日下部保雄の悠悠閑閑

E30 BMW M3 INTER TEC

PLATZ社製のBMW M3 INTER TEC。精巧で細部までこだわりの再現がされている

 ある日、倉敷の日下さんからLINEで1枚の写真が送られてきた。目に焼き付いている爽やかなブルーのBMW M3。ゼッケン29番、B-ingカラーだ。静岡ホビーショーに出品されたもので、すでにラインアップされていたものの再登場だ。PLATZ社製のプラモデルは精巧で細部まで忠実に再現されている。しかもモデルは1990年の全日本ツーリングカー選手権の最終戦、INTER TECだ。Gr.Aによる選手権はどのサーキットも満員御礼のにぎわいだったが特にINTER TECは会場から出るのに4時間ぐらいかかった記憶がある。

 ボクは同じラリードライバーの山内伸弥君と組んで1989年と1990年の2シーズンをサザンオールスターズのKEGANIさん率いるKEGANI RACINGのBMWと過ごした。

 このM3は前年まで土屋圭市選手がコスモカラーで乗っていたM3を引き継いだもので1年目はサザンカラー、2年目にB-ingカラーだった。

 Gr.Aは今のレーシングカーほど改造範囲が広くなく(とはいっても専用のレーシングモデルは存在したが)、プライベート、ワークス問わず多くのチームが参入していた。3つあるクラスの真ん中、Div2に属するM3はBMWのサポート体制がシッカリしていることもありADVAN、オーテックなど有力チームが覇を競っていた。

 1989年の初戦は今はマツダのテストコースになっている美祢、当時は左回りの西日本サーキットで行なわれた。ユニークなコースでいわゆるクラッシックのローカルサーキットが面白く、好きなコースの1つだった。高橋健二/ディケンズのADVAN号にはかなわなかったがGr.Aのレースらしきことができ、あとの自信につながった。

 さて、1989年の初戦だった西日本から2年が経過し、1990年シーズンの最終戦に話は飛ぶ。PLATZ製の精巧なB-ing号を見ると当時のことがまざまざと思い出されてきた。

B-ing KEGANI RACINGのM3の実車。最終戦の富士のINTER TEC。荒れそうな展開だったので自分のペースで走ることを決めていた

 このときは予選でトランスミッションが壊れてAコーナーの手前でクルマを止めてとぼとぼ歩いてピットまで帰ってきたのを思い出す。BMWはレーシングカーといえども分厚い整備マニュアルがあり、エンジンやトランスミッションのオーバーホールのマイレージ、デフの交換タイミング、指定オイルの交換時期まですべて指示されている。壊れたときは欲を出して予選まで使おうとしたトランスミッションがキチンと壊れたのだ。そこまで管理できているBMW恐るべしだ。決勝ではスペアのトランスミッションに交換してことなきを得た。

1コーナー。29号車B-ing号とイエローのオーテック号

 いよいよローリングスタートが始まると、ピットからの無線がハウリングしてしまい聞こえず。なんとかなるだろうとタイミングを取ることに集中した。スタート直後の混雑がひと段落すると無線は交信可能となった。こちらの頭がハウリングしていたのかもしれない。ラップを重ねると先行する高橋健二さんのADVAN号が最終コーナーでストップしていた。まだ手強いラッツェンベルガーのオーテックBMWがいる。終わってから知ったがラッツェンはブレーキバランスがわるく、他車とのトラブルもあったようで後ろに下がっていた。ピットサインでP1が見える。やがてストレートエンドで黄色いオーテック号がスリップについた。でも長いストレートももう終わり。スリップから抜けるチャンスはないはずだ。最後のブレーキングでラッツェンが横に並んだ。間に合わないだろうと思っていたらアウト側にいた自分を道連れにグラベルに入って行くではないか! もちろん自分の行き場はない。

スリップからのアクシデント。ラッツェンがスリップから出たと思ったら、押し出されてしまった。あ~れ~

 グラベルはハマると抜け出せなくなるのが常だが、アウト側に固いところがある。ラッツェンも出るのに必死。B-ing号を壁にしながらコースに戻ろうとしている。そりゃないだろうと一瞬頭に血が上ったが、ここから出るのが最優先。モソモソと動くのを諦められずになんとかコースに復帰。走行を再開してもM3に変調は見られずラップタイムも落ちていない。ピットインせずにレースを続ける。

グラベルの中でのせめぎ合い。両車とも脱出するの必死。ラッツェンベルガーは荒っぽいように見えるけどファイトあふれる好漢で、その後F1で不慮の死と遂げてしまった。残念です

 10月の富士は西日が低くきつい。オイルと虫、タイヤカスで汚れたフロントウィンドウからの狭い視界はINTER-TECの名物だった。あごを引くようにしてバイザーから視界を確保する。

 その後M3は快調でタイヤも問題なかったが、一度だけ300Rでリアが突然流れたことがあった。反射的に内掛けで大きなカウンターを当てたが、後にも先にもレースで内掛けを使ったのはこれが最初で最後だ。パワステなんてものはなくできることをやるのみだった。当時のマシンは腕力がいるのです。

 Div.2の後続はだいぶ離れたが、Div.3のAE92レビン、鈴木恵一さんのADVAN号が少し後ろにいる。土屋エンジニアのエンジンも快調そうで、マイナートラブルさえなければクラス優勝は間違いなさそうだ。

PLATZ製AE92、25号車 ADVAN LEVIN。土屋エンジニアリングのADVANカーはボクが最初にGr.Aに乗せてもらったクルマだった、灼熱の筑波はつらく苦しく、最後はクルマから降りられないほど疲弊したけど素晴らしい体験だった

 伸弥君もそつなく走りぬきチェッカーを受けたときは大感激でうれしかった。この年菅生に続き2度目の優勝だったが、特にINTER-TECでの勝利は思い出深いものだった。

 翌年、B-ing号は茂木和男/小幡栄組に引き継がれGr.Aの終焉まで活動を続ける。息の長いB-ing号でした。

PLATZ製AE86。おなじみの86は1時間で接着剤もなしでこれほど精巧なものができます。これならプラモアレルギーの人にも手が伸ばせそう

【お詫びと訂正】記事初出時、土屋圭市氏の表記に誤りがありました。お詫びして訂正させていただきます。

日下部保雄

1949年12月28日生 東京都出身
■モータージャーナリスト/AJAJ(日本自動車ジャーナリスト協会)会員/日本カー・オブ・ザ・イヤー選考委員
 大学時代からモータースポーツの魅力にとりつかれ、参戦。その経験を活かし、大学卒業後、モータージャーナリズムの世界に入り、専門誌をはじめ雑誌等に新型車の試乗レポートやコラムを寄稿。自動車ジャーナリストとして30年以上のキャリアを積む。モータースポーツ歴は全日本ラリー選手権を中心に活動、1979年・マレーシアで日本人として初の海外ラリー優勝を飾るなど輝かしい成績を誇る。ジャーナリストとしては、新型車や自動車部品の評価、時事問題の提起など、活動は多義にわたり、TVのモーターランド2、自動車専門誌、一般紙、Webなどで活動。