自動車研究家“山本シンヤ”が聞いた「MORIZOがニュル24時間へ挑む理由」

第21回:トヨタの人材育成と乗り味磨きの原点である成瀬弘氏の突然の訃報が、窮地に立たされたモリゾウ氏を奮い立たせた

2010年6月24日。皮肉にもモリゾウ(豊田章男)氏がトヨタ自動車の新社長として初めて議長席に座る定時株主総会の朝、恩師である成瀬弘氏の訃報が届いた……。今でもニュル24時間レースでは毎年ピットに遺影が飾られる

 2010年6月24日、明け方。その日は、前年に社長へ就任した豊田章男氏にとって、社長として初めて議長席に座る定時株主総会の朝だった。前年末から吹き荒れた大規模リコール問題、米議会公聴会での証言を経て、株主からの厳しい追及が予想される、まさに社運と自らの進退を背負って臨む極限の1日。その張り詰めた空気の中、1本の電話が届いた。

「成瀬さんが、事故に遭われた……」

 最初は誰もが耳を疑った。

「何かの間違いではないか?」

「同姓同名の別人ではないのか?」

 しかし、それは覆しようのない現実だった……。

 現地時間6月23日午後、ドイツ・ニュルブルクリンク近郊の公道。成瀬弘氏が自ら心血を注ぎ込んで開発を進めていたレクサスLFAの特別モデル「ニュルブルクリンクパッケージ」のテスト車両のステアリングを握り、評価走行を行なっていた最中に対向車と衝突。そのまま帰らぬ人となったのだ。

 胸をえぐられるような衝撃と悲痛を押し殺し、モリゾウこと豊田社長は何千人もの株主が待つ総会の議長席へと向かった。

 その日の13時11分にアップされたGAZOO.comの「モリゾウのドライバー挑戦記」に、「成瀬さん」と言うタイトルの記事が掲載された。そこには飾らない言葉で書かれた、1人の男としての悲しみ、そして未来へ向けた決意が刻まれていた。


 成瀬さんが亡くなられました。

 あまりに突然の訃報に、言葉もありません。

 ドイツで、ニュルで、LFAで……。成瀬さんは聖地に還っていかれました。

 成瀬さんとの出会い、成瀬さんの言葉、成瀬さんの走り……、色んなことが、ついこの間の出来事のように思い出されます。

 こういう悲しいことが起きてしまい、いまだに信じられませんが、私たちの「いいクルマづくり」が止まることはありません。

 トヨタは人材の育成が遅れてきたと反省する中、成瀬さんは全身で、後輩の育成に努められてきました。この流れを止めてはいけない。

 成瀬さんの思いを……、

 成瀬さんがつけてくれた道筋を……、

 残された私たちがしっかりと引き継ぎ、確かなものにしていきます。

 成瀬さんの魂は、モリゾウの心の中でいつまでも息づいています。

「もっといいクルマ」をつくります。

 成瀬さん。

 ありがとう。

 そして、さようなら。

 でも、やっぱり悲しい……。

 ご冥福を心からお祈りします。


当時ニュルブルクリンクで後輩の育成に勤しんでいた成瀬氏。誰よりも後塵の育成に熱心だった

 ブログのコメント欄には何千件ものファンの声が殺到した。

「数値ではなく、“味”が分かる人を失った」

「味づくりの旅を止めないで」

「成瀬さんの弟子であるモリゾウさん、あなたが役目を果たしてください」。

 悲しみに暮れる画面の向こうには、成瀬弘氏という職人が遺した大きな足跡と、モリゾウに未来を託すファンの切実な祈りが渦巻いていた。

 成瀬氏の告別式は6月29日、愛知県豊田市内でしめやかに営まれた。祭壇の前に置かれた棺の中の成瀬氏は、どこか安らかに眠っているようでもあった。挨拶の席で章男氏は言葉を詰まらせながら、こう語った。

「成瀬さんと私の関係は、単なる上司と部下といった関係ではなく、時には親父と息子、時には師匠と弟子、時には幼いころからの親友、そしてそのどれもが、お互い大好きなクルマを介してのお付き合いでした。かけがえのない宝を失ってしまった……」

 かつて、まだ役員になりたてだった章男氏に対して、「運転のことも分からない人に、クルマのことをああだこうだ言われたくない。でも月に1度でもいいから、俺が運転を教えるよ」と言い放ったのが成瀬氏だった。

