ニュース

【インタビュー】MotoGPで走り続けた14年。ブリヂストン 山田宏氏と青木信治氏に聞く

MotoGP向けタイヤの開発、供給を担当したブリヂストンの2人にインタビュー

 2015年11月のMotoGP世界選手権最終戦の終了をもって、2001年からタイヤを供給してきたブリヂストンのオートバイレース最高峰へのチャレンジは幕を閉じた。2008年までは他のタイヤメーカーとも競合していたが、2009年からはブリヂストンワンメイクの元、トータルで1年間のテストと14年間の本格参戦を続けてきた同社。総責任者である山田宏氏と、タイヤの開発・設計を担当する青木信治氏の2人がこれまでを振り返り、今の心境、そして今後に向けた活動について語ってくれた。

「タイヤがパラパラ降ってきた」ムジェロのトラブル。山田氏は最悪を想定し、数パターンのリリースを作った

株式会社ブリヂストン グローバルモータースポーツ推進部 グローバルモータースポーツ推進ユニット 課長 山田宏氏

──2015年のレースが終わりました。14年間参戦し続けてきて、シーズン最終戦を終えた瞬間の気持ち、そして、そこから1カ月経った今の心境をお聞かせいただけますか。

山田氏:2014年のスペイングランプリで、2015年一杯でMotoGPへのタイヤ供給を終了することを発表しました。今シーズンは最初からいいレースが続いて盛り上がって、途中からもう今年で終わりなんだな、という気持ちはありながらも、やっぱり最後までしっかりやんなくちゃっていう緊張感がありました。だから、意外と最後まで感傷的な気持ちにはならなかった。関係者やジャーナリストらまわりの人たちが「最終戦が終わったら山田さんは泣くぞ」と言っていたんだけども(笑)、涙は出なかったし、ほっとしたというのが素直な気持ちですかね。

 終わって1カ月経った今、(タイヤ供給を)続けられなかったことは残念だな、と思う気持ちはあります。最初から最後までこのプロジェクトに携わったのは結局私1人になっちゃったけれども、これまで社内にはいろんな形で関わった人がいるし、工場にはタイヤを作ってくれた人たちがいて、すごく大きな仕事をみんなのおかげででき、歴史に刻めたかなという思いがあります。続けられなかった寂しさもあるけれど、個人的には非常にいい仕事をさせてもらった、という気持ちが大きいですね。

青木氏:最終戦の時、感傷的になるのかなと思っていたら、やっぱり山田と同じように特に何もなかった(笑)。我々は技術スタッフとしてレースをきちんとやるという仕事があるので、普段の仕事と同じようにやっていたから、「これで終わりなのかな」という実感があまりなかったのが正直なところですね。

 今になると、いろんな方々にご挨拶する場が多々あって、ようやく終わったんだという実感が少しずつ出てきています。(続けられなくて)残念だなあというのがようやく身に染みてきた。MotoGPは技術的に非常に高いところでやっていて、そこでお客様(チームやライダー)の喜ぶものを提供しなければ、というのがプレッシャーになっていたんですけど、「ああ、もうそのプレッシャーがなくなるんだな」と、ちょっとほっとした気持ちもあります。

株式会社ブリヂストン MCタイヤ開発部 設計第3ユニットリーダー 青木信治氏

──14年の間で、最も印象に残ったことはどんなことでしょうか。よかったことやうれしかったこと、逆にそうでなかったことがあれば。

山田氏:一番は(他メーカーのタイヤも使われていたコンペ時代の)2007年の日本グランプリで、初めて年間タイトルを決めた時ですね。あの時はもう、自然に涙が止まらなかった。さっき言ったように、一生懸命やってくれた人たちが、月並みだけれど走馬燈のように巡ってきた。みんなでタイトルのためにやってきたんでね。

 わるかったことといえば、やはりトラブルを起こした2004年のムジェロ(※)、あれが一番苦しかった。ただ逆に、あの出来事があったからこそ会社としても、技術面でも、我々は強くなれたのかなと思います。でも、その時は本当に苦しかったですね。

