日下部保雄の悠悠閑閑
熱海の出来事
2018年5月21日 00:00
ノンビリしよう! という思いとは裏腹に、怒涛のGWが過ぎて日常が戻ってきた。ま、飲んだくれてばかりだったGWだったが、後半戦でやらかしてしまった。
ことは熱海旅行でのことだった。熱海は「東京の奥座敷」と呼ばれ、古くから多くの観光客で賑わってきた。しかも昨今では、東京から日帰りもできるという電車の便のよさも見直され、さらになかなか世代交代が難しい観光業の若手の活躍もあって、熱海は再認識されるようになっている。
しかし、近すぎて熱海に旅行したことはない。長男一家に誘われなかったら、きっと行かなかったと思う。実は子供のころ、5年ほど熱海のさらに奥座敷である伊東に住んでいたことがあるので、今でも伊東には花火を見に行ったりしているが、熱海は素通りであった。
宿泊は老舗のホテルニューアカオ。景勝地、錦ヶ浦に建つ絶景の大観光ホテルである。ちょっと古めだが、従業員はなかなかのホスピタリティ。頑張っている。最下層の1階には「アカオ横丁」という、昭和チックな射的や飲み屋が再現されており、これもなかなか面白い趣向だった。
部屋からの夜景は“ザ・熱海”である。もともと熱海は平坦地がほとんどなく、市街地も傾斜地に形成されているため、上下に広がる地形が独特の景観を作っている。明るい時に見る錦ヶ浦の絶景とともに熱海らしい景色を満喫できた。
風はあるがよく晴れた翌日は、関連施設のローズガーデンで遊ぶ。ここも傾斜地で日当たりがよく、例年より早く開花したバラはなかなか見ごたえがあった。といっても当方、草花に造詣があるわけはなく、花の中でかろうじてバラと分かる程度のものだが、美しく咲き誇る多彩なバラの中を歩くだけで満足できた。
帰りのアシは来るときと同じく踊り子号、電車である。熱海駅周辺は休日を楽しむ観光客でごった返しており、昼食を摂るのもままならなかったが、駅ビルにあった伊豆太郎という魚のチェーン店に辿り着き、やっと食事にありついた。寿司をチョイスし、折角だからお酒もいただくことにする。何が折角だか分からないけど……。なかなか美味しい、酒も旨い。気持ちよく会計を済ませて、やってきた踊り子号に乗り込み、ホームを滑り出した時、事件が起こった。
財布が見当たらない。一気に酔いが醒めたのは言うまでもない。何しろ現金からカードまでいろいろ入っている。ないと大変、大変、タイヘーン困る。急いで記憶をたぐり寄せると、さっきの伊豆太郎で支払いの時に財布を出して以来、財布さんにお目にかかっていない。ポケットに手を突っ込んでみると僥倖のように領収書があるではないか! そこに記載されている電話番号がクローズアップされて目に入る。慌てて電話をかけると、レジではすぐ気付いて駅前交番に届けてくれたとのこと、神の声のように聞こえたのは言うまでもない。
今度は駅前交番に電話かけると親切なお巡りさんが対応してくれ、財布は熱海警察に届けられることになっているので手続きをしておいてくれるとのこと。素晴らしい!
残念なことは、今乗っている踊り子の次の停車駅は横浜ということだ。そんなことも言ってられないので横浜駅に到着するや否や、今度は各駅停車で熱海警察のある来宮駅まで取って返し、無事お財布に拝顔することができた。つい3時間ほど離れていただけだが、随分会っていない旧友に再会したような気分だ。呆れながら喜んでくれている女房殿に詫びながら、トボトボと今来た道を帰った。日本は本当に安全で親切だ。関わってくれた全ての人の暖かい心に感謝である。予期せぬおまけの旅行だが、しかし、もうこんなドキドキする旅はしたくないものだ。
飲んだら持とう、自分の財布。今回の熱海旅行の教訓である。
カ号と三式指揮連絡機についての補足。読者からいただいたご指摘について
読者から「カ号は昭和16年には量産開始、三式指揮連絡機は正式化されたのは昭和18年」というご指摘をいただいた。これについて自分の認識を書いておきたい。
カ号の生い立ちは変則的だ。陸軍の航空機は全て航空本部を通じて発注され、全て「キ」番号が付く。しかし、オートジャイロは昭和8年(1933年)に輸入された直後に墜落事故を起こし、航空本部から実用性に乏しいとして興味を失われてしまった。触らない方がいいという雰囲気だったようだ。ところが昭和14年(1939年)のノモンハン事変で、砲兵隊の観測気球が全てソ連軍の戦闘機に撃墜されてしまった苦い経験から採用が復活した。前線からすぐに飛び立てて、ゆっくり空中を漂い、ある程度の機動性も持っているものとしてオートジャイロが見直されたのだ。しかし、航空本部は前述のように興味を失っていたために、航空機以外を扱う技術本部の発注という形をとった。エンジンも航空機用は航空本部の管轄だったので、こちらも技術本部が適当なものを作るという徹底ぶりだ。当然、航空本部の正式機ではないので「キ」番号はつかない。
この時点の内示は昭和16年(1941年)で、昭和17年(1942年)には陸軍兵器量産本部では量産命令を出している。ただ、量産は容易ではなく、昭和19年(1944年)暮れになってようやくほんの少数機が配備されたに過ぎなかった。もはや活躍の場は想定とは大きく変わり対潜哨戒機にしか使えなかった。
一方の三式指揮連絡機は「キ」番号の付く航空本部の正式発注機で、昭和15年(1940年)には開発内示が出ている。役割は市街地の道路からでも離陸できる指揮連絡機である。自動車よりも早くて便利で、こちらも大陸戦を想定していた。昭和16年には正式発注されて、少数機が実験的に使われていた。しかし、戦闘の情況が一変し、それに伴う改修に手間取ったことで、正式採用は昭和18年(1945年)にずれ込んでしまった。このころになると島嶼や南方のジャングルでの作戦が主で、キ76の活躍の場は失われ、カ号同様に対潜哨戒機としての道を探らざるを得なかった。
年次から言えばご指摘は正しい。三式指揮連絡機の原型となったドイツのフィゼラーは1936年に初飛行しているので、その存在は知られていたと考えられるが(実際に航空本部では三式かフィゼラーかの選択に迷っていた)、実際、フィゼラーは昭和14年(1939年)から始まった第二次世界大戦初期のドイツ電撃戦で大活躍していた。
しかし、ノモンハンでの戦訓は後日、砲兵隊に別の飛行体を想定させ、気球の代わりにカ号が考えられた。フィゼラーや三式よりもっとゆっくりと飛翔する飛行体を求めた結果だった。正式な航空機としての扱いではなく、ちょっと鬼っ子扱いのカ号な上、情勢が急速に変わって使い道がほとんどなくなったというのが現実だ。
三式、カ号ともに量産機数は不明で、わずかの機体が実践配備されただけだった。