日下部保雄の悠悠閑閑

3.11

日が沈む寸前の東京。震災後しばらくは銀をまき散らしたような夜景は、暗転したように真っ暗になった。富士山はいつも孤高の存在だ

 15年前の3月11日。14時50分ごろ、突然ドンという大きな揺れが始まった。大して広くもない会議室にいた十余名は全員が浮き足立ったが、その中にも冷静な者はいるもので、静かにスチールのドアを開放した。自分も窓も大きく開けた。狭い空間にいては危ないと感じたのだろうか。

 すぐにTVをつけると、大地震のライブ中継は東北がとんでもない状況になっていることを伝えていた。もはや会議どころではなく、今この場にいる人をどうやって帰そうかだけで精いっぱい。都内のビジネスホテルは秒単位で埋まっていく。新幹線を含む交通機関は寸断され、あらゆる交通機関が止まってしまった。会社に宿泊の覚悟を決めた者、とどまって電車が再開するのを待つ者、やっと取れたホテルに向かう者。ひと段落ついたところで裏道を選んで帰宅できた。皆の安全が確認できてホッとした。

 津波の破壊力は想像をはるかに超えていた。その前の年に訪れた気仙沼では港に面したホテルに宿泊したが、そのホテルは丘の上にあり、崖から突き出た桟橋があり、エレベーターで港に降りられるようになっていた。ガラス越しからは海がよく見えた。

 そのホテルの津波で滅茶苦茶に割れたガラスも映し出され、破壊力と波の高さを現実のものとして理解できた。そんな高いところまで海が上がったのかと思うと心底恐ろしい。

 震災直後、救援に向かった長男が見た燃える海に唖然としたようだった。

 首都高速から見る東京タワーの先端が曲がっていたのも大きなショックだった。それほど激しい揺れが盤石に見えた東京タワーを曲げてしまった。現実感がない。

震災後、日夜奮闘する医療従事者を慰労しようとブルーインパルスが東京の空を飛んだ。感激した

 少し落ち着いたころ、AJAJとして何ができるか考えた末、ボランティア活動に向かうAJAJ会員にわずかだが補助金でサポートした。彼ら、彼女らはガソリンが不足する中、物流が止まって在庫の豊富な軽油を使うディーゼル車を使い、運転技術を駆使して援助の届きにくい地域で活動した会員も少なくない。毎週のように誰かが行っていた。

 自分自身は足手まといになりそうで、せいぜい食料品を選ぶときに福島を筆頭にした東北のものを選ぶことぐらいだった。

 毎年3月11日がやってくると、災害の大きさとその爪痕に思いがいくと同時に、改めて自動車の実力を知るきっかけにもなったと感じる。

 いつか東北の地を再訪したいと心から願っている。

日下部保雄

1949年12月28日生 東京都出身
■モータージャーナリスト/AJAJ(日本自動車ジャーナリスト協会)会員/日本カー・オブ・ザ・イヤー選考委員
 大学時代からモータースポーツの魅力にとりつかれ、参戦。その経験を活かし、大学卒業後、モータージャーナリズムの世界に入り、専門誌をはじめ雑誌等に新型車の試乗レポートやコラムを寄稿。自動車ジャーナリストとして30年以上のキャリアを積む。モータースポーツ歴は全日本ラリー選手権を中心に活動、1979年・マレーシアで日本人として初の海外ラリー優勝を飾るなど輝かしい成績を誇る。ジャーナリストとしては、新型車や自動車部品の評価、時事問題の提起など、活動は多義にわたり、TVのモーターランド2、自動車専門誌、一般紙、Webなどで活動。