日下部保雄の悠悠閑閑

篠塚建次郎さん

2018年のLegend of THE RALLYでの建次郎さん。バックに映っているレビンは綾部美津雄さん。2人の天才ラリードライバー

 18日、篠塚建次郎さんが逝ってしまった。残念ながら既報の通りだ。篠塚さんは三菱自動車の社員ドライバーでパリ・ダカの覇者だったのは言うまでもない。

 最初に建次郎さんを見たのはもう半世紀も前のこと。当時は国内ラリーにいくつかのメーカーがチームを送っており三菱自動車もその1つだった。

 僕はまだ学生だったが、クラブの仲間と参加したツールド・ニッポンで三菱自動車のホープだった建次郎さんがコルト1100(だったと思う)で浅間サーキットに姿を見せたのが今でも網膜に焼き付いている。何気ないシーンだったがインパクトがあり、スターとはこういうものなんだと感じた。

 三菱自動車のラリー車はコルトからギャランに替わり、軽快なフットワークと軽い排気音がラリー車に新しい時代の到来を感じさせた。余談だがギャランはこの後に登場するランサーよりホイールベースも長くてバランスがよく、ラリー車としては圧倒的に扱いやすかった。ランサーはじゃじゃ馬でクルマと戦っているように感じたものだった。

 さて建次郎さんはそのランサーでのオーストラリア・サザンクロスラリーが最初の海外戦だったと思う。

 そしてあまり知られていないのはフォード・エスコートMK.IIで出走したヨーロッパラウンド、ポルトガル(アクロポリス?)。海外ラリーも視野に入れていたヨコハマタイヤがサポートしていたのだ。そのシーンが見開きで載っていたオートテクニック誌は物置の奥で探し出すのも難しくなってしまった。もしかしたらADVANカラーだったのかもしれない。確か6位入賞したと思う。さすがは建次郎さんと思った。後日、建次郎さんにそのときの話を聞いたが、実はブレーキがすっぽ抜けて危うくコースアウトしそうになったというのは初耳だ。この人の瞬間的な反応はすごい。そうでなければいつの時代も長丁場の耐久ラリーでフィニッシュラインを越えるのは難しい。

 WRCではランエボでのサファリでの入賞以外でも、過酷な西アフリカのアイボリーコーストでも2連勝している。この時代はアジア・パシフィックラリー選手権でもチャンピオンを獲得するなど、ラリードライバーとして世界を飛び回っていて忙しかったはずだ。

 その後、活動の舞台を砂漠に移し、パリ・ダカでの優勝は建次郎さんの真骨頂だ。練習をしたことはないと言っていた天性のラリードライバーはいつも冷静で沈着だった。

 最近の旧車のラリーでもこんなことがあった。上り坂のタイムコントロールで建次郎さんのマシンのエンジンがかからなくなったときがあった。いくら押し掛けしてもかからない。最後はこちらも息が切れて諦めたが、建次郎さんは下り坂をズーと後退して行き、やがて姿が見えなくなった。リタイアかなと思ったがいつの間にかすぐ後ろにいた。「どうしたんですか!」と聞いたら「ズーと下がって修理したんだよ」と何事もなかったようにニコニコと答えた。タイムラリーでもやっぱりこの人にはリタイアと言う言葉はないんだと心底思った。

最初のCOLT Kenjiroをイメージして制作されたCOLT 1100。よく作られています

 最後に会ったのは2023年の全日本ラリーの最終戦、松本でのパーティだった。少し体調はわるそうだったが噛みしめるような笑顔はいつもと変わらなかった。リタイアなんてやっぱり似合わない。

日下部保雄

1949年12月28日生 東京都出身
■モータージャーナリスト/AJAJ(日本自動車ジャーナリスト協会)会員/2020-2021年日本カー・オブ・ザ・イヤー選考委員
 大学時代からモータースポーツの魅力にとりつかれ、参戦。その経験を活かし、大学卒業後、モータージャーナリズムの世界に入り、専門誌をはじめ雑誌等に新型車の試乗レポートやコラムを寄稿。自動車ジャーナリストとして30年以上のキャリアを積む。モータースポーツ歴は全日本ラリー選手権を中心に活動、1979年・マレーシアで日本人として初の海外ラリー優勝を飾るなど輝かしい成績を誇る。ジャーナリストとしては、新型車や自動車部品の評価、時事問題の提起など、活動は多義にわたり、TVのモーターランド2、自動車専門誌、一般紙、Webなどで活動。