日下部保雄の悠悠閑閑

ホンダコレクションホールでF1第1期を思う

ミニチュアではありません。コレクションホールの入り口にある展示を上から見たものです。このままサイズダウンしてコレクションに加えたい!

 ホンダコレクションホールには膨大な歴代のホンダ車が保存されているが、すべて動態保存が原則となっている。レーシングカーから市販車まで、そしてもちろんホンダの源流である2輪車も保存されている。

 コレクションホールで見ることができるのは一部で、バックヤードからテーマに沿って展示される。今回はシビック展が開催されていたので歴代シビックの来歴とともに現車を懐かしく眺め、ホンダの青春時代に触れることができた。

 その展示も楽しいが、やはりホンダと言えばレーシングカー! シビック展示の隣の部屋を覗くと、歴代のホンダF1がある宝の部屋で、吸い寄せられるように入ってしまった。

ニュルブルクリンクでホンダF1がデビューした時の写真を壁いっぱいに拡大したものが展示されています。初挑戦に緊張感がただようと同時に、日本的な規律も感じさせる素晴らしい1枚です。コクピットにいるのは推進者、中村良夫監督です

 時間もないのでこの素敵な空間に長くいることはできなかったが、第1期ホンダF1は魅力的だ。まだナショナルカラーで統一されていた時代。英国のブリティッシュグリーンやフランスのフレンチブルー、イタリアンレッド、ドイツのシルバーなど国威発揚の名残が生きていた1964年~1968年の時代だ。ちなみにスポンサーカラーを纏ったのはこの後のロータスが最初で、タバコのゴールドリーフカラーだった。メーカーと言えどもスポンサーマネーなくしては運営が成り立たない現在と違って長閑な時代だった。

 よく知られているように当初、ホンダはエンジンサプライヤーとしてF1に参戦する予定だったが、内定していたロータスと破談になったため、参戦直前になって車体もホンダ製のフル体制で難関のF1に挑戦することになった。シャシーはホンダ独自のモノコックと鋼管スペースフレームを組み合わせたもので、ホンダらしい革新的なシャシーだった。レーシングカーの頂点に立つF1を短期間で車体ごと作るのは大変なことだったと思う。

 日本のナショナルカラーはアイボリーホワイトに日の丸というもので、そのF1を雑誌の中で見た時はドキドキしたものだ。

 当初本田宗一郎と共に写っていた最初のホンダF1は“黄金の国ジパング”を思わせるゴールドだった。しかしゴールドはすでにナショナルカラーとして他の国に登録されていたために、アイボリーホワイトベースの日の丸に落ち着いたようだ。そんなことをF1を熱心に取材してたカーグラフィックの記事から知った。当時、写真と臨場感でワクワクしながら読んでいた少年時代である。

「RA271」。1964年からホンダのF1への挑戦が始まり、1965年までが1.5リッターだった

 葉巻型のフォーミュラには空力の概念は単純なものだったので、メカニカルなパーツを直接見ることができたのも魅力だ。

 ホンダは2輪レースで培った技術を駆使した精緻なハイパワーエンジンで一目置かれる存在だったが、F1に搭載されたのは4バルブDOHCのV12を横置きにしたものだった。当時の排気量は1.5リッターでV12エンジンがいかに精密なメカニズムだったか想像を絶する。確かに220馬力以上と言われるパワーはほかのF1の中では群を抜いていたが、レースをよく知るヨーロッパのレーシングコンストラクターはシャシーとエンジンのバランスも熟知していて容易な相手ではなかったのはもちろんだ。重いV12エンジンを横置きにレイアウトした独創的なホンダは苦戦したのだ。レーシングカーにありがちな初期トラブルにも見舞われ、なかなか完走すらできなかったが、それでも急速に熟成が進み、翌年、つまり1.5リッターフォーミュラ最後のメキシコGPでリッチー・ギンサーが有終の美を飾り、チームメイトのロニー・バックナムが5位に入って日本を沸かせた。アメリカ人ドライバーとアメリカ製のタイヤ(グッドイヤー)との組み合わせはホンダと北米の関係を暗示するものだった。

RA271の1.5リッターV12エンジン。時計のように精巧な、という形容詞が使われた。もはや工芸品である

 ホンダF1の優勝は新聞の一面広告にも掲載されたと記憶しており、ファンとしては感激の絶頂だった。

 翌年からの3.0リッターF1時代に入ってもホンダの参戦は続き、急遽3.0リッターのV12を開発して秋には投入することができた。さすがに大きなV12を横置きにはできず、オーソドックスな縦置きだったがパワーはあるが重いのは変わらなかった。
 この重量バランスに苦戦したホンダF1だが、2輪とF1でチャンピオン経験を持つ稀有なドライバー、ジョン・サーティーズが加入したことでチームは活気づき、第1期ホンダF1の3.0リッター2年目となる1967年に進化した「RA300」がイタリアGPで劇的な勝利を収めた。最終ラップのストレート、オーバーレヴを承知でアクセルを踏み続けてブラバムを抑えた描写は、あたかもコクピットにいるようでドキドキしたものだ。この後レーシングコンストラクター、ローラのシャシー技術を活用し軽量化された「RA301」も投入されることになった。

「RA273」。3.0リッターのV12になった初年度のホンダF1。翌年1967年のイタリアGPでサーティーズによって「RA300」が劇的な勝利を飾った

 ホンダは1.5リッターと3.0リッターのF1で1勝ずつ足跡を残すことができたのだ。紆余曲折を経たかけがえのない2勝は、F1に挑戦したチャレンジ精神とそこに確かにあった人間力を象徴するような勝利だったと思う。ホンダの精神的支柱は創業者、本田宗一郎とこの第1期F1にあるのではなかろうか?

 ホンダコレクションホールにあるどの展示も、ホンダファンならずとも一見の価値ありです。ぜひ訪ねて当時の熱狂に触れてください。

柱にはジョン・サーティーズの写真をはじめ、歴史の一部を切り取った粋な演出が。その向こうには服部尚樹選手のハコの格闘技、JTCCでのシビック、そしてGr.A時代のワンダーシビックやRSCのホンダS800が置かれている

ホンダコレクションホール

住所:〒321-3597 栃木県芳賀郡茂木町桧山120-1
電話:0285-64-0001(代表)
料金:無料(ツインリンクもてぎの入場料・駐車料は別途必要)
営業時間:「スケジュール」参照

【お詫びと訂正】記事初出時、本文・写真キャプションの表記に一部誤りがありました。お詫びして訂正いたします。

日下部保雄

1949年12月28日生 東京都出身
■モータージャーナリスト/AJAJ(日本自動車ジャーナリスト協会)会員/2020-2021年日本カー・オブ・ザ・イヤー選考委員
 大学時代からモータースポーツの魅力にとりつかれ、参戦。その経験を活かし、大学卒業後、モータージャーナリズムの世界に入り、専門誌をはじめ雑誌等に新型車の試乗レポートやコラムを寄稿。自動車ジャーナリストとして30年以上のキャリアを積む。モータースポーツ歴は全日本ラリー選手権を中心に活動、1979年・マレーシアで日本人として初の海外ラリー優勝を飾るなど輝かしい成績を誇る。ジャーナリストとしては、新型車や自動車部品の評価、時事問題の提起など、活動は多義にわたり、TVのモーターランド2、自動車専門誌、一般紙、Webなどで活動。