日下部保雄の悠悠閑閑

1993年の香港北京ラリー その4

最終フィニッシュの天安門広場での車両管理のときに撮った写真。美人のおまわりさんと……

 長い長い香港-北京ラリーも最終回です。

 波乱のDAY4を終了したのは前回お話しした通り。翌日からはDAY5武漢~鄭州、DAY6鄭州~石家荘、そして最後のDAY7石家荘~北京への道が待っている。

 もはや正式なコンペティターではなく、北京まで走っても順位はつかない。しかも最後尾からのスタートで各DAY終了後のパルクフェルメにも入れないという中途半端な状態だが、まず雄大なラリーを続けられるのは素直に嬉しい。

 武漢は新型コロナウイルスが発生した可能性のある都市として有名になってしまったが、揚子江とその支流の合流点にある中国有数の商工業都市だ。漢口、武昌、漢陽からなっていることは後で知った。中国の地名は歴史に多く出てくるので漢口と聞いて、急に親近感が湧いた。宿泊に充てられたホテルも医務室が併設されているぐらいの立派なホテルで、ボクの神経まで切った小指がたちまち治ったのは、中国4000年の争いの中で学んだ金創治療の薬効だったのかもしれない。

 その晩は元気者の三好さんもさすがにガックリきていたが、例のマオタイ酒をグビっとやっているうちに2人とも面倒なことは忘れて寝入ってしまった。

 DAY5は5つのSSが用意されており、スタートはまだ夜明け前の暗い武漢をスタートして鄭州までの約930kmを走る。フロントウィンドウに本番を走るラリー車と区別するためにABBの小さなステッカーが貼られている。やはり悔しい。

 夜の名残が濃い山の中、うっすらと見える白っぽい服をまとった女の人がこちらを見ているような気がした。日本だったら「出た~」とアクセル全開になるところだが、ナビ席にあってはどうにもならない。怖がり屋の三好さんに言わないで見なかったことにした。でもその女性は生身の人間だったことがSSにたどり着いて分かった。大勢の観客が待ちかまえていたのである。白っぽい服はそのSSに向かっていた女性だったのだ。思い出してみればどのSSでも観客はすさまじく多く、みんな、夜中から歩いてSSにたどり着いているのだ。地域ごとにお祭り騒ぎである。

 SSは勝敗には関係なくなってしまったので、もはや全開で走る必要はないが気を抜くとロクなことない。三好さんにはこれまで通り頑張って走ってもらうことにする。

 ラリーは北上あるのみ。例の田んぼでのアクシデントでリアエンドに傷を負ったものの、キャロッセ・ランサーはガソリン補給ぐらいで快調に走る。頑丈なクルマだ。われわれも気が張っているせいか疲れは感じない。

長いDAY5のナイトサービス。サービス隊は常に全開で緊張のし通し。自分も手伝ってステッカー拭き。右手に包帯巻いてます

 ルートの構成上サービスチームは大変だ。交通ルールはないに等しいだけに常に事故の危険が付きまとう。疲労も重なってほかのチームではサービスカーの事故もあったようだ。

 SSは完全に警察に警備されており、軒下を走る際にも観客は出てこない。危険エリアは完全に人が排除されているようだ。村の目抜き通りを埃を巻き上げて全開で走るのだが、なんか気が引ける。

公安警察と聞くと怖そうだが、日本でいう警察です

 約930kmを走破したDAY5はやっと終わり、南北東西の要衝として栄えてきた鄭州にフィニッシュした。クルマも人も快調だ。夜はマオタイ酒のお世話で深い眠りに入っていくのだから単純だ。

 鄭州から石家荘のDAY6は約600km。すべてグラベルで5つのSSがあるはずだったが2つのSSがキャンセルになってしまった。真偽のほどは分からないが、香港からのオフィシャルがとうとうへばって寝坊したらしいという噂が流れてきた。このラリーは現地のオフィシャルを動員できないので、数チームのオフィシャルですべてを賄っている。妙に納得して、大変だよな~と親近感さえ覚えてしまった。長い道中を一緒に戦っている友のようだ。

 それにしても子供が多い。ラリー車が通過する山村では必ず子供たちが歓迎してくれ、キャーキャー騒ぐ笑顔がかわいい。学校のそばでは制服を着た子が鈴なりになって手を振ってくれる。それで山村を通過する際は普段着の子供たちが手を振ってくれる。中にはラーメン食べている子もいた。

 アレ、学校は? 中国って一人っ子政策じゃなかったっけ? と2人で首をかしげるばかりだ。3人まで認められたのはコロナ禍の今だった。

 さてラリーは続く。やたら埃が舞う石家荘の近くでは崖面に竪穴式住居が上下に連なっていた。遺跡だと思っていたが(いや遺跡かもしれないが)、実際に使われているようで何人も出入りしていたのには驚いた。ラリー車の窓から見えたその光景が今も思い浮かぶ。中国人民はしたたかに生活しているのだ。

 最後のDAY7は夜明け前に石家荘を出発して舗装のSSを2つ消化するのみだ。ファイナルのSSは万里の長城のゲートをくぐってフィニッシュとする。距離も短く事実上DAY6でラリーの成績は決まるが心躍る演出だ。

最終SSは万里の長城をくぐって感動的なフィニッシュ。リスタートまでに時間があるので観光してみた。土産物屋さんもたくさんあり、進出したばかりのケンタッキーもあった。中華風味でなんか違う気もしたけどおいしかった

 実は夜明け前の北京市内ではコース図が読みにくく、広い幹線道路をラリー車が右往左往することになった。われわれもその1台だったが何とかルートを探り当てて本コースに復帰した。これがGr.Nの優勝を手中にしていた西山パルサーが最後のSSを逆走して失格になった遠因になったと思う。ここまで来て残念だったに違いない。

 ラリー車は万里の長城からコンボイになって交通を遮断したあの天安門広場に帰ってきた。香港から約3700km。いろんなことが起こり、いろんなことを見た長いラリーは終わった。田んぼ事件で完走扱いにならなかったが最後まで走った経験は何物にも代えがたいと思う。

最終ゴールの天安門広場に向かう途中。向こう側にはスバルのサービスカーがいます。手前は警備の警察官、あるいは人民解放軍?
強引にサービスしてもらったTUSKエンジニアリングの石黒親分、左を向いているのは世界中どこにでも現れるKYBの太田さん

 最後にご褒美が待っていた。人民大会堂での表彰式に出席できたのだ。スポンサーのレナウンがしつらえてくれたブレザーで撮った記念写真が、われわれの香港-北京を物語っている。

人民大会堂での表彰式。ここに入れただけでもビックリ。右からマネージャーの石垣くん、ドライバーの三好さん、そして私
日下部保雄

1949年12月28日生 東京都出身
■モータージャーナリスト/AJAJ(日本自動車ジャーナリスト協会)会員/2020-2021年日本カー・オブ・ザ・イヤー選考委員
 大学時代からモータースポーツの魅力にとりつかれ、参戦。その経験を活かし、大学卒業後、モータージャーナリズムの世界に入り、専門誌をはじめ雑誌等に新型車の試乗レポートやコラムを寄稿。自動車ジャーナリストとして30年以上のキャリアを積む。モータースポーツ歴は全日本ラリー選手権を中心に活動、1979年・マレーシアで日本人として初の海外ラリー優勝を飾るなど輝かしい成績を誇る。ジャーナリストとしては、新型車や自動車部品の評価、時事問題の提起など、活動は多義にわたり、TVのモーターランド2、自動車専門誌、一般紙、Webなどで活動。