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【三次試験場50周年】三次試験場の歴史と、なぜマツダのみがロータリーエンジンの量産に成功したのか?

広島で育てられたマツダは、広島でもの作りを続ける

2015年9月19日 開催

 9月20日に広島県三次市にあるマツダの開発テストコース「三次試験場」において「三次試験場50周年ファンミーティング」が開催されたのは既報のとおり。その前日となる19日には地元三次市住民への特別公開が行われていたほか、広島市内でマツダによる報道陣向け説明会が実施された。

 これは、20日に開催される「三次試験場50周年ファンミーティング」は、マツダファンが主催するものであり、祝賀イベントのため。三次試験場およびマツダの歴史については別途詳細な説明が行なわれた形だ。

 説明会の冒頭に上映されたのは2つの映像。1つ目は「ブランドエッセンスビデオ/Mazda Brand Essence Movie」で、マツダのクルマ作りの哲学を集約したものとなっており、マツダ社員がクルマ作りの基本に立ち返る際には必ず確認するという。

 もう1本は「Mazda Heritage ~広島に育まれた、今に続くマツダの挑戦の歴史~」で、マツダのクルマ開発の歴史が紹介されている。

「Mazda Heritage ~広島に育まれた、今に続くマツダの挑戦の歴史~」より
「Mazda Heritage ~広島に育まれた、今に続くマツダの挑戦の歴史~」

2020年のマツダ100周年に向けて社史編纂中のこぼれ話

マツダ 広報部 植月真一郎氏

 マツダは2017年にロータリー50周年、2019年にロードスター30周年、2020年にマツダ100周年とメモリアルイヤーが続く状況にある。創業100周年に向けて社史編纂を行っており、担当者である広報部 植月真一郎氏が、これまでのマツダの歴史を紹介した。社史編纂中に新たに分かったことも数多くあるという。

 マツダは1920年に「東洋コルク工業」というコルク製造の会社として創業。記者が初代社長と思っていた松田重次郎氏は、翌年の1921年に社長に就任した人で、元々は大阪で鉄工所経営を行っていたという。当時の広島は軍艦などの日本有数の製造地帯となっており、砲弾の振動防止に使われたりするコルクの需要は高かったそうだ。社業は発展していったが、1925年に工場火災に見舞われる。この絶望のときに広島で出会ったのが“日本の内燃機関の父”と呼ばれる島津楢蔵氏。島津氏は、日本初のガソリンエンジン製作、日本初のオートバイ“NS号”(Narazo ShimazuからNSと名付けられた)製作、日本初の航空機用エンジン製作などの輝かしい経歴を誇る人物。この島津氏が製作した「Aero・First号」で鹿児島~東京キャラバンをしているときに広島で松田重次郎氏と再開し、意気投合したのか1935年に社名変更をしていた東洋工業に入社した。

 コーポレートマークも、地球に“工”をデザインしたものになり、これは都合のよいことにカタカナの“ト”と“ヨ”を組み合わせたものに見えるとのことだ。

 島津氏入社後、1931年に発売したのがオート三輪“MAZDA Type DA”になる。この後、東洋工業はオート三輪メーカーとして歩むが、1937年には日中戦争が開戦1941年には太平洋戦争が始まり、戦時体制下での生産となる。そして、1945年8月6日8時15分、奇しくも松田重次郎氏の70回目の誕生日に原子爆弾が投下され、広島は焼け野原となった。

戦前のマツダの歩み
東洋工業のマークの由来について
オート三輪
グリーンパネルの命名の由来
原爆が広島に投下される
広島復興の中心となった東洋工業本社

 爆心地はよく知られているように「原爆ドーム(産業奨励館)」がある場所で、半径2kmは高温や爆風で壊滅したといわれている。東洋工業の社員も多くの方が亡くなったが、会社があった場所は爆心地から離れており、広島で唯一残った大規模な建物だったとのこと。8月6日以降、広島県庁や県警、NHKなどが東洋工業の社屋に間借りして業務を行い、文字どおり広島復興の中心地となった。前述したビデオで紹介されているように、東洋工業は原爆投下から4カ月後にオート三輪の生産を再開。復興の足としても活躍した。

 オート三輪、つまりもともとマツダは商用車メーカーだったわけだが、戦後乗用車メーカーへの転身を図る。その第1号車が1960年4月に発売した「マツダ R360クーペ」になる。この1960年代は自動車業界にとって大きな変革のあった時代で、戦後の保護政策から自由競争の時代へ変化するため、「貿易為替自由化計画大綱」(1960年)、「自動車行政の基本方針」(1961年)、「特定産業振興臨時措置法案」(1963年)などが発表されている。

 よく知られているように、スカイラインの開発メーカーであったプリンス自動車工業も、自動車製造メーカーを集約していくという特定産業振興臨時措置法案の影響で、1966年に日産自動車と合併した。

 マツダも合併されないためには、何らかの手を打たねばならなかったが、それが世界のメーカーがどこも成功していない“実用ロータリーエンジン開発”になったという。ロータリーエンジン開発は1960年に始まり、様々な書籍が世に出ている。その開発話は、マツダ自身が開発者である山本健一氏にインタビューしたドキュメントが自動車技術会で公開されているので、そちらを参考にしていただきたい。

内燃機関の革新とバンケル・ロータリー・エンジンの開発 山本健一(PDF)

https://www.jsae.or.jp/~dat1/interview/interview22.pdf

 植月氏が強調するのは、ロータリーエンジン開発と同時期に会社が何をしていたのかということ。当時、日本政府からはドルの持ち出し制限などもあったが、ロータリー開発について日本政府の認可を獲得したことで、資金的な自由度を獲得。ここから大規模な生産設備の投資などが始まり、1965年に完成した三次試験場もその流れの中にあるわけだ。

