開。V10エンジン、CFRPキャビン×アルミフレームなどが注目されたが、最もこだわったのは成瀬氏の「クルマは材料で決まる」というクルマづくりの思想を具現化した基本性能だ。
スーパースポーツの多くは、ドライバーの後ろにエンジンを搭載するミドシップレイアウトを採用しているが、成瀬氏は「トヨタ自動車が世に出す以上は、最後の最後にクルマがドライバーを突き放すようなクルマにすべきではない」とFRレイアウトを選択。その上で理想の重量配分の実現させるために、トランスミッション(6速AMT)をリアに置くトランスアクスル方式が採用された。
試験車をニュルで走らせると、単純に速いというだけでなくドライバーに何ともいえない気持ち(=乗って気持ちいい)にさせるクルマだと感じた一方で、これまでのトヨタ/レクサスのモデルとは比較にならないスピード、G、熱、そして遠心力など、初めてのモノにぶつかり合う「苦しみ」を嫌というほど味わったそうだ。
開発チームはこれらの課題を最短で解決するために、2008年のニュル24時間に参戦を決めた。これは豊田章男氏の「LFAでニュル24時間に出よう!!」というひと言がキッカケだったという。人によっては何気ないひと言に感じるかもしれないが、筆者は2007年にニュル24時間にドライバーとして参戦し、あの道の厳しさ、レースの過酷さ、そしてニュルがクルマづくりと人づくりに役立つ最短のルートであることを、身をもって体感・実感したからこそ出たひと言だったと思っている。
ちなみに発売前のクルマでの参戦は「PRやティザーのため」というケースが多い。ただ、この挑戦は「開発テストとして」である。そのため、勝負に関しては全くこだわっておらず、24時間耐久レースという過酷なモータースポーツの場での挑戦を通じてクルマを鍛え、その後の開発にフィードバックすることがミッション。
そもそも“正式”なプロジェクトとして認められたのは2005年、商品化が決定したのは2007年で、開発のフェイズでいえば、まだ開発完了どころかゴールがまだ見えていない状況だった。
チーム名は「Team LF-A」、マシン名は「Lexus LF-A」でSP8クラスにエントリー。艶消し黒でステッカーは主催者から指定されるモノ以外は一切なし。レースカーとしては異様な雰囲気だった。ちなみにレース用の軽量化などは行なわれていないどころか、データ取り用の計測機を搭載し、車両重量はデフォルト+200㎏くらいだったそうだ。さらにレースをサポートするメカニック陣(トヨタ社員)は若手を中心に起用が行なわれて、技能系人材の育成も担っていた。
ドライバーは清水和夫氏、木下隆之氏、中谷明彦氏、飯田章氏の4人。彼らは日本を代表とするレーシングドライバーであると共にモータージャーナリストである。つまり実戦を通じて、社内だけでなく第三者からの評価やフィードバックを聞くミッションも担っていた。ちなみにドライバーにはこのような指示が出ていたそうだ。
「クルマを壊さないように、と手抜きすることなく走ってほしい」
「完走など目指さなくていいです。徹底的に痛めつけて、課題を持ち帰る」
レース中はタイヤの脱落(ハブのトラブル)やオイル漏れ(ミッションオイルクーラーのカシメ)などのトラブルが発生。普通のレースであれば応急処置ですぐに復帰させるのだが、今回は開発テストなので原因の徹底解明と完全修理が優先された。リザルトは総合121位(150台中)、SP8クラス7位だったが、今後の開発のためのデータや課題はたくさん手に入ったそうだ。
豊田氏はこの時の決断について、このように振り返っている。
「走りにこだわるクルマはテストコースでNVH(ノイズ・バイブレーション・ハーシュネス)を見ているだけではダメで、ニュルで鍛え育てる必要があります。そのためには、クルマだけでなくエンジニアの意識改革もしないといけないと思いました。今回4人の全く思想の異なるドライバーが組んで24時間を走りました。クルマはかなり痛めつけられましたが、クルマはさらに鍛えられ、エンジニアには色々な知恵が生まれたと思っています」
そう、この時すでに豊田氏が常日ごろ語る「モータースポーツを起点としたもっといいクルマづくり」の原型となるモノが生まれていたのである。





