日下部保雄の悠悠閑閑

チンクエチェントに乗った

チンクエチェント。赤いのがガソリン車、空色はEVです。外観、内装は変わりません

 ある時、竹岡圭ちゃんから電話がかかってきた。「なんだろ?」と思ったら「フィアット 500って知ってるよね?」ってなんちゅうこと聞くんじゃ! 「暇じゃない? 乗りに来ない?」「オリジナルのフィアット 500だよ~」って電話口の声はたたみかけてくる。一瞬言葉に詰まったが「暇じゃないけど、行く!」と答えていた。

 乗せてあげると言っていたのはオリジナルのフィアット 500を使ったEVで、来年登場する本家の新型フィアット 500eではない。オリジナルのチンクエチェントをEVに改造してイタリアから持ってきたフィアット 500クラシケevだった。そしてフィアット 500クラシケにも乗せてくれるという(今のフィアット 500と区別してオリジナルのチンクエチェントをクラシケと言うらしい)。

 その昔、茨城県の矢田部にあった自動車試験場(JARI)でフィアット 500クラシケに乗せてもらったことがあるが、広いテストコースを全開で走らせてもずっと変わらない景色にある意味衝撃を受けたのを覚えている。あれからン十年、今乗ったらきっと景色の見え方も変わるんだろうな。

ガソリン車のボンネット内。バルクヘッドの前にあるのは21Lのガソリンタンク。フロントエンドにはスペアタイヤを置いてささやかな安全対策です

 最初にガソリンのチンクエチェントに乗せてもらう。戦後、イタリア人を4輪自動車に乗せたいという願望で作られた500cc4人乗りだ。3mを切る2980mmの全長に1320mmの全幅。これに4人乗せるためにシートもハンモックのように薄い。

 ドラポジはステアリングが遠くてペダルが近い。当時のイタリア車の特徴を思い出した。乗せてもらったチンクはオーナーが通勤に使っている(!)クルマで快調だ。走らせる段になるとちょっと緊張。「どうすれば動くんだっけ?」。フロアにあるスロットルとチョークのレバーを操作してみたが、そんなことしなくてもイグニッションをひねり、アクセルをチョイとあおっただけで空冷2気筒エンジンはバタバタと回りだした。

 道に出るとまわりのクルマがみんな戦車のように大っきい。「ウォー、急がねば」と言っても大して加速しない。

 ステアリングやブレーキ、シフトなどの操作に慣れたところで景色が目に入ってきた。ン十年前同様にやはりゆっくり流れているが、世の中の面倒くさいことなどどうでもよくなってくることに気付いた。隙のないクルマが多い中、チンクエチェントの「ゆる~い」けど一生懸命なところに癒されるのかもしれない。

 キャンバストップを常に開けておくのがしきたりらしいが、初冬の陽光が気持ちいい。

 ただし4輪ドラムブレーキは重いうえ、効かないので車間距離は自然と長く取ることになる。もちろん急ブレーキなどもってのほかだ。そっと扱いながらお台場周辺のドライブを楽しんだ。

 そして乗り換えたのはチンクエチェントのボディを利用したEV、チンクエチェント・クラシケevだ。

 プロデュースするチンクエチェント博物館の伊藤さんによると、イタリアでもオリジナルのチンクエチェントは少なく、状態のよいチンクを探すのは大変らしい。そもそも1957年~1975年の間に生産されていた下駄替わりの超大衆車なので、イタリア人には保存しておこうという気もないらしい。

 伊藤さんは状態のいいチンクを発掘して、イタリアのカロッツェリアでレストアし、EVにコンバートして日本に持ってくるという手順を踏む。

 改造は極力シンプルで、フロントボンネットの下に5.5kWhのバッテリー(リチウム)、リアのエンジンルームには13kWのモーターを搭載している。

クラシケのボンネット下には5.5kWhのリチウムイオンバッテリー

 本来必要ないギヤボックスやシフトレバーは手間を省くためにそのまま搭載されている。

 重量は確かオリジナルは500kgなかったかと思うがEVでは590kgになっている。

 思わず床にあるクラッチペダルを踏みたくなる誘惑を抑えてアクセルを踏みこむと、トルクが160NmあるEVはたぶん50Nmもないガソリン車より元気よくスタートする。さすがEVだ。交通の流れにちゃんとついていける。ただしスピードの伸びは穏やかなものだ。

 後ろでバタバタと賑やかなエンジンもないので、ダイレクトに入ってくるロードノイズと風切り音だけが耳につく。

リアエンドには2気筒エンジンの代わりに13kWのモーター

 でも、チンクエチェントのイメージがEVになっても変わらないのは裸足で歩くような接地感、独特のドライビングポジション、極端なポジティブキャンバーのもたらすハンドリング、1840mmのショートホイールベース特有の乗り心地などが変わらないからで、それはとっても懐かしく新しい。

 満充電で走れる航続距離は40kmと短いが、ちょっとそこまでの買い物なら大抵はまかなえるし、長距離はさすがに疲れるので、それほどの航続距離は必要ないだろう。ちなみに重量650kgのツインバッテリー仕様もあり、航続距離は80kmに伸びる。

 最後にひと言、ブレーキは余裕を持って踏みましょう。

 気が付けば圭ちゃんのYouTubeに引っ張り出された格好だが、チンクエチェントとのショートドライブはいい思い出になった。これに味をしめて時々顔を出さしてもらおっと。

日下部保雄

1949年12月28日生 東京都出身
■モータージャーナリスト/AJAJ(日本自動車ジャーナリスト協会)会員/2020-2021年日本カー・オブ・ザ・イヤー選考委員
 大学時代からモータースポーツの魅力にとりつかれ、参戦。その経験を活かし、大学卒業後、モータージャーナリズムの世界に入り、専門誌をはじめ雑誌等に新型車の試乗レポートやコラムを寄稿。自動車ジャーナリストとして30年以上のキャリアを積む。モータースポーツ歴は全日本ラリー選手権を中心に活動、1979年・マレーシアで日本人として初の海外ラリー優勝を飾るなど輝かしい成績を誇る。ジャーナリストとしては、新型車や自動車部品の評価、時事問題の提起など、活動は多義にわたり、TVのモーターランド2、自動車専門誌、一般紙、Webなどで活動。