日下部保雄の悠悠閑閑
1993年の香港北京ラリー その1
2021年6月14日 00:00
この年、すでにラリーの実戦からは離れていたが、旧友の三好正巳さんから香港-北京ラリーに行かないかと誘いがあって一気に盛り上がった。しばし中断していた香港-北京ラリーが久しぶりに第7回としてこの年に再開されたのだ。
香港-北京とは何かと縁があったので当方も乗り気満々。広大な中国大陸を香港から北京まで、どんなラリーが待っているのかワクワクだ。体制は完全なプライベート。初心に帰ってサービスもボランティアにお願いすることになった。僕はRACラリーのときと同じくナビゲーターに徹することにしたが、そもそも三好さん、ナビゲーターをやるとすぐに酔っぱらって使いものにならなくなる。
ところが着々と進んでいた予定だったが、肝心のラリーカーが使えなくなったことが分かり、すべてが振り出しに戻ってしまった。途方に暮れてキャロッセの加勢裕二さんに相談してみたら、なんと加勢さん、「練習車でよければ貸しますよ」と言ってくれたではないか!
加勢さんとは取材やテスト、実戦で親しくさせてもらっていたが、願ってもない言葉はまさに1本の糸のようだった。暗雲立ち込めた香港-北京の状況は一転して歯車が回り出した。IRSの中原祥雅くんにエンケイホイール、岩下良雄さんからはIRSのサービスカーをお借りし、ラリー仲間に助けられてなんとか参加のめどが立ったのはクルマを送るギリギリのタイミングだった。
考えてみればすべて借り物でまかなったラリーチームだったが、今思い出しても仲間の友情に胸が熱くなる。
香港では当時レナウンにいたデザイナーの石垣勤くんがサービスと通訳、そしてスポンサー交渉といろいろと面倒を見てくれ、北京までの長い道中を付き合ってくれた。現地の人の“モーマンタイ”(問題ない)は“ヤオマンタイ”(大問題)だと面白おかしく説明してくれたが、確かにおおらかな大陸の人らしいなと納得した。また、食事中にお茶が欲しいときはテーブルを人さし指でたたくのだと半信半疑で聞いていたが、後日昼食を一緒にしてくれた香港の実業家が人さし指をトントンしていた。聞いてなかったらイライラさせてしまったのかと焦ったと思う。
夕食に今では高級魚になってしまったクエの中華風煮魚を食べたのもこのときだった。こんなうまくて安いものがあるのかと絶句したものだ。やっと来ることができた香港までの道のりだったので一層うまかった。
受付と車検は香港で行なわれ、メインランドに渡るのに必要な香港-北京ラリー専用のナンバープレートと、ラリーチーム全員に有効なビザも支給された。これでいよいよラリーが始まることになる。
香港での最後の夜はコース図などをチェックして何かと忙しかったはずだがよく覚えていない。初めて飲むマオタイシュのうまさに感動してチビチビ飲んだのは忘れていないのだが……。
翌朝、快晴の中、3400km、全26のSSが待つ香港-北京ラリーがスタートした。自分たちにとって初めての共産圏のラリーだけに緊張もした。埒もないが、ミスコースして軍事秘密エリアに入ってしまったらそのまま拘束されるんじゃないかとチラリと頭をよぎった。ま、さすがに国際ラリーでそんなことはないが、それほど中国は未知の国だったのだ。
スタートしたラリー車がマップを追いながら連なって走っているうちにいつの間にか中国に入ってしまった。新興工業都市として開発が始まっていたズーハイでのSS1だ。公園のような駐車場のような短いSSを走って顔見せ程度でこの日はあっけなく終了した。
この夜、ズーハイのホテルの部屋ではバスルームの湯がリビングまで溢れ出て大騒ぎになった。原因は水抜きが悪くて流れなかったのだ。お湯を拭き取るのが大変だったが、この部屋は毎晩このような修羅場が繰り広げられていたのだろうか。
ドタバタ道中はラリー前から始まっていたが、第1夜も引き続きいろいろ起こる。免税店で買ってきたマオタイシュを2人でチビチビ飲みながらメインランドの第1日は更けていった。
それにしても香港の大陸的で自由な空気に満ちていた魅力ある街は今、どうなっているのだろう。
長くなるので、この続きは次回に持ち越します。