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第17回:脇阪寿一氏が明かす2010年ニュル24時間レースの裏側とLFAが証明した“もっといいクルマづくり”の原点
2026年9月4日 00:00
2008年、2009年とプロトタイプ(レクサスLF-A)で挑戦を重ねてきたが、GRにとっての2010年のニュル24時間レースは、これまでとは決定的に異なる意味を持っていた。
その前の年、2009年10月に開催された東京モーターショーで市販モデル「レクサスLFA」として世界初公開。つまり、LFAにとっては“卒業試験”でもあったのだ。
この時、成瀬氏は周囲に対してきっぱりとこう言い放った。
「今年の目的は“勝つ”ことだ」
これまでニュル挑戦は「開発のため」、「勝ち負けはどうでもいい」といい続けてきたオトコが、今回はっきりと勝利こだわったのである。
「クルマには物語が必要。市販化を迎えるLFAの門出に、俺たちは勝たなきゃいけない」
マシンは2台体制。ドライバーも国内外のトップドライバーがアサインされた。50号車にはニュルを知り尽くす木下隆之氏、飯田章氏のベテラン勢に加え、新たに脇阪寿一氏と若手の大嶋和也氏という強力な日本人カルテット。対する51号車にはアーミン・ハーネ氏、ヨッヘン・クルンバッハ氏というニュルの名手に加えて、当時スーパーGTやフォーミュラニッポンでも活躍していたアンドレ・ロッテラー氏を配する盤石の体制を敷いた。
その中でも成瀬氏が熱烈なオファーを出した相手こそが、当時国内のスーパーGTで絶対的な強さを誇っていたトップドライバーの脇阪氏であった。
「ニュルで、日本の“ほんまもん”を世界に見せる。あなたの力を貸してください」
なぜ成瀬氏はそこまで「結果」に執着したのか。脇阪氏は当時の様子を振り返り、筆者に語ってくれた。
脇阪氏はそんな成瀬氏からのオファーを、最初はこう理解していたという。
「スーパーGTでチャンピオンを獲っている自分を呼ぶということは、勝つためだろう。ニュルは初めてだが、俺がいけば勝てる」。
当時の脇阪氏は、チームとクルマを利用して己の名声を高めることこそがドライバーの本分だと信じて疑わない、ギラギラとした野心を胸にドイツへ乗り込んだ。
しかし、現地で目にしたピットの風景に、脇阪氏は激しい不安を覚えた。
「ピットにはプロのレース部隊とはまったく違い、トヨタの社員メカニックたちばかり。本当に大丈夫なのかと思いました」。
ちなみに初年度からのメカニックでも経験は3年、さらにこの年は約半分が新人という体制だった。有力チームから見れば信じ難い体制だが、これは参戦初年度から変わらない。
しかし脇阪氏の疑念は、コースインした瞬間に吹き飛んだ。成瀬氏たちが心血を注いで鍛え上げてきたLFAは、荒れた路面や高い縁石を前にしても、GT3マシンならアクセルを戻すような場所を全開で駆け抜けていけた。クルマの仕上がりに魅了された脇阪氏は、自らの腕を誇示するようにペースを上げていった。そんな中、事件は起きる。
それは路面が部分的に濡れたトリッキーなコンディションで起こった。「この制御システムがあれば、ハーフスリックでも他を圧倒できる」と自らの過信からプッシュした脇阪氏が操るLFAはスピンを喫し、ガードレールへと激しくクラッシュしてしまった。
アデナウのエスケープゾーンまで10分間スロー走行を続けながら、脇阪氏の頭の中は真っ白になっていた。
「このまま逃げ出したい」
「完全な自分のミスだ、とんでもない怒声を浴びせられるに違いない」
そんな失意の脇阪氏に、現地の救護スタッフから手わたされた1台の携帯電話の向こうから聞こえてきたのは成瀬氏だった。
「クルマはすぐにピットへ戻しますから、心配しないでください」
ピットへ戻った脇阪氏を迎えた成瀬氏は、開口一番頭を下げ、このように語った。
「大丈夫ですか? お体に怪我はありませんか? 本当に申し訳なかった。あなたのようなドライバーがぶつかってしまうようなクルマをつくった、われわれがわるいんです」
さらに、後から駆けつけた豊田氏も、このような言葉を掛けた。
「寿一さん、ありがとう。あなたがクラッシュしても、ウチのメンバーは誰も文句なんていいません。この壊れたクルマを直すことで、メカニックたちがまた1つ育つんですから」