 また、当時東洋工業だけがロータリーエンジンの開発に成功した理由として挙げたのが、東洋工業は研削盤など工作機械メーカー(現在はトーヨーエイテックとして分離)でもあったこと。ロータリーエンジンは独特の曲線を描きながらローターが回るため、そのためのハウジングを作れるメーカーは世界のどこにもない。この研削盤の技術や、コルク業に由来する鋳造技術を持っていたことがロータリーエンジンの開発に成功した1つの要因であるとした。

 植月氏は100周年に向けて社史編纂を進めている最中だが、「細部まで分かっていないことも多い」と語る。2020年に向けての作業がこれからも続いていく。

なぜ、ロータリーエンジンに挑戦したのか?
マツダ最初の乗用車は1960年発売
当時の戦略
時代背景
ロータリーエンジンとの出会い
ロータリーエンジン開発とは
マツダの動き
同時に起きていたこと
設備投資を行ない、研究開発から生産、流通までを整備した
ロータリーエンジンのライセンスを受けたメーカー
開発過程のひとコマ
ロータリー開発陣。ロータリー四十七士として知られているが、植月氏によると46人しか写っていないとのこと。おそらくシャッターを切っているのが、もう1人ではという推測
ロータリーエンジン開発に役立ったマツダの技術

開設当時は国内最大規模を誇った三次試験場

マツダ 車両開発本部 冨田知弘氏

 三次試験場については、車両開発本部 冨田知弘氏が解説。三次試験場は1965年6月に開設され、当時の試験場の敷地は150万m2。これは当時、一企業の持つ試験設備としては国内最大規模を誇った。

 特徴は、コーナーを3つ持つ1周4.3kmの周回路にあり、設計車速は185km/h。185km/hで走れば、ステアリングを操作することなく周回を続けることができるそうだ。最高速は200km/h以上で、テスト第1号車はロータリーエンジンを搭載した世界最初の量産乗用車「コスモスポーツ」。このスポーツカーを生み出し、世界的な飛躍を図るために三次試験場は作られた。

 三次試験場には高速周回路のほか、全長1.3kmの第1水平直線路もあり、発進加速やブレーキテストを実施。その後、1983年に風洞実験棟、1985年に総合性能試験路、1986年に安全実験1号棟、1990年に安全実験2号棟が追加されている。いずれも時代の要請に従い、クルマの開発&テスト項目が増えたためだ。

マツダのクルマづくりの哲学
三次試験場の位置
試験場の概要
設備
歴史
高速周回路を持つ
第1水平直線路
初代コスモスポーツがテスト車
風洞実験棟を開設(1983年)
総合試験路を開設(1985年)
安全実験1号棟開設(1986年)。写真は屋根のない開設当初のもので、今は立派な屋根があるとのこと
社内向けの運転技術の向上も行っている

広島とともに歩むマツダ

 マツダの歴史、三次試験場の歴史をざっと紹介したが、別途雑談したときに、「マツダは広島復興の中心となったが、その広島に助けられた。広島でもの作りを続けなければならない」というマツダスタッフの言葉が印象的だった。

 マツダは原爆投下後の広島の復興、そして戦後の広島の発展に大きな役割を果たしたが、よく知られているように1990年代には販売網を拡大しすぎて経営危機を迎える。その段階で倒産してもおかしくない状態となったが、マツダを倒産から救ったのが「マツダがなくなると、広島の経済がだめになる」という地元の危機感。このため、資金援助などの救済措置が採られてフォード傘下となって再建を進め、2010年に発表された「SKYACTIV(スカイアクティブ)」と命名された“もの作り革新”による一連の新車攻勢が多くのクルマ好きに支持され、好調な経営状態となっている。

マツダ、次世代技術「SKYACTIV」説明会

http://car.watch.impress.co.jp/docs/news/20101022_401638.html

 記者は子供のころは広島に住んでおり、確かに広島はマツダとともにあり、マツダは広島とともにあったという印象はある。記憶にもない幼少期のアルバムを見れば、マツダ車が写っており、そもそも我が家の初めてのマイカー(死語ですね)は初代「ファミリア」だった。また、父親は広島生まれの広島育ちで、原爆によって多くの親戚を亡くしている。植月氏のマツダに関するプレゼンテーションを聞きながら、いろいろ思うところの多かった説明会だった。

1歳と数カ月のころの写真。祖母の兄が段原(現、広島市南区段原)で材木店を営んでおり、その辺りで撮られた写真
記者が住んでいた西山本(現、広島市安佐南区西山本)の家の前でマイカーとともに。初代ファミリアの記憶で明確に残っているのは、家族で宮島へ出かけたこと

 なお、マツダではクルマ作りの方向性を見誤らないため、その意図を1つの映像で現わしている。それが冒頭に流された「ブランドエッセンスビデオ/Mazda Brand Essence Movie」になり、Youtubeで公開されている。2020年の100周年に向けてスカイアクティブ技術は第2世代へと進化し、さらなるクルマの革新を見せてくれるだろう。2017年のロータリー50周年、2019年のロードスター30周年を経て、100周年を迎えるマツダの取り組みに注目していただければと思う。ブランドエッセンスビデオも掲載しておくので、一度ご覧になっていただきたい。

「ブランドエッセンスビデオ/Mazda Brand Essence Movie」

(編集部:谷川 潔/Photo:高橋 学)