日下部保雄の悠悠閑閑

1977年のRACラリー

1977年のRACラリーでは珍しい舗装のSS。サットンパークでしょうか。車両はTE27トレノですね。オレンジとグリーンのストライプは静岡のMAJOLCAカラーです。みかんにちなんだカラーだと聞きました。車検場ではいろいろなお店が出ており、多分インカムもそこで買ったんだと思います

 竹平素信さんに誘われて英国RACラリーに行ったのは1977年のことだ。日本のラリー界でRACラリーが注目されたのは、当時の日本のラリーと形態が似ていたと思われていたからだ。国内ラリーはSSに相当する勝負区間はほとんどダートで、ペースノートのない有視界走行だった。

 一方欧州のラリーはターマック主体で、ペースノートがあるのは常識だった。ところがRACラリーはほぼすべてがグラベルで、たまに設定されるターマックも距離が短い。そして何よりも、使われるコースが普段クローズドされている林道なのでペースノートは禁止だ。それなら日本のラリーに似てるんじゃなかろうか。それに分からないながらも英語なので、まだ何となるような気がした。

 日本のラリーは隆盛を極め、ラリー人口も多く海外熱も盛り上がって世界の3大ラリーなどと言われたサファリ、モンテカルロ、RACは当時の憧れだった。

 竹平さんはトヨタ自動車で(確か)“7技”と呼ばれていたプロトタイプレーシングカーも扱う現場で活躍した後、三島にあったラリーガレージ、MAJOLCAで大暴れしていた頃だ。

 打ち合わせに行った三島の国道沿いにあったMAJOLCAは清潔感のあるオフィスで、遊びに来ていた宗正茂生選手らと楽しく話したことはよく覚えている。

 役割はナビゲーター。代わりばんこに運転する案も出たが、竹平さんにはドライバーに専念してもらうことにした。自分のミスでクルマを壊したらと思うととても恐ろしくて運転なんてできない……。

 やっと着いた英国は寒くて、どんよりとした雲が低く、ホテルも暗くていかにもシャーロック・ホームズが生まれそうな国だった。ラリーには欠かせないサービス隊もボランティアの人々が応援してくれる程度で、国内ラリーの延長線上で考えていた。

 この年はロンドンからスタートしたと思う。そしていきなりロンドン市内のラウンドアバウトでミスコース、出口を間違えて明後日の方角に進む。幸いと言うかトンチキなラリーカーが他にもいて、対向したり並走したりで大騒ぎ。竹平さんはいつものように静かだったが、内心不安だったと思う。右往左往しながら元のコースに戻ろうともがいていたら、オンコースになった。国内ラリーだったら計測がメチャクチャになってスタート直後に絶望していたかもしれないが、RACではスタートしてから何分後にCPに入れという指示なので何とかしのげた。

 ラリーが始まってみると国内ラリーとは勝手がまるで違い、その感覚に慣れるまで大変だった。正確に言えば最後まで慣れなかった。耐久色がケタ違いで、しかも高速。使うギヤが2速ぐらい違う。それにコースも舗装でもグラベルでも途方もなくよく滑る。

 SSでは竹平さんは慎重に驚くほどユックリ走り始めた。なんでこれほどスピードを落とすのかと思うほどだったが、すぐに理解した。国内ラリーの2速か3速ぐらいのつもりでもいつの間にか3~4速なのだ。しかもグラベル路面はウェットの関東ローム層のようによく滑る。高速なので油断しているとあっという間にコースアウトだ。

 丁寧にラリーを噛みしめるように走っていた竹平さんだったが、やがてその罠にはまってしまった。コースアウトして溝に落ちたのだ。まだ後輪駆動の時代で、FRではもがくだけで出られない。すると、寒くて天気のわるい山の中から「なぜ!?」、というほどギャラリーが出てきてみんなで押し出してくれる。そんなことを2回ぐらい繰り返して、悪戦苦闘の末やっと町に戻ってきた時は大幅に遅れ、レストハルトと呼ばれる貴重な数時間の休憩時間も削られていた。しかもパルクフェルメでラリー車は保管されてしまうので行き場がなく、寒い建物の陰でうたた寝をするしかなかった。まだホテルを手配するほど海外ラリーに慣れているわけもない。

 当時のRACラリーは36時間が1レグなんてこともあって、高速道路を延々次の都市まで移動なんてことも珍しくなく、疲労困憊したクルーには過酷だった。もっともモンテカルロも過酷だったようなので、RACだけではなかったと思う。

 極東の島国からやってきたTE27の挑戦はここまでで力尽きてしまった。高速道路のM4だったと思うが、クルマもクルーもボロボロであえなくリタイアとなったのだ。

 結局、WRCの壁は途方もなく厚かった。しかしラリーの雄大さや、オーガナイズの素晴らしさ、ワークスチームの周到な準備など、驚くことばかりだった。やはり挑戦したことで分かったことは大きく、その価値は途方もないものだった。古いアルバムを整理していたら、冒頭の写真が出てきたのでツラツラ当時の情景を思い出した。

雪も降るのがRACラリー。左から溝にハマったんだと思います。サスペンションにもダメージを受けましたが、竹平さんが応急処置して走り続けました。でもコースアウトする時は大抵左側から落ちます。ドライバーの生存本能でしょうか?

 竹平さんはラリーひと筋で今も裾野でラリーショップ、Take'sを経営し、若手の育成に努めている。哲人である。

 ちなみにこのラリーで優勝したのはB.ワルデガルドがドライバーを務めたGr.4のフォード・エスコート MK IIだった。

日下部保雄

1949年12月28日生 東京都出身
■モータージャーナリスト/AJAJ(日本自動車ジャーナリスト協会)会員/2020-2021年日本カー・オブ・ザ・イヤー選考委員
 大学時代からモータースポーツの魅力にとりつかれ、参戦。その経験を活かし、大学卒業後、モータージャーナリズムの世界に入り、専門誌をはじめ雑誌等に新型車の試乗レポートやコラムを寄稿。自動車ジャーナリストとして30年以上のキャリアを積む。モータースポーツ歴は全日本ラリー選手権を中心に活動、1979年・マレーシアで日本人として初の海外ラリー優勝を飾るなど輝かしい成績を誇る。ジャーナリストとしては、新型車や自動車部品の評価、時事問題の提起など、活動は多義にわたり、TVのモーターランド2、自動車専門誌、一般紙、Webなどで活動。