※2004年イタリア・ムジェロサーキットでの決勝レース中、中野真矢選手の乗るKAWASAKI ZX-RRが300km/h以上でホームストレートを駆け抜けている最中に、突然リアタイヤが故障して中野選手は転倒。ホームストレート上を滑走したが、幸いにも大きなケガはなかった。後にタイヤの耐久性に問題があることが発覚し、ブリヂストンはすぐに改良を施した。

青木氏:そのタイヤトラブルが起きた時、自分は技術スタッフとして現地にいたんですけども、とにかくブリヂストンの内(国内技術センター)と外(イタリア・ムジェロ)で、トラブル直後は毎日真夜中に電話をしていました。それが非常に苦しかった。そんななか、同じ年のブラジルで玉田君が勝ってくれた時(※)にはもう、さすがにあれは感動を覚えて、本当に震える感じがして、涙が出てきました。でも、僕はどちらかというと年間チャンピオンを獲った時はあまり(笑)。

※2004年のブラジル・リオGPで、ブリヂストンタイヤを装着するCamel Hondaの玉田誠選手がMotoGP初優勝を飾り、これがブリヂストンとしても初勝利を成し遂げた瞬間だった。玉田選手は、ブリヂストンのMotoGP参戦直後となる2003年から2004年まで、いち早く契約ライダーとして参戦し、ブリヂストンのMotoGPチャレンジ初期の開発を支えた。

──そのトラブルの時、具体的には何があったのでしょうか。

山田氏:私は、あの時はちょうどピットレーンに出て見ていました。300m先くらいで転倒していて、見たらタイヤの破片が一杯路面にある状態。だけど、一瞬何が起こったのか理解できなかった。何十秒か、頭が真っ白になった感じで。タイヤのトラブルだと分かってからは、他のライダーにも同じ現象が出るかもしれないので、全チームに(レースを)やめた方がいいんじゃないかと話をしました。

 しかも、翌週が(スペイン・バルセロナの)カタルニアGPだったので、そこに向けてどうするかも問題でした。青木が言ったように、開発の人たちが寝ずに工場でタイヤを作り、そのタイヤを確認する試験をやった。ムジェロには当時の開発本部長が来てくれていて、一緒にトラブルを起こしたタイヤを持って飛行機に乗り、成田に着いてすぐここ(東京・小平にある東京工場・技術センター)へ来た。もうみんなが待っている状態だったんですけど、そこから何日間かは開発の人は本当に大変だったと思うし、私の方は次のカタルニアGPの対応をどうしたらいいのか検討していました。

 幸いにもライダーに大きなケガがなかったのが(レースを)続けられた理由なんですけども。ただ、次のレースが1週間後でしたから、いくら改良したといっても、本当にチームやライダーが信頼してくれるのか。これではとてもレースなんかできません、と言われても仕方がないので、そういう時のための準備としてプレスリリースを準備したりとか。

──それは出すことのなかったプレスリリースなんですね。

山田氏:なかった。幸運にもなかった。ライダー全員がもしレースに出なかったらどういう風にリリースを書くか、1台だけ出場しなかった時はどう書くか、と3パターンくらい広報と一緒に作りましたね。それでまたスペインに行って、木曜日にチームに対して「こういう状況で、こういうタイヤを作ってきたから安全です」という話を、データを交えて説明した。それでみんな「レースしましょう」と言ってくれたので安心しました。まあ、その1週間はみんな大変な思いをしましたね。

──トラブルが起きた瞬間というのは、タイヤに何があったのか、というのが直感的に分かったのでしょうか。

山田氏:まあちょっと分からなかったですね、はっきり言って。タイヤが壊れたという事実だけは確認できて、原因はすぐには分からなかったですよね。

青木氏:その場にいた私の記憶では、本当に大きな音がしたんですね。ボンッと。その数秒後に、なにかの破片が落ちてくるんですよ。

山田氏:俺は覚えてないなあ。

青木氏:覚えