自動車研究家“山本シンヤ”が聞いた「MORIZOがニュル24時間へ挑む理由」
第19回:モリゾウはニュルの過酷な道を走ったことで経営者としての強靭な胆力を身に付けていた
2026年9月18日 00:00
2008年、トヨタ自動車は世界販売台数897万台を記録し、名実ともに世界の頂点に立った。しかし、その頂点からの景色を噛みしめる間もなく、同年9月に世界を襲ったのが「リーマン・ショック」だった。
拡大路線をひた走ってきた巨艦トヨタを直撃した未曾有の金融危機。2009年3月期の連結決算で営業損益は4610億円の赤字へと転落し、戦後初の大赤字という深い闇へと沈んでいく……。
まさに嵐が吹き荒れる2009年6月23日、14年ぶりとなる創業家出身の社長が誕生した。だが、そこに祝福の空気など微塵もなかった。世間やメディアからは「創業家のお坊ちゃんのお手並み拝見」と色眼鏡で見られ、あろうことか社内からも「この赤字の責任を取らせて、すぐに辞めさせればいい」という、冷ややかな視線が向けられていた。後に豊田自身が「まさに捨て駒だった」と振り返るほど、内外ともに完全に孤立無援からの船出だったのだ。
「もっといいクルマを作ろうよ」。
社長就任にあたり、豊田氏が掲げたメッセージは極めてシンプルだった。それは台数や利益という「数字」を追い求めるあまり、クルマ屋として最も大切な何かを見失いかけていたことへの痛烈な反省でもあった。しかし、世間はもちろん、社内からも「目標も言えないのか」「具体的ではない」と批判的な意見もあった。
そんな改革の号令をかけた矢先、さらなる試練が襲いかかった。アメリカで起きたレクサスの事故を発端とする、大規模なリコール問題と苛烈を極めたトヨタバッシングである。
電子スロットル制御システムの誤作動疑惑、さらにはハイブリッド車のブレーキフィーリングの問題へと延焼し、批判の炎は全米を巻き込む社会問題へと発展していった。
2010年2月、豊田氏はアメリカ議会下院の公聴会へ出席することを決断。ただ、社内外に味方は少なく、厳しい追及と敵意の目に囲まれた、まさに完全に“アウェー”であった。
赤字の責任を背負わされ、会社生命を揺るがすバッシングにさらされ、傷だらけの状態で重圧に押しつぶされそうになっていた豊田氏。ただ、その背中をポンと押したのは、運転の師であり、ニュル24時間の挑戦の苦楽を共にしてきたマスタードライバー・成瀬弘氏の、あっけらかんとしたひと言だった。
「公聴会では、命まで取られないでしょ?」
その言葉を聞いた時、豊田氏の脳裏によみがえったのは、緑の地獄と呼ばれるニュルの光景だった。2000年ごろから成瀬氏と共に始めたニュルでのドライビングトレーニング。
エスケープゾーンのない荒れた路面、ブラインドコーナーの先に潜むクラッシュの恐怖。
「果たして今日も生きて帰ってこられるだろうか?」。ステアリングを握りながら、絶えず本物の“死の恐怖”と隣り合わせで戦っていたあの極限の経験に比べれば、いくら言葉の矢が飛び交おうと、公聴会で命を奪われることはない。
豊田氏はこの時のことをこう語っている。
「その気持ちは、ニュルブルクリンクを走っていなければ、絶対に生じなかったことです。あの経験があったからこそ、恐怖に竦むことなく、事実と誠意を持ってあの公聴会を乗り切ることができました。そういう意味で、ニュルは『経営者・豊田章男』の原点でもあります」
冷笑や批判に立ち向かい、どんな極限状態にあっても逃げ出さずに現実と対峙する。経営者としての強靭な胆力は、ニュルの過酷な“道”の上でこそ培われたものだった。
厳しい追及が続いた公聴会を終えた直後、豊田氏が向かったのは、北米トヨタの販売店関係者や工場などで働く現地の従業員たちのもとだった。
問題が発覚してから激しい非難を浴び、自分たちが誇りを持って作ってきたクルマを否定され、最も苦しく悔しい思いをしていたはずの現地の仲間たち。ただ、彼らは会場に入ってきた豊田氏を、鳴り止まないスタンディングオベーションと「We love you, Akio!」の大歓声で温かく迎え入れたのである。
社内でも孤立し、アメリカ議会という極限の敵地で一人矢面に立ち、張り詰めていた心の糸が、その瞬間ふっと解けた。
マイクの前に立った豊田氏の目から大粒の涙が溢れ出した。言葉を詰まらせ、人目もはばからずに泣き崩れる豊田氏の姿に、会場の仲間たちもまた涙を流し、固い絆で結ばれた。
「自分は一人じゃない。現場で汗を流し、トヨタを信じてクルマを作り、売ってくれている仲間がいる」
冷徹な数字や社内政治ではなく、「現場の仲間」のために命を懸ける。経営者・豊田章男の覚悟が、決定的に固まった瞬間だった。
公聴会を経て、クルマ側に電子制御の欠陥はなかったことが証明されたが、豊田氏が目指したのは単なる「現状復帰」ではなかった。
「現場に近い社長でありたい」
お坊ちゃん社長と揶揄されたオトコが向かったのは、役員室ではなく、テストコースであり、愚直にモノ作りを行なう開発や製造の最前線だった。
「自動車メーカーである限り、結論がなくてもファクトがある場所、技術がある場所にトップが貪欲に飛び込んでいかなければ、本当の進歩は生まれない」。
かつて効率や台数が最優先され、スポーツカーが切り捨てられ、「いいクルマより売れるクルマ」を作らざるを得なかった時代、エンジニアたちも「やりたくてもやれなかった」悔しさを抱えていた。
「お手並み拝見」と冷ややかに見られ、誰もが長続きしないと思った船出。未曾有の危機を乗り越え、トヨタを真の「クルマ屋」へとよみがえらせる原動力となったのは、ニュルで流した汗、成瀬氏と共に誓った意地、そしてあの北米の仲間たちの前で流した涙だったのである。
ニュルの走りと悔しさを知るモリゾウが、トップとしてその見えない足枷を解き放ったことで、社内の空気は変わり始めた……ような気がした。








