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鈴鹿F1初開催優勝マシンや、セナが雨のモナコで激走したF1が鈴鹿サーキットをデモラン

モータースポーツ史に残る名車が集結した「SUZUKA Sound of ENGINE 2015」

2015年5月23日~24日開催

鈴鹿サーキットで開催された「SUZUKA Sound of ENGINE 2015」。歴史的なマシンがサーキットを実際に走るイベント

 鈴鹿サーキット(三重県鈴鹿市)において、モータースポーツ界の名車を実際にレーシングコースを走らせるイベント「SUZUKA Sound of ENGINE 2015」が5月23日~24日の2日間にわたり開催されている。初日となった5月23日には、F1マシン、グループCマシン、さらにはWGPの2輪レーサーなどの伝説のマシンが登場し、大いに会場を盛り上げた。

 F1マシンとしては、今回の会場となった鈴鹿サーキットで最初にF1日本グランプリが行われた1987年に、ゲルハルト・ベルガーが駆って優勝したフェラーリF187、さらには3度のF1チャンピオンに輝きながら1994年にサンマリノグランプリの事故でこの世を去ったアイルトン・セナが1984年のF1デビュー時にドライブし、その年雨中で行われたモナコグランプリで2位表彰台を獲得して一躍セナをスターダムへと押し上げたトールマンTG184、さらには1989年の日本グランプリ優勝車のベネトンB189、1990年の日本グランプリ優勝車のベネトンB190などが登場。レーシングコースを走行したほか、レース型式でのデモランも行われた。

日本のグッドウッドフェスティバルを目指す「SUZUKA Sound of ENGINE」

 SUZUKA Sound of ENGINEは、過去の名レーシングカーを、単に展示するのではなく、実際に走らせてしまおうというのが通常のヒストリック・レーシングカーイベントとの大きな違いになる。こうした過去のレーシングカーを動態保存(レーシングカーとして走らせる状態を維持しながら保存すること)することは決して簡単なことではない。特にF1マシンにいたっては、ほぼワンオフと言ってよく、レーシングチームが数台しか作らないため、部品などの在庫はない。仮にどこかが壊れた場合には、その代替部品を製造して取り替える必要がある。手間がかかるのはもちろんなのだが、維持するコストもかかるため、大抵の場合には動態保存が諦められ、静態保存されるというのが一般的だ。

 しかしながら、自動車メーカーが製造したレーシングカーの場合には、イベントなどで使われることもあるため、動態保存されている例も少なくない。例えば本田技研工業がツインリンクもてぎ内に設置しているコレクションホールでは動態保存が行われている。それはコストも負担でき、整備技術も維持できる自動車メーカーだからこそとも言える。

 近年では、世界的にヒストリックなレーシングカーを動態保存することへの理解が進み、個人でもお金をかけて動態保存をしたいというオーナーが増えている。このため、レーシングカーの動態保存をするサービスを提供する業者も増えており、コストさえ負担できれば動態保存ができる環境が整っている。

 このような状況を反映して、イギリスで非常に盛り上がっているヒストリックレーシングカーのイベントが、「グッドウッド・フェスティバル・オブ・スピード」(通称グッドウッド・フェスティバル)だ。グッドウッド・フェスティバルは毎年、イギリスのグッドウッドで開催されており、そこに世界中から動態保存されているレーシングカーが招待され、実際に走らせる。往年のファンにとって嬉しいイベントになっている。SUZUKA Sound of ENGINEもそれと同じく動態保存されているレーシングカーが招待され、鈴鹿サーキットのフルコースないしは東コースを、実際に走らせるという形のイベントになっている。

鈴鹿で3回のワールドチャンピオンを決めたセナが、1984年のデビューイヤーで乗ってたトールマンTG184

トールマンTG184

 今回のSUZUKA Sound of ENGINE 2015に海外から招待されたF1マシンは、いずれも1980年代~1990年代前半の、日本がいわゆる“F1ブーム”に沸いていた時代、もっと端的に言うなら“セナ・プロ時代”にF1を走っていた車両だ。コースを走った車両は以下のようになっている。

