日下部保雄の悠悠閑閑

24時間レース

富士 SUPER TEC 24時間レースを含むスーパー耐久シリーズはピレリが供給するタイヤで行なわれる。直線状に並ぶディンプルは、おそらく摩耗の確認ホールだと思われる

 耐久レースにはスプリントとまた違った面白みがある。スプリントレースでは相手より鼻っ面でも先にゴールするために、予選から始まってその状況に応じた戦術が必要になる。もちろんクルマ作りでも、ピーキーだが速い仕様もドライバーがOKすればありだ。しかし、耐久レースでは2名以上のドライバーで組み、時間や距離も長いので、戦い方やクルマの作り方も異なり、戦略的な要素が高い。

 ところで、久しぶりに24時間レースに行ってきた。50年ぶりの富士24時間耐久レースである。実は、かつてこのレースにナント参加していたのである。クルマは「フェアレディ 2000」。ラダーフレームに2.0リッターのSOHC、U20型をソレックスキャブでチューニングしたバンカラなオープン2シーターだ。

 初めてのナイトレースで、当然ペイペイ。レース参加者の中では最年少だった。自分の出番は夜で、多少なりとも明るいピットから真っ暗なコースに入り、さらに闇に溶け込む30度バンク(そう、当時の第1コーナーは30度バンクだった!)に飛び込むのは“ゾク”としたものだ。バンクに入って分かったのは、強い縦Gに抗して上を見ないと地面が見えないことだった。一部のレーシングカーは補助ライトを上に向けて路面を照らしていたが、残念ながらわがフェアレディは直前の灰色の地面しか照らしていなかった。それでも速いクルマに付いていくと、見えなくても楽だった。残念ながらわれらのフェアレディはエンジンのメタルが焼き付いてしまい、長い間ピットに張り付いて完走扱いにはならなったが、いい経験になった。

 さて、表敬訪問した橋本洋平君に30度バンクの走り方と最終コーナーは全開だと教えてきたが、合っていただろうか?

 見えない時は速いクルマについていく“コバンザメ作戦”はその後のニュルブルクリンク24時間レースでも役に立った。出場車両は「RX-7」。ニューズ出版の盟友、三好正巳さんが主宰するチームだった。RX-7は欧州では非常に珍しく、ロータリーエンジンのレーシングカーは大歓迎だった。日本でも実績のあるクルマなので耐久性はそれほど心配していなかったが、どうも取り付けられている補助ランプが心配だった。ラリードライバーとしては、「この程度のランプで超高速コースの夜間のニュルが走れるんだろうか」という嫌な予感がした。案の定、暗くなってくると何も見えない。「こんな時は闇夜のカラスだっけ?」「いや暗中模索が正しい」とか、「“カラス”ってどんな漢字だ?」とどうでもいい事が頭に浮かぶ。現実逃避の行動だろうか?

 しかし、現実は現実。気が付くと200km/hを超える速度で直線コースから外れてグリーンを走っていた。かなりびっくりしたので、以降はゆとりをもって前のクルマの照明を頼りに走ることにした。特に同じようなラップタイムを刻む「BMW M3」がいるとホッとした。ただ、あまりぴたりと後ろを走っていると譲られてしまうのでちょっと慌てた。

 このレースは小さなトラブルはあったものの無事走り切り、トロフィをいただくことができ、素直に嬉しかった。ニュルは世界一面白いコースだと今でも思う。

 北の大地で行なわれた十勝24時間も懐かしい。第1回の十勝24時間にはロータリーエンジンで有名なナイトスポーツのRX-7で参加した。順調にラップを刻んでいたが、夜中にトランスミッションが壊れ万事休す。かと思ったが、スタンド裏に駐車していた観客のRX-7に「T/M貸してください」と貼り紙をしたところ、親切にも名乗り出てくれた。何時間もかけて無事トランスミッションを交換してピットアウトできた時は拍手が起こった。順位は関係なくなってしまったが、無事完走扱いになり、同じクルマだというだけで貸してくれた帯広のオーナーに感謝の気持ちでいっぱいだった。これも24時間を走る耐久レースの醍醐味である。

 十勝は何年か後のレースから、コースサイドの全周に渡って反射テープを巻いた紙コップを置くという粋なことをやり、非常に分かりやすくロマンチックな眺めだったのも印象的だ。

 いろいろな思い出が残る24時間レースだった。

ヘアピンに並ぶテントはなんだかロマンチック。まるでニュルのよう……

日下部保雄

1949年12月28日生 東京都出身
■モータージャーナリスト/AJAJ(日本自動車ジャーナリスト協会)会員/16~17年日本カー・オブ・ザ・イヤー選考委員
 大学時代からモータースポーツの魅力にとりつかれ、参戦。その経験を活かし、大学卒業後、モータージャーナリズムの世界に入り、専門誌をはじめ雑誌等に新型車の試乗レポートやコラムを寄稿。自動車ジャーナリストとして30年以上のキャリアを積む。モータースポーツ歴は全日本ラリー選手権を中心に活動、1979年・マレーシアで日本人として初の海外ラリー優勝を飾るなど輝かしい成績を誇る。ジャーナリストとしては、新型車や自動車部品の評価、時事問題の提起など、活動は多義にわたり、TVのモーターランド2、自動車専門誌、一般紙、Webなどで活動。