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F1のスーパーデザイナー、エイドリアン・ニューウェイ著「HOW TO BUILD A CAR」を読む

アイルトン・セナ選手やレイトンハウスについても語られる

2020年4月28日 発売

本体価格4800円+税

エイドリアン・ニューウェイ氏がデザインしたレイトンハウス マーチ 881。自然吸気エンジン搭載ながら空力に優れ、高いポテンシャルが注目された。写真提供:(C)autosport

 日本語完訳版「HOW TO BUILD A CAR」の著者 エイドリアン・ニューウェイは、1956年イギリス ストラットフォード生まれのレーシングカーデザイナー。現在、ホンダがF1パワーユニットを供給しているレッドブル・レーシングのCTO(Chief Technical Officer)を務めるエンジニアで、近代F1の歴史の中で最も成功を収めたレーシングカーデザイナーと言っても過言ではない。

 1992年のウィリアムズ FW14B ルノーでドライバーズタイトル、コンストラクターズタイトルの2冠を獲得したことを皮切りに数々のチャンピオンマシンを生み出してきた。2019年、ホンダに13年ぶりの優勝をもたらしたレッドブルRB15も、彼が指揮したチームがデザインした車両になる。

三栄から発売された日本語完訳版「エイドリアン ・ ニューウェイ HOW TO BUILD A CAR」。翻訳は水書健司氏、監修は世良耕太氏。656ページのハードカバーで、本体価格4800円+税

19のF1タイトルを獲得したレーシングカーデザイナー、エイドリアン・ニューウェイ

 ニューウェイがデザインしたF1カーは、まさにウイニングカーの歴史と言い換えてもよい。2013年のレッドブル RB9 ルノーでコンストラクターズタイトルを、同時にセバスチャン・ベッテル選手のドライバーズタイトルを獲得するまでに、彼がデザインに関わった車両は10個のドライバーズタイトル、そして9個のコンストラクターズタイトルを獲得している(彼がデザインをした後、他チームに移籍した後の獲得も含む)。1992年~2013年という22年で、そのうち半分近くの年で彼のデザインした車両がタイトルに関わっていることになる。

 ニューウェイはその功績により、OBE(Order of the British Empire、大英帝国勲章)を授与されており、「サー」の敬称をつけてよばれる存在であり、まさに「スーパーデザイナー」と言ってよい。

子供の頃にはタミヤの1/12スケール ロータス49を作って機械に興味を持ったニューウェイ

タミヤ製 1/12 チーム ロータス タイプ49 1967。1/12ビッグスケールシリーズの組み立て式スケールモデル。サスペンションも実車同様のメカニズムで作動する

 そのニューウェイの自伝が「HOW TO BUILD A CAR」になる。本著の中でニューウェイは子供時代の話から書き起こしており、当時としては型破りな両親のこと、そして子供のころから実証的で何かを分解して組み立てたりすることが好きだったことなどが語られている。

 その中でも印象的なのは「なかでも一番のお気に入りは、ジム・クラークやグラハム・ヒルがドライブしたロータス49のタミヤ製1/12スケールモデルだった」(本文より)という一文だろう。機械好き読者の皆さんの多くも幼少期に、スケールモデルを作ったり、RCカーを組み立てたりという経験をお持ちだろう。そういう機械好きで、論理的な思考を養うことが、未来のスーパーエンジニアを育てる上で重要なのだということがこのあたりからもよく分かる。

 その後、中高一貫校を型破りなスタイルが原因で放校になり、日本で言うところの大検(大学入学資格検定)を取得して大学に行き、これからのレーシングカーのデザインは空力だと考えて大学で空力を学ぶなど、学生時代から「並の学生」ではなかったことなどが語られている。

 その就職活動もユニークだ。ニューウェイが最初に就職したF1チームがフィッティバルディ・オートモーティブ。1972年、1974年のF1チャンピオンにして、このエピソードの後になる1989年と1993年の2度にわたってインディ500の勝者となるエマーソン・フィッティパルディが兄のウィルソンと起こしたチームだ。後にフェラーリやティレルなどでテクニカル・ダイレクターに就任するハーベイ・ポスルズウェイトが、そのチームのテクニカル・ダイレクターを務めていた(ジャン・アレジや中嶋悟が1990年に駆った、ノーズ持ち上げ型フロントウイングを初めて採用したティレル019を設計したのがポスルズウェイトだ)。