ニュルブルクリンクでドライビングレッスンを受けていたころの2人

 そこから2人の運転訓練の二人三脚が始まり、章男氏がニュル24時間レースに挑戦する原点をつくったのも成瀬氏だった。

 そして“味づくり”の旅をスタートさせたのも成瀬氏だった。

 誰にでも遠慮のないストレートな物言いで、時には経営陣にも鋭く切り込むこともあったのも成瀬氏だった。

 その根底には、誰よりも深く、愚直なまでの「クルマへの愛」があった。

 大黒柱を失った代償はあまりにも大きすぎた。誰もが深い悲しみと無力感に打ちひしがれ、立ち止まりそうになっていた。

 告別式の場で章男氏はニュルでの活動の解散宣言を行なった。しかし、こうも語った。

「やりたいと思う奴だけでいい、ついてきてほしい……」

 成瀬氏が命を懸けて教えてくれた「道が人を鍛え、人がクルマをつくる」という教え。成瀬氏が遺してくれた情熱の火を、絶対に消すわけにはいかない。章男氏の呼びかけに呼応するように、仲間たちが1人、また1人と再び集まってきた。

 成瀬氏の事故から約3か月が過ぎた2010年10月上旬、モリゾウは再びニュルブルクリンクの地へ降り立った。自他共に認める「晴れ男」として知られるモリゾウ。彼が訪れるサーキットは、どんな悪天候の予報であっても青空が広がるのが常だった。

 しかし、この日ばかりは違っていた。アイフェルの空は鉛色に重く垂れ込め、冷たい雨が容赦なく緑の地獄を濡らしていた。それはまるで、あまりに早く逝ってしまった巨星を惜しむ天の涙雨のようでもあった。

 その冷たい雨の中で行なわれたのは、レクサスLFAの「ノーマル」と「ニュルパッケージ」の2台の比較試乗だった。

 ドライ路面でさえアクセルを踏み込むことが極めて困難な、世界一過酷なコース。モリゾウは、「モリゾウのドライバー挑戦記」の「ニュルでの祈り」の記事(2010年10月8日公開)内で、このように振り返っている。

「ウエットなうえに、成瀬さんのいないニュルを走るのも初めてでした」。

 章男氏は最初の2周は雨の路面と対話しながら慎重に走ったが、次第に成瀬氏と一緒に走った日々の記憶が胸に去来した。

「これも、10年以上成瀬さんに走り方を指導してもらったおかげと、今更ながら感謝です」

 師の教えを身体に蘇らせながら、モリゾウは2台のテスト走行を無事に完遂した。

 その際、チームの仲間の提案によって師への鎮魂と誓いの儀式が行なわれた。ニュルのガレージとサーキットの目立たない場所にそっと無洗米を撒いて清め、事故現場のすぐ近くには、仲間たちの手で2本の桜の苗木が植樹された。「日本の桜」と「ドイツの桜」である。

成瀬氏が事故に遭ったコーナー近くに植えられた2本の桜の木

「今できる精一杯の供養ですが、今シーズン中にニュルに来ることができてよかったと思います。成瀬さん、空からいつまでも我々を見守っていてください」

 雨煙るニュルで捧げられたその祈りは、立ち止まりかけたチームが完全に前を向くための、決定的な通過儀礼となった。

 毎年ニュル24時間レースに挑む前と後には、モリゾウはもちろんチームスタッフ全員がこの桜の木の下を訪れ、静かに手を合わせる。それは、クルマづくりの原点であり、師への誓いを新たにする場所となったのだ。

2026年にはこんなに大きく育っている

 そして再び立ち上がったこのチームは、やがて2015年、正式な社内組織として結実する。

 それが「凄腕技能養成部」である。

 成瀬氏が育てようとしていた「できる(再現できる)・分かる(限界の挙動を感じ取れる)・言える(開発エンジニアに言葉で処方箋を出せる)」評価ドライバー。その哲学を若い世代へ愚直に伝承し、成瀬氏から継承されたマスタードライバー・豊田章男氏が目指す「トヨタの味」を共有する職人集団として、“凄腕”は世界中の過酷な道で今も走り続けている。

 筆者は外部の人間として生前最後のインタビューを行なった2010年4月、成瀬氏は大好きな紅茶を飲みながら笑顔でこう語っていた。

「クルマ好きのみんなが楽しめるクルマを、どうしても届けたいんだ」

 運命の株主総会の朝、ブログに刻んだ誓い、そして解散の危機を乗り越えて受け継がれたバトン……。今、トヨタが世界に送り出すクルマの走りの“味”の根底は、あのとき涙を拭って章男氏の元に再び集まった男たちと、空の上から今も厳しい目で見守り続けている成瀬氏の魂が息づいている。

誰よりもクルマという乗り物を愛していた成瀬氏
山本シンヤ

東京工科自動車大学校・自動車研究科卒業。自動車メーカーの商品企画、チューニングパーツメーカーの開発を経て、いくつかの自動車雑誌を手掛けた後、2013年にフリーランスへと転身。元エンジニア、元編集者の経験を活かし、造り手と使い手の両方の気持ちを分かりやすく上手に伝えることをモットーにしつつ、クルマの評論だけでなく経済からモータースポーツまで語れる「自動車研究家」として活動中。日本カー・オブ・ザ・イヤー選考委員、ワールド・カー・アワード選考委員、日本自動車ジャーナリスト協会会員。YouTubeチャンネル「自動車研究家 山本シンヤの現地現物」も運営中。