SUZUKA Sound of ENGINE 2015で、5月23日(土)を実際に走った車両
出走年当時のカーナンバーシャシーエンジン当時のドライバー
1984年19トールマンTG184ハート直4ターボアイルトン・セナ
1987年28フェラーリF187フェラーリV6ターボゲルハルト・ベルガー
1989年19ベネトンB189フォードV8アレッサンドロ・ナニーニ
1990年20ベネトンB189フォードV8ネルソン・ピケ
1993年5ベネトンB193フォードV8ミハエル・シューマッハ

 今から31年前の1984年、その前年にイギリスF3でチャンピオンになり、その年からF3規定でのレースが行われるようになったマカオグランプリで優勝した新人ドライバーがF1にデビューした。その若者の名前はアイルトン・セナ。後に1998年、1990年、1991年に、3度とも鈴鹿サーキットで開催された日本グランプリでF1ワールドチャンピオンに輝くことになる、その人だ。その新人セナが、F1にデビューしたチームが、当時の新興チームとなるトールマンだ。

 トールマンは、翌年の1985年にイタリアの衣料メーカー「ベネトン」に買収され、ベネトンF1チームとなる。2001年にはルノーに売却され、2002年からルノーF1チームに、そして2010年には現在のオーナーであるジニーキャピタルに売却され、2011年からロータスF1チームとして参戦して現在に至っている名門チームだ。しかし、この当時のトールマンは、1981年にF2からF1に上がったばかりの(F1としては)新興チームで、その3シーズン目が1984年となる。

 当時のトールマンはお世辞にも一流とは言えないF1チームだった。ほかのチームが、ルノー、BMW、ホンダ、フェラーリなど自動車メーカーが製造するターボエンジンを搭載していたのに対し、トールマンが利用していたのはブライアン・ハートというプライベートのエンジンビルダーが作ったハート直4ターボ。自動車メーカー製のターボエンジンより非力で、今のF1チームで言ってみれば、ザウバーやフォースインディのような、上位のチームが大崩れすれば入賞することができるかもしれない、程度の実力のチームだった(しかも当時のF1は入賞は6位までだった)。

 しかし、チームには後にフェラーリのチーフデザイナーとなるロリー・バーン、現在ウィリアムズのテクニカルディレクターを務めるパット・シモンズといった才能がそろっており、徐々に上昇気流に乗っている、そういう状況だった。

 そこに加入したのがセナで、2戦目となる南アフリカグランプリでいきなり6位入賞するなど非凡なところを見せており、チームの実力アップと同時に注目を集める若手の1人となっていた。そのセナが魅せたのは、第6戦モナコグランプリ。このレースでは、徐々に雨がひどくなっていくレースで、予選13位からスタートしたセナは、雨中でありながら抜きぬくいモナコで前走車を徐々にオーバーテイク、最終的にトップを走っていたアラン・プロストに追いつき、オーバーテイクに成功した。そのまま自身にとっても、チームにとっても初めての優勝となるのかと思われた矢先に、レースは雨が強くなったという理由で赤旗中断し、そのまま終了になることがアナウンスされた。

 これにより、レースは赤旗が提示された前の周の順位で確定し、セナのオーバーテイクは無効に。1位プロスト、2位セナ、3位はステファン・ベロフ(ティレル・フォード、後にティレル・チームが車両規定違反に問われて1984年の選手権から除外されるために、幻の結果に……)という結果となった。

 優勝ではなかったとはいえ、自身にとっても、チームにとっても初めての表彰台なのに、セナは表彰台で憮然としており、運営側がフランス人のプロストを勝たせるためにレースを終了されたのだと疑っていたというエピソードはよく知られている(当時のF1の運営を行っていたFIAの前身となるFISAの会長が強引な運営で知られるフランス人だったという背景もあった……)。

 それが本当にそうだったのかは知るよしもないが、仮にそうだったとすれば、そのことは結果的に言えばプロストにはマイナスだったことも付け加えておきたい。というのも、レースはフル周回数の75%を消化せずに終了したため、ポイントは通常のハーフポイントしか与えられず、プロストは当時9点もらえた優勝の半分の4.5点のみとなった。

 この年プロストは最終戦で、チームメイトのニキ・ラウダ(現在メルセデスF1チームのノンエグゼクティブ・チェアマン)とポイント差0.5でチャンピオン争いに敗れて2位で終わっている。仮に、モナコグランプリが75%まで行き、プロストが2位の6点を獲得していれば、その年のチャンピオンはラウダではなくプロストになっていた可能性があった。因果応報と言うべきか、万事塞翁が馬というべきか、当時小学生だった筆者も雑誌でその最終戦の結果を知って、“レースは難しい”と感じたのを今でも覚えている。

 そのモナコグランプリの2位を皮切りに、セナは第10戦イギリスグランプリ、そして最終戦のポルトガルグランプリでも3位表彰台を獲得し、単なる新人から一挙にスターダムへとのし上がり、翌年は一流チームの一角を占めるロータスへ移籍、その後1988年にマクラーレン・ホンダへ移籍して以降の活躍はここで繰り返すこともないだろう。

 そうしたセナがデビューイヤーに乗っていたのが、トールマンTG184・ハート直4ターボになる。このシャシーそのものが、セナが乗っていた個体なのかは確認しようがないが、ドライバーシートには“Senna”の文字が書かれており、カーナンバーも当時セナがつけていた19だ。少なくとも外装は“セナ仕様”になっていた。エンジンはハートの文字がつけられており、当時のハートエンジンが今も動いているというのは少々驚かされる。リアウイングなどは1984年のトレンドだった小型ウイングで、その点でも非常にユニークなマシンだ。ただ、実際に走っていたエンジン音は、ちょっと音が割れているような感じで、単に音という意味ではあまり格好のよい音ではなかったが……。

 いずれにせよ、セナがあのモナコグランプリで走っていたF1マシン(ないしはその同型車)がセナが3度のチャンピオンを決めた鈴鹿サーキットを走っている、それだけでも往年のF1ファンにとっては胸アツであることは間違いなく、ピットウォークなどでも多くのファンがこのF1マシンの写真を撮っているのが印象的だった。

アイルトン・セナがF1デビューの年に乗っていたトールマンTG184・ハート直4ターボが鈴鹿サーキットのコースを走行した
ピットウォーク時にはマシンの目の前から撮影することが可能だった
エンジンカバーにはHART(ハート)の文字が……
リアウイングの前に小型のウイングがついているユニークな形状
エンジンカバーに書かれた“Senna”の文字が涙なしには見られない……

鈴鹿で初めて日本グランプリが開催された1987年に、地元ホンダ勢を下して優勝したフェラーリF187

フェラーリF187

 鈴鹿サーキットで初めて日本グランプリが開催されたのが1987年。その前年となる1986年には、ホンダがエンジンを供給していたウィリアムズがコンストラクターズタイトルを獲得し、この年からフジテレビでのF1録画中継(当時はレース終了時ぐらいから中継が始まるというスケジュールで録画中継が行われていた、一部レースは生中継)が始まり、日本でもF1がブームになる兆しがでてきている中での日本グランプリの再開となった(1970年代に富士スピードウェイで開催されていたが、その後中断していた)。

 その1987年は、ホンダがエンジンを供給していたウィリアムズ・ホンダ、ロータス・ホンダがシーズンを席巻しており、ウィリアムズがコンストラクターズタイトルを獲得し、ドライバータイトルは、ウィリアムズ・ホンダのネルソン・ピケかナイジェル・マンセルの2人に絞られた状態で、日本グランプリはホンダが地元鈴鹿に凱旋するというレースになっていた。

 そのホンダ凱旋ムードに水を差したのが、フェラーリF187・フェラーリV6ターボを操るゲルハルト・ベルガーだった。ベルガーは予選でポールポジションを獲得すると、レースでも危なげなく独走し、そのまま優勝してホンダの凱旋レースでの優勝を阻止したのであった。対するホンダ勢は、チャンピオンを争うマンセルが練習走行でS字でクラッシュしてそのまま入院して脱落(同時にチャンピオン争いからも脱落)、マンセルの脱落により1987年のチャンピオンを獲得したピケもやる気を失ったのか精彩を欠いてリタイア、ロータス・ホンダのセナが2位、中嶋悟が6位に入ったのが精一杯で、さすがフェラーリという印象を日本のレースファンに与えた日本グランプリになった。

 今回登場したフェラーリF189はGPスクエアにも展示されており、ユーザーはより近くまでいって見ることができたほか、模擬レースなどでは元F1ドライバー中野信治選手のドライブで実走しており、低音が響くターボエンジン独特のサウンドをサーキットに響かせていた。

