日下部保雄の悠悠閑閑

STIギャラリーにWRカーを訪ねる

元広報部の真下義明さんにSTIギャラリーを案内してもらいました

 前回はスバルのグループA時代までのラリー車だったが、1998年と2007年、2008年のWRカーを見せてもらった。案内してくれたのはもちろん元広報部の真下義明さん。

 WRカーは1997年に始まったが、それまでのグループAは市販車がベースで、基本的なレイアウトは厳しく規制されていた。つまり2WDを4WDにすることはできないし、自然吸気エンジンにターボを付けることもできない。しかしグループAはレギュレーションが安定したことで、参加者も安心して競技に取り組めるというメリットも大きかった。グループAの時代は長く、1987年~1998年まではグループAだけにタイトルがかけられていた(翌年からはWRカーもポイントを取れるようになった)。

 グループAの衰退は、採算に合わないベース車の開発が負担だったメーカーが、WRCから撤退していったことから始まった。事実上日本メーカーしか残らなかったのだ。事態を憂いたFIAが紆余曲折の末、ワールドラリーカー(WRC)のレギュレーションを発効させたのは1997年。グループAとは異なりWRカーにはエンジン、駆動方式、サスペンションなどにオリジナルを搭載できるようになった。ベース車はあるが、もはやそれは外観だけを借り受けたものだった。

 これまでは「ラリーは市販車で」という概念が強かった主催者や参加者にとって、WRカーはラリーにはなじまないと思われたが、レギュレーションは当然WRカーに有利に作られており、次第に真価を発揮していった。また、ベース車に4WDやターボを持たないメーカーも参入しやすくなった。

 スバルは完成されたグループAであるインプレッサ555を最後に、1997年のWRカー初年度からインプレッサWRCを投入し、開幕3連勝という離れ業を演じ、この年にマニュファクチャラーチャンピオンを獲得している。

1998年のサンレモラリー。マクレー車

 STIギャラリーに展示されていたのは、チャンピオンを取った翌年となる1998年の第12戦、サンレモラリーのコリン・マクレー/グリスト・クルーのインプレッサWRCだ。すでにタバコのロゴを出すことが禁じられていたために、555のロゴの代わりに黄色いブーメランが使われていたが、全体のイメージは変わらなかった。ボディはGC型でも2ドアのリトナが使われていたが、これは車両制作の容易さから選ばれたと聞く。ボディサイズは4340×1770mm(長さ×幅)となっている。

 1998年仕様は前年から進化したモデルだったが、マイナートラブルに見舞われ、タイトルは熟成されつくしたグループAの三菱ランサーとトミ・マキネンの手に渡った。サンレモでもマキネンが優勝し、インプレッサWRCのリアッティが2位、マクレーは3位だった。

マクレー車のコクピット

 当時のエアリストラクターは1995年から34Φに絞られており、公称では出力300PS、トルク470Nmと言われていたが、インタクーラーの位置も変更され、より効率的な冷却ができたはずなので、実戦ではもっと出ていた可能性はある。

 トランスミッションではマクレーはHパターンを使っており、神業のようなシフトはとてつもなく早くてスムーズだったと言われている。この後スバルもセミATに移行していく。

マクレーはシーケンシャルではなく6速H型パターンを使っていた

 コクピットに潜り込むと、マクレー流のステアリングを抱え込むようなスタイルになる。あのダイナミックで100%以上を目指すマクレーのドライビングはこのシートとステアリングから生まれたのか。

 各種のコントロールスイッチを見ると、1996年仕様のグループAでも“自動車”から“マシン”に移行していったのが分かるが、WRカーは“戦闘機”を思わせるもので、カーボンパネルの上によく分からないスイッチがたくさんある。

 その昔、1000湖ラリー(フィンランドラリー)にカローラWRCを取材に行ったことがあるが、サービスに戻ってきたカローラWRCのコクピットはいろいろな警告灯が点滅し、宇宙船のように感じたものだ。

 コ・ドライバーのニッキー・グリストの仕事も変わってきたようで、ラリーコンピューターはシンプルなもの。時間管理は彼の仕事の一部だったことが分かる。

コ・ドライバーのラリーメーター

 この年でマクレーは長年住み慣れたスバルを離れ、後を託されたリチャード・バーンズが2001年にタイトルを奪い返した。マクレーは2007年にヘリコプター事故で、バーンズは2005年に脳腫瘍で他界してしまった。生きていればどんな成績を残していたのだろう。

2007年のソルベルグ車

 時代を下って2007年のインプレッサWRCは2019年のセントラルラリーにも来日し、明るいキャラクターで日本でも人気者のペター・ソルベルグがステアリングを握っていた。ソルベルグは2000年からスバルに加入し、2003年にはドライバーチャンピオンを獲得した名実ともスバルのエースで、チームが解散する最後までインプレッサWRCのハンドルを握った。

2007年仕様と思われるセンターコンソールとサイドブレーキレバー

 振り返るとインプレッサWRCの初期は常に上位をキープし、ローブのシトロエンやグルンホルムのプジョー、フォードに対して互角に戦った。終盤はセッティングに悩まされ続けて優勝を重ねることは難しくなったが、展示車両の2007/2008年のインプレッサWRCはマニュファクチャーではシリーズ3位をキープした。そして2008年をもってスバルワールドラリーチームの活動を終えた。

STI育ての親、久世隆一郎さんの扇子。「勝って兜の緒を締めよ」と記してある

日下部保雄

1949年12月28日生 東京都出身
■モータージャーナリスト/AJAJ(日本自動車ジャーナリスト協会)会員/16~17年日本カー・オブ・ザ・イヤー選考委員
 大学時代からモータースポーツの魅力にとりつかれ、参戦。その経験を活かし、大学卒業後、モータージャーナリズムの世界に入り、専門誌をはじめ雑誌等に新型車の試乗レポートやコラムを寄稿。自動車ジャーナリストとして30年以上のキャリアを積む。モータースポーツ歴は全日本ラリー選手権を中心に活動、1979年・マレーシアで日本人として初の海外ラリー優勝を飾るなど輝かしい成績を誇る。ジャーナリストとしては、新型車や自動車部品の評価、時事問題の提起など、活動は多義にわたり、TVのモーターランド2、自動車専門誌、一般紙、Webなどで活動。