自動車研究家“山本シンヤ”が聞いた「MORIZOがニュル24時間へ挑む理由」
第10回:モータースポーツが「プロモーションの場」となってしまったトヨタ、そこからの脱却
2025年11月28日 00:00
豊田章男氏は、成瀬氏に誘われて「ニュルブルクリンク24時間耐久レース」へ参戦を決意したが、その目的は何だったのか? それは「クルマづくりの原点に戻る」だった。
トヨタ自動車の起源は、1933年に豊田喜一郎が豊田自動織機内に設立した「自動車部」である。いわば社内ベンチャーのような存在と言っていいだろう。クルマづくりの正解が分からない時代、先人は「トライ&エラー」によって技術や経験、ノウハウを構築していった。それを実証するためには? ライバルと競い合うことだった。豊田喜一郎の絶筆「オートレースと国際自動車工業」には、このような記述が残されている。
「これから乗用車製造をものにせねばならない日本の自動車製造事業にとって、耐久性や性能試験のため、オートレースにおいて、その自動車の性能のありったけを発揮してみて、その優劣を争うことに改良進歩が行なわれ、モーターファンの興味を沸かすのである……。単なる興味本位のレースではなく、日本の自動車製造業の発達に、必要欠くべからずものである」
要するにこういうことだ。モータースポーツの世界では、クルマは限界に近い走行を連続して行なうため、通常走行では発生しない様々なトラブルや問題が発生する。それに対処することでクルマのレベルは大きく引き上げられた。恐らく日本の主要自動車メーカーは全てが同じ考えを持っており、積極的にモータースポーツに参戦し、その実力をアピールした。ホンダの創業者・本田宗一郎氏の「レースは走る実験室」の言葉は有名だが、それはどの自動車メーカーも共通キーワードだったのである。
そんなトヨタの初のモータースポーツ参戦はラリーだった。1957年に走行全距離1万マイルという世界最長の自動車競技で、当時最も過酷と言われた「豪州1周モービルガス・ラリー」に、トヨペット・クラウンで参戦。当時は日本とオーストラリアとの国交が再開されたばかりで、このラリーは日豪親善民間外交の一端も担っていた。
参加台数102台中50台がリタイアという過酷なステージながらも完走を遂げたが、実は車両点検から修理に至るまで全部を選手(トヨタ自販サービス部:近藤幸次郎/東京トヨペット;神之村邦夫)が行ない、トヨタの技術を世界的に証明した。
一方、初のサーキットレースは1963年に鈴鹿サーキットで行われた「国際公認 第1回日本グランプリ自動車レースだ。国内外の車両が参加する中、トヨタは出場全種目を制覇(1600~2000ccクラス:トヨペット・クラウン、1300~1600ccクラス:トヨペット・コロナ、400~700ccクラス:トヨタ・パブリカ)し、トヨタ車の高性能を立証している。
当時はモータースポーツで勝つ→ユーザーから信頼を勝ち取る→性能のいいクルマだと認めてもらえる→販売増につながる……という方程式が存在した。そのため、日本の自動車メーカーはどこも積極的にモータースポーツ参戦を行なった。若い人は信じられないかもしれないが、現在商用車メーカーである日野やいすゞも……だ。
しかし、1970年代の排ガス規制・オイルショックなどの影響が飛び火し、自動車メーカーのモータースポーツ参戦は一旦断ち切られてしまった。その流れが戻り始めたのは1980年代で、排ガス規制を乗り切った自動車メーカーはこれまでの鬱憤を晴らすべく高性能化の道を辿り始めた。トヨタのル・マン24時間参戦もこのころがスタートだった。
もちろん、現場で働く人は自分達が作り上げた技術を試す場という認識だったと思うが、コーポレートとしてのモータースポーツ参戦のスタンスは「走る実験室」から「プロモーションの場」に変わってしまった。その結果、モータースポーツ車両と量産車は完全に別物と言われるようになり、技術の交流どころか量産車とのつながりも完全に途切れてしまった。
ちなみに2000年前半のトヨタのモータースポーツ活動はF1に全振りで、社内では「他のカテゴリーは全て撤退すべき」という議論も上がっていたそうだ。
そんな状況に「ちょっと待った!」を掛けたのが、豊田氏と成瀬氏だった。豊田氏は「ニュルの活動は“裏番組”としてスタートした」と振り返るが、本音を言えば“ゲリラ的”なスタートだった。それが故にトヨタの名を使うことが許されなかった。そこで、かつて豊田氏が業務改善室 室長時代に立ち上げたGAZOOの名を使い、「GAZOO Racing」と名乗ったのである。
ちなみにこの参戦はレースに出ていながらも「勝ち負けは二の次」だった。その理由はニュルという過酷なコースで行なわれる24時間の過酷なレースを通じて人とクルマを鍛え、そこで得た知見やノウハウをもっといいクルマづくりにフィードバックさせることが目的だからだ。要するにモータースポーツを量産車開発に活用……ズバリ、クルマづくりの原点に戻るべしと考えたのだ。
成瀬氏は以前から、「技術を伝承し、人材を育成する場としてレースは最高の舞台」だと語っていたが、実践で鍛えることが「もっといいクルマづくり」の一番の近道と考えていたが、それを行動で示したのだ。
そのためドライバーはプロだけでなくトヨタの評価ドライバーが担当。これはテクニックが優れるだけでなく、自ら運転してクルマの状態を感じ、自らの手で直し、よくしていく。つまり、成瀬氏のように“クルマ全体が解る人材を増やすための「究極の人材育成」でもあった。ただ、彼らはクルマづくりのプロではあったものの、レースに関してはそのイロハも解らないド素人集団であった……。