鈴鹿サーキットを疾走するフェラーリF187・フェラーリV6ターボ、ドライバーは中野信治選手
実走前には、GPスクエアに展示されていた

1989年、90年、93年型のベネトンとホンダ RA301も走行

 先ほど紹介したトールマンの後継チームとなるベネトンF1チームの車両は、1989年のベネトンB189・フォードV8、1990年のベネトンB190・フォードV8、1993年のベネトンB193・フォードV8の3台が登場した。

 ベネトンB189・フォードV8は、アレッサンドロ・ナニーニのドライブで1989年の日本グランプリで優勝を飾っている。実はこのレース、セナ・プロ対決が頂点に達したレースとなっていた。レース途中のシケインで、マクラーレン・ホンダに乗る両者は接触、プロストはその場でリタイアし、セナはオフィシャルに押しがけしてもらう形でリスタートし、シケインをショートカットしてレースに復帰。壊れたウイングをピットで直してピットアウトすると、トップにたっていたベネトンのナニーニをレース終盤にオーバーテイクし、そのまま優勝した。しかし、レース後表彰台前に行われた裁定の結果、セナはシケイン不通過を理由に失格となり、ナニーニが勝者になった。ナニーニはこのレースが初優勝で、かつ最後の優勝となった。

 その翌年、2000年のマシンとなるベネトンB190・フォードV8は、同じく2000年の日本グランプリの優勝車だ。このレースの前まで、ベネトンのドライバーラインアップは、昨年日本グランプリに優勝したナニーニと、1981年、83年そして87年のチャンピオンであるピケのコンビだった。しかし、日本グランプリの直前にナニーニはヘリコプターの墜落事故で重傷を負い、レースには出場できなくなってしまった。そこで急遽、ピケの後輩のブラジル人ロベルト・モレノが招集され、日本グランプリを走ることになった。そのレースで、優勝候補の筆頭だったポールのセナと予選2位のプロストは1コーナーで接触してリタイア、それぞれのチームメイトとなるベルガーとマンセルもリタイヤすると、ベネトンのコンビが1-2を走る展開となり、そのままピケ、モレノの順で1-2フィニッシュを飾ったのだった。なお、3位にはラルース・ランボルギーニの鈴木亜久里が入り日本人初の表彰台を獲得したのも記憶深いレースだったと言えるだろう。

 そのベネトンに1991年に加入したミハエル・シューマッハが、1993年にドライブしたマシンがベネトンB193・フォードV8。第14戦ポルトガルグランプリで優勝(この時点で2勝目)を飾っており、この年はドライバーランキング3位になっている。極端に引き上げられたノーズが特徴で、当時バナナノーズと呼ばれていた。

 SUZUKA Sound of ENGINE 2015では、これらの車両が練習走行として走行した他、午後には模擬レースの形で、これまで紹介してきた5台が一斉に走るというイベントが行われた。ドライバーはフェラーリを中野選手がドライブしたほかは、主に車両のオーナーで、どちらかと言えばパレードラップという趣だったが、それでも時代が微妙に異なるマシンが一斉に走るというシーンは中々興味深いものだった。

 模擬レースとは別に行われたセッションでは、ホンダ RA301も走った。ホンダRA301は、第1期ホンダF1時代のF1マシンで、1968年の第1期F1最後の年のマシンとなった。当時のドライバーはジョン・サーティース(2輪、4輪の両方で世界チャンピオンになった唯一のライダー/ドライバー)で、何度か首位を走ったものの、優勝はなく終わった。このRA301は、フェラーリと同じく中野信治選手のドライブで、第1世代のホンダレーシングエンジンのサウンドをサーキットに響かせていた。

左の1990年型のベネトンB190とカラーが同じだが、右の1989年型B189はエンジンのエアインテークがコックピット脇のサイドポンツーンの上にあるのが特徴
1989年の日本グランプリで優勝したベネトンB189・フォードV8
1990年の日本グランプリで優勝したベネトンB190・フォードV8
バナナノーズが特徴的なベネトンB193・フォードV8
5台のF1カーが一斉に走る模擬レースが行われた。年代の異なるF1カーが一斉に走るというのもなかなか興味深い
ホンダ RA301、背の高いリアウイングが特徴的なデザイン

(笠原一輝/Photo:奥川浩彦)