ミスを犯したドライバーを誰一人責めず、体を気遣い、自分たちのクルマづくりの糧にする。この時、自分の名声のために走っていた「レーシングドライバー・脇阪寿一」の中で、パチリと音を立てて心のスイッチが切り替わったそうだ。
「この人たちのために、このプロジェクトのために、全身全霊で走ろう」
その後、メカニックたちの修復によりよみがえったLFAは、決勝で驚異的な走りでクラストップを快走する。そしてレース終盤、予期せぬドラマが訪れた。脇阪氏がドライブしていたが、当初の予定では最後のスティントは別のドライバーへ交代だったが、無線から成瀬氏の声が響いた。
「今のクルマの状態を一番よく知っているあなたに任せたい。あなたでチェッカーを受けたいんです」
しかし、ロングスティントで膀胱が限界を迎えていた脇阪氏は、必死の思いで無線越しに叫んだ。
「成瀬さん、すいません! おしっこが漏れそうです!」
一瞬の沈黙の後、成瀬氏は静かに、しかし力強く返答した。
「分かりました。こちらでなんとかしますので、ピットインしたらすぐトイレへ走ってください」
LFAがピットロードに滑り込むと、ドライバーの1人である木下隆之氏がトイレの扉の前に仁王立ちし、他の誰も入れないよう固くブロックしてくれていた。ルーティンの作業中、チーム全員の連携プレー(!?)で用を足した脇阪氏は再びコックピットへ滑り込み、コースへと飛び出していった。ロスタイムはほぼなかった。
そして24時間後のチェッカーフラッグ、脇阪氏が乗った50号車はSP8クラス優勝(総合18位)を果たした。成瀬氏が求めた「名車の門出にふさわしい勝利の物語」が、完璧な形で完結した瞬間だった。
一方、51号車の戦いは50号車とはあまりにも対照的だった。 序盤こそ上位争いに加わっていたものの、過酷なコースは51号車に容赦ない試練を突きつける。度重なるマシントラブルに見舞われ、ピットでの長い長い修復作業を強いられたのだ。ガレージにこもりきりとなった時間は、実に11時間にもおよんだ。 勝負権を完全に失い、誰もがリタイアを覚悟するような絶望的な状況。しかし、社員メカニックたちは決して諦めなかった。油と汗にまみれながら夜を徹して懸命にレンチを握り続け、ついに51号車を再びコースへと送り出したのである。 結果は規定周回数不足により完走扱いにはならなかった。
しかし、ボロボロになりながらも最後まで走り抜き、50号車と共にチェッカーフラッグを受けた51号車の姿は、ただ速さを競うだけでなく「壊れたクルマを直して人を育て、強いクルマをつくる」という、GAZOO Racingのもう1つの原点を雄弁に物語っていた。
なぜ成瀬氏は、あれほどまでに「勝利」にこだわったのか? 当時、豊田氏が進めたニュルの挑戦やスポーツカー開発に対しては、社内外から「道楽だ」「本業に何の役に立つのか」という根強い批判や反発があったのは紛れもない事実である。
これまで何度もプロジェクト中止の危機があったLFAだが、ここで結果を残せなければ、「ほら見たことか」と豊田氏に泥をかぶせてしまう。成瀬氏は、豊田氏が目指す「もっといいクルマづくり」の旗印を守るため、反論を封じる唯一の証拠である「勝ち」を何としてもつかみ取る必要があったのだろう。
豊田氏がレストランの「オーナーシェフ」とするならば、成瀬氏はその厨房で味の根幹を支える「秘伝のタレ」をつくる職人だった。どんなに崇高な理想を語ろうとも、レースで勝てるクルマでなければ、その“味”が本物であるとは証明できない。
そんな成瀬氏の視線は、その先の“未来”へも向けられていた。レースウィーク中、パドックの小さなトレーラーの扉を閉め切り、成瀬氏は脇阪氏、そして当時若手だった大嶋和也氏と何度も密談を交わしていた。
「大嶋を、次の世代のクルマづくりができるドライバーに育てたいんだ」
そんな大嶋氏は、現在GRの車両開発を担当している。単にタイムを出すだけの存在ではなく、エンジニアやメカニックとクルマの対話を重ね、いいクルマづくりの真髄を伝えられるドライバーを育てる。ジェントルマンドライバーとプロドライバーが同じ目線でクルマを鍛え上げる今日のGRのスタイルは、この2010年のニュルで生まれた……と筆者は考えている。








