日下部保雄の悠悠閑閑
半世紀近く前のモータースポーツ
2021年2月8日 00:00
今から半世紀近く前の話です。
フォード GT40がル・マン24時間に挑戦していた少し後の時代。免許証をとったらモータースポーツをやるんだと固く誓っていた日下部少年は高校生からこの世界に足を突っ込んでその面白さに取りつかれてしまった。
高校1年の時、日本GPの替わりに船橋サーキットで開催された全日本CCCチャンピオンシップレース・ミーティングを先輩に連れられて見に行った。雨の中でびしょ濡れになりながら場内放送もなく、なんだか全然分からなかったけど今では伝説となったトヨタ スポーツ800の浮谷東次郎選手とホンダ S600の生沢轍選手の名勝負をリアルに見ることができた。
どうやって行ったんだかまったく覚えていないが、ズーッとスタンドの通路から見ていたのは覚えている。
中学卒業の春休みには大磯ロングビーチの駐車場で行なわれたSCCJ主催のハイスピードジムカーナを見に行った。写真でしか見たことがないスタードライバーたちがすぐ目の前を走る姿に憧れた。参加車もアバルトやコルティナ・ロータス、トライアンフ TR4なんていうのが、ブンブンとパイロンのまわりを走り回っているのだ。当時の写真を見ると大磯の第2駐車場で行なわれていたようで、参加者にとっては長閑にサンデーイベントを楽しんでいたようだが、見る方は真剣だった。
自分にとってはモータースポーツなら何でもOK! とにかくクルマで走りたかった。ジムカーナは勉強になったけど走行時間が短いし、1つミスするとリカバリーは難しい。レースは少し齧ったがさすがに当時でもお金がかかってアルバイトでは成り立たなかった。そこで一番コスパの高いモータースポーツはラリーだという結論に至った。
その頃、東アフリカサファリラリーで510 ブルーバードが大活躍し、「栄光への5000km」なんて名画も上映されて一気に街にラリー車が溢れた頃だった。そう、冗談ではなく普通にラリー車が走っており、ラリーショップがたくさんあった。そしてみんな石原裕次郎になっていた。
ラリーは一晩走って勝敗を決めるので、かなり長い間走れてお得感がある。それにクルマも足まわりを換えてアンダーガードを付け、トリップメーターと時計、それに計算器があればできた。ご存知の方も多いと思うが、当時のラリーは指示された速度で正確に走れるかで勝負が決まるタイムラリー。そしてナビゲーターも含めて2~3人で参加費用を分け合うこともできたので負担も小さくて済むというメリットもあった。
今の形でラリーができるまでにはまだまだ長い時間がかかり、現在の国際格式に則ったラリーはまるで夢のようだ。主催者の長年にわたる努力の賜物だと思う。
さて最初のベレット GTからギャランA IIに進んだボクのラリー人生は、タイヤのテストやDCCSの寺尾さんと巡り合ったことで大きく変わった。タイヤではいろいろなことを勉強させてもらって、速いタイヤと走りやすいタイヤは必ずしも両立しないことも分かった。競技用タイヤに必要なのは駆動方式を問わずトラクションだ。
DCCSで最初に乗せてもらったのは、ミニカーラリーシリーズ用の軽自動車のフェローマックス。グループ11(ラリークラブ)の先輩が「俺、用があって乗れなくなったので、寺尾さんに話しとくから明日DCCSに行ってよ」と言われたのがラリー前日だと思った。
早朝、オッカナビックリで池袋にあったDCCSに行くと、ニヒルな寺尾さんは見も知らない若造にキーを渡してくれた。あっけないスタートだった。
とにかく初の2ストローク、そして初のFFで運転の仕方も分からないが、FFは前で引っ張ってんだからアクセル踏んでればなんとかなるだろう、の勢いで走り、危なっかしいながらもトロフィーを貰って帰ってきた。
それから池袋に通い始めて、ラリーのことをいろいろ教えてもらった。知らないことも多く、自分でやってた頃とは大違い。ラリーメカがクルマを作ってくれ、メンテもしてくれるんだから、こんなありがたいことはない。
クルマでは重量配分の重要性を教えてもらったことが印象に残る。具体的な数字は聞かなかったがEP47 スターレットのダイハツ版、コンソルテクーペにも乗せてもらえるようになった時は、左右の重量配分も含めてあまりのハンドリングのよさに仰天した。パワーはなかったけどどうにでもなったのだ、DCCSでの学びが多かった。
ラリーはナビゲーターの仕事も多く、勝敗は彼らの仕事の出来にもよるが幸い一緒に組んだナビゲーターはチョンボもあったけど優秀だった、と思っている。多分……。
最近もラリー仲間で集まっているが、このコロナ禍ではなかなかそうもいかない。早く会いたいものです。