日下部保雄の悠悠閑閑
久しぶりのシャルマン
2022年11月21日 00:00
久しぶりのラリー・シャルマンだ。昨年のクラッシックアルペンの1日目、イグニッションコイルが壊れてリタイアして以来の再会だ。今年のクラッシックアルペンのためにいろいろやらなくちゃ、と思っていた矢先にナビの田口次郎が急逝してしまったため、出番のなくなったシャルマンはこのクルマを作ってくれた小西重幸君のAMSで管理してもらっている。
思い出深いクルマだけに、触れたいような、ハンドルを握りたくないような、複雑な気持ちが交差する。
しかし車検の切れたままになっていたシャルマンをまた動かすことになった。メディアの取材を受けるためだ。メディアとは後輩の三好秀昌君がページを持つドライバー誌の企画で、古いクルマやラリー車などちょっと珍しいクルマを紹介するという。
三好君はもともとラリードライバーで英国に残っていたTUSK制作のギャラン VR4、篠塚健次郎車で激戦の英国選手権に出場、狂った走り(?)からマッド・ドッグというあだ名まで頂戴した。TUSKがサファリやアジアパシフィック選手権を戦うようになるとマネージメントカーに乗って一緒に世界を回りながら、実績を積んでいった。
さらにカメラマンでもあり、ボクのKYBスタリオンの動的な撮影後、それを壁一面ほどに伸ばした写真がKYBのプロモーションに使われた。一瞬を捉える抜群の目を持っており、得意の動物写真ではアフリカで撮りためたライオンやチータなどの動物たちが生き生きとしたカレンダーになって、毎年送られてくる。
さて、その三好君たちに合流したときは大方撮影は終了しており、YouTubeの動画撮影を行なうだけになっていた。久しぶりに会うシャルマンはピカピカで、やはりうれしさと懐かしさがこみ上げてくる。
このシャルマンは1976年製でのんびりした余生を送っていたが、2014年だったか自分の手元にきてラリー車レプリカに作り替えられた。そのころ、昔のラリーコースを走るタイムラリーとして、往年のラリークルーとラリー車が走るLegend of THE RALLYに参加するための計算ラリー仕様で、本格的なスピードラリーには向かない。しかしカラーや装備など当時のラリーシャルマンを再現して作り、エンジンも当時と同じく1.4リッターから1.6リッターツインキャブにパワーアップした。
1970年代、DCCS(ダイハツ・カー・クラブ・スポーツ)に出入りして、コンソルテやミニカーのマックスに乗せてもらっていたが、ワークスカー扱いのラリー車に乗せてもらえるなんて夢のようだった。
しかしシャルマンは自分のクルマだった。制作やパーツはDCCS車と同じだが、使用していたタイヤの関係もありわがままを言って自分のクルマにしていた。暇を見て軽量化をしたり、堀内メカと相談していろいろアレンジしたりと、かなり自由にさせてもらえた。
真夏にエアコンなんてないサウナのような工場の中でアンダーコートを剥がし、ドアやボンネットなどに軽量孔を空けたり汗みどろになって作業した。どれだけ軽くなっているかと思ったら全部で20kgと言われ、正直ガッカリだった。
しかしその20kgはTE27などがライバルだった中では大きな武器だったのではないかと思う。霧の中でハンドル応答性やブレーキで素早く反応してくれたのだ。非力なシャルマンにとっては重量バランスと軽量化は最大のメリットだった。
いろいろ思い出す。シャルマンはエンジンパワーが小さかったので最終減速比を4.875という大きなデフ比を使って駆動力を稼いでいた。普通は4.111か4.375だったからどれだけ駆動力が大きかったことか。そのため高速道路はエンジン回転が上がりっぱなしで、アンダーコートのない鉄板むき出しの車内はやかましくて何も聞こえずとにかく疲れた。その後、たまらずインカムを使うようになってやっとナビとの会話ができるようになった。
このクルマはLSDの関係でリアのホーシングはTE27用を使っているが、A20シャルマンより20mm長く前後のグリップバランスがわるくて苦戦している。KE47スターレット用のホーシングが使いたいところだが。
当時はDCCSのボス寺尾さんがクルマ1台分以上のコストをかけてLSDを作ってくれたおかげで、シャルマンはグンと走りやすくなったのは言うまでもない。
シャルマンとは相性がよく、初めてクルーを組んだ田口次郎と四国で、次の出羽三山では森実えり子さんと2連勝する幸運に恵まれたが、一流ナビの力量とシャルマンの素直な操縦性に感激した。
ストライプの入ったシャルマンを見ていると1978年までのラリー・シャルマンと2014年からのシャルマンとの、いろいろなことが断片的に思い出されてきて懐かしい。三好君が取材してくれたシャルマンは12月20日に掲載されるそうです。YouTubeは……不明です……。