日下部保雄の悠悠閑閑

日本初のジェット機「橘花」

日本初のジェット飛行機「橘花」。高速を活かした艦船攻撃機に特化して開発された特殊攻撃機

 橘花(きっか)のプラモデルを託された。プラモデルの世界では筆塗り名人として著名な故後藤昌男氏の作品で、手に取ると丹念なモノづくりにただただ感嘆するばかり。40年のモデル制作歴で約60機の飛行機を残しており、その1機が手元にある橘花だ。

 自分はプラモデル製作は全くの素人で、なんでこんなに精巧にできるのか見当もつかない。後藤氏は質感にこだわり、塗装には筆を使ってグラデーションの細部にも独特の技法があったという。ご縁でウチにやってきたので大切にしようと思う。

コクピットまわりは実戦だとこうなっただろうというペイントの剥がれが再現されている。

 橘花は日本最初のジェット飛行機で、終戦の年(1945年)の8月に試験飛行にこぎつけた。今から79年も前の話である。戦争中も日独間は潜水艦によって細々と技術交流が続けられており、おそらくドイツを往復した最後の潜水艦で運ばれたメッサーシュミット Me262(戦闘機)のシンプルな図面を元に制作されたのが空技廠(海軍航空技術廠)と中島飛行機によって特急で開発された橘花だ。

 日本本土に迫りくる連合軍艦船への特殊攻撃機として開発されたが、いわゆる桜花のような特攻機ではない。防弾板も備えて500kgの爆弾投下装置を持った高速攻撃機だ。

 開発にあたっては日本の技術力に見合ってMe262からひとまわり小さい機体にスケールダウンされ、主翼もジェット機のような後退翼ではなく、前縁だけテーパーを付けたいかにも過渡期らしい機体だ。

高速のジェット機のような後退翼ではなく、前縁のみテーパー翼になっているのが分かる

 ジェットエンジンは1942年ごろから細々と開発されていたが資源と技術の両方が不足して終戦の年でもまだ完成しなかった。現状に即した突端工事の末、最初からMe262のJumo004B(900kg)の推力は諦め、小型のBMW003の図面をベースにし、さらに小型にした推力475kgの「ネ20」がやっと4時間の連続運転に耐えられるようになった。

 そのころは艦載機やB29の爆撃も激しくなり、製図から制作まですべての部署が分散され、なんと日本初のジェット機、橘花は養蚕小屋で誕生したという。

エンジンはBMW003をお手本としてよりコンパクトに開発された「ネ20」型で推力は475kgと小さかった。Me262は900kg

 1945年の8月7日、十分な資源も使えずやっと木更津飛行場から飛び立った橘花は11分の飛行に成功した。短時間で成功に導いた感動は格別だったに違いない。

 さらに11日、空襲の合間を縫ってフル荷重にして全力飛行の試験が行なわれる予定だった。1800mの木更津飛行場の滑走路では推力に不安があるために補助ロケットエンジンを装備し滑走と開始。

 すぐにロケットに点火すると機首上げの姿勢が止まらず、テストパイロットの高岡少佐は危険を感じてイグニッションを切り、フルブレーキにするも応急的に付けた軽いゼロ戦のブレーキでは止まるはずもなく、滑走路を外れて橘花はもんどりうって大破してしまった。高岡少佐は大した怪我をすることなく無事だったのは不幸中の幸いというべきか。

 2号機を準備していた8月15日、日本は降服して橘花が再び日本の空を飛ぶことはなかった。以来、日本は平和を保っている

 模型では垂直尾翼に横須賀航空隊を示す「ヨD」がペイントされているが、全力で飛ぶことがなかった橘花へのせめてもの後藤昌男さんの心遣いだろうか。

尾翼にある「ヨD」は横須賀航空隊の記号。製作者の思いが込められる。プラスチックパーツはより頑丈でリアルな金属製に置き換えられている
日下部保雄

1949年12月28日生 東京都出身
■モータージャーナリスト/AJAJ(日本自動車ジャーナリスト協会)会員/2020-2021年日本カー・オブ・ザ・イヤー選考委員
 大学時代からモータースポーツの魅力にとりつかれ、参戦。その経験を活かし、大学卒業後、モータージャーナリズムの世界に入り、専門誌をはじめ雑誌等に新型車の試乗レポートやコラムを寄稿。自動車ジャーナリストとして30年以上のキャリアを積む。モータースポーツ歴は全日本ラリー選手権を中心に活動、1979年・マレーシアで日本人として初の海外ラリー優勝を飾るなど輝かしい成績を誇る。ジャーナリストとしては、新型車や自動車部品の評価、時事問題の提起など、活動は多義にわたり、TVのモーターランド2、自動車専門誌、一般紙、Webなどで活動。