 ニューウェイは、ポスルズウェイトとの面接に買ったばかりのイタリア製のバイクを駆って行く。その若きニューウェイにポスルズウェイトが要求したのはそのバイクを貸してもらうことだったという。その間置いてけぼりを食らったニューウェイは所在なく立っていただけだったそうだが、帰ったポスルズウェイトが放った一言は「いつから来られる?」(本文より)だったという。なんとも豪快な面接だが、英雄、英雄を知るということだろうか……。

 その後にはエマーソンの豪快な失敗やら、当時のF1の型破りな一面などが多数語られており、そこは実際に本書を手に取って確認してほしい。

セナの事故やレイトンハウス マーチの事情なども語られる

 F1好きにとって見逃せないのは、その後のニューウェイの活躍の裏話だろう。フィッティバルディを皮切りに、マーチ、ハース(現在のハースF1とは別のハースチーム)、もう一度マーチなどのコンストラクターを転々とし、マーチでアメリカのインディを担当していた際のボビー・レイホール(現在インディカーに参戦している佐藤琢磨の所属チームのチームオーナー)との出会いなどが語られる。

 後年マクラーレンに在籍していたニューウェイは、レイホールがチーム代表を務めていたジャガーF1に引き抜かれようとするが(最終的に話は破談になるのだが)、その関係はこの時から始まっていたのだということが語られている。

ウィリアムズ時代のニューウェイ氏(右)。アラン・プロスト選手(中)、パトリック・ヘッド氏(左)と歓談中。写真提供:(C)autosport

 また、1990年代にウィリアムズに所属していたときには、当時のチームのトップ2であるフランク・ウィリアムズとパトリック・ヘッドと契約を更新する際に、ドライバー選択に関してはニューウェイに相談するという契約をしていたのに、1992年の末にはナイジェル・マンセルとの契約を更新しない、1996年の末にはデーモン・ヒルとの契約を更新しないということが、ニューウェイに相談なく決められたことなどが明かされている。

 それが1997年シーズンにウィリアムズからマクラーレンへの移籍につながっていくのだが、その辺りの事情も、ニューウェイ側の視点から詳しく書かれている。当時のF1を見ていた往年のファンにとっては、あーあの舞台裏ではこんなことが起こっていたのかと膝を叩きたくなる気分だろう。

 そして、日本のF1ファンにとっては忘れられない、1988年のレイトンハウス マーチ 881が一時的にしろ首位を走った時の舞台裏、そして1994年5月1日にイモラ・サーキットで発生したアイルトン・セナの事故死。その前後事情もニューウェイの口から赤裸々に語られており、F1ファンであれば掛け値なしに引き込まれること請け合いで、筆者も途中で読むのを中断できず、夜を徹して一気に読んでしまったほどだ。

1991年F1日本グランプリを走るウィリアムズ FW14 ルノー。写真提供:(C)autosport

1980年代から今までのF1を知るための本として、スーパーエンジニアになるためのキャリアパス参考書としても有益

 以上のように、本書は1980年代~1990年代に日本でF1ブームが起こっていたころのファンにとっては、登場人物のほとんどがその当時活躍していた人達だ。ウィリアムズのフランク・ウィリアムズやパトリック・ヘッド、マクラーレンのロン・デニスやマーティン・ウィットマーシュ、そしてジャガーF1のボビー・レイホール、さらに現在のニューウェイの所属チームであるレッドブルF1のクリスチャン・ホーナーやヘルムート・マルコ。ドライバーとしては、アイルトン・セナを筆頭に、アラン・プロスト、ナイジェル・マンセル、ミカ・ハッキネン、ミハエル・シューマッハからセバスチャン・ベッテルまできら星のごとき名前が並んでいる。ニューウェイが彼らのことをどう見ていたのか、それが分かるだけでも本書にはF1史としての価値がある。

 それと同時に、レース業界や自動車業界などの業界を超え、技術開発を行なっているエンジニアや、そしてこれからエンジニアを目指す学生にも本書をお勧めしたい。「スーパーデザイナー」となるエイドリアン・ニューウェイがどのような環境で育ち、学校で学び、就職し、そしてどのように自分のキャリアを切り開いていったのかが本書にはすべて書かれている。エンジニアにとってのキャリアパスの参考書としても一読の価値がある。

(本文敬称略)