日下部保雄の悠悠閑閑
つちやエンジニアリング
2021年4月26日 00:00
1988年の初夏だったと思う。ジムカーナで連続チャンピオンを取った山本真宏君が新型Dクラスマシンのお披露目を浅間台で行なった時のことだった。そのマシンのエンジンはつちやエンジアリングの土屋春雄さんが手掛けていた。
土屋さんは毎年伊東にあったわが旅館で開催していたADVANの新年会に必ず顔を出してくれていたのでよく知っていた。
その浅間台でイベントもひと段落した土屋さんがパーツをいじりながら「次のレース、ドライバー決まってないんだよね……」とポツンと独り言のようにつぶやいた。すかさず山本君が「そこにいるじゃないですか」と言ったのがキッカケで「そうだな、ここにいたな~」ってな調子で真夏の筑波、「レース・ド・ニッポン」の2ndドライバーがあっけなく決まった。その後、奥さまから書類手続きなどの連絡があり、あれよあれよという間に全日本ツーリングカー選手権、グループAデビューとなった。憧れの土屋さんのクルマに乗れるだけで感激である。
真夏の筑波は暑くてスプリントレースでも大汗をかく。それが耐久となるとなおさらだ。
1stドライバーは茂木和男選手。タイヤテストでよく一緒だったので真夏の耐久の心得などいろいろと教えてくれた。
マシンは新造のAE92、FFのカローラ・レビンだ。公開練習では自分の腕では何ともノーズが入らずに曲がらない。そこで一計を案じて土屋さんに恐る恐る「フロントを少しだけ柔らかくしてもらえないですか?」とお願いしてみた。素人がこの道の神様にお願いするんだから、ほんとにオッカナビックリである。
土屋さんはちょっと考えて、2人のトータルタイムを上げたほうがよさそうだと思ったのか、翌日にはそれに合わせてくれていた。
そしてレース。黒いADVANカラーに真夏の太陽は容赦なく照りつける。
茂木君は快調にラップを重ねてトップで帰ってきた。緊張でドキドキする。シートに乗り込むや茂木君がエアダクトをレーシングスーツの中に押し込んでくれた。今ではとても許されないが、Tシャツの上にレーシングスーツで窓は全開の時代だった。熱気がその空け放った窓からも逃げずに籠っている。
土屋さんが指をクルクル回す。スタータースイッチを押す。4AGエンジンは轟音を立てる……はずだったが、何回押してもウンともスンとも言わない。コクピットで首を横に振ると土屋さんとゴルゴ(岩間メカ)が脱兎のごとくエンジンルームに飛びつき、あちこち見て作業を始める。これまで茂木君が積み上げたアドバンテージはあっという間に消えてゆく。すでに勝負権はなくなってリタイヤが頭をよぎった時、再び指がぐるぐる回った。スターターを押すと4AGは息を吹き返した。土屋さんは決して諦めていなかった。
そして再び咆哮を上げたAE92は速かった。強敵は無限シビックだったがストレートでも土屋マジックは冴えわたり、コーナーではサスペンションとタイヤのマッチングもバッチリ。灼熱の筑波でもタイヤが垂れることなくタイムも落ちない。
むしろ心配なのは自分がヘタリそうなことだった。蒸し風呂のようなコクピットで重いハンドルと格闘しながら2秒に1回のシフト動作に体力は次第に消耗していく。順位は少しずつ盛り返しつつあったが、自分のパートの3分の2を過ぎたあたりからブレーキを踏む力も入らなくなってきた。これはまずいと、力を入れないでコーナーを曲がりながら減速する方法を編み出す。窮すれば通ず、である。
汗も出切った頃、ようやくチェッカーが出た。やっとの思いでピットに辿り着いたがここまで。もうコクピットから出る力も残っていなかった。引きずり出され、水をかけられて、少しずつ正気に戻ったが、今思えば熱中症である。
クラストップのトランピオ シビックから5ラップ遅れの7位、総合では18位に沈んだデビュー戦だったが最高の想い出となった。
その年のINTER TECでも3rdドライバーに登録してくれ(セミウェットの公開練習でスピンして期待に応えられなかったのは悔しい)、翌年ケガニレーシングのBMW・M3でグループA出場が決まった時に喜んでくれたのも土屋春雄さんだった。
そんな恩人が突然逝ってしまった。
つちやエンジアリングは土屋春雄さんの精神を受け継ぎ、ドライバー兼エンジニアの武士さんが再興。レースの世界で異彩を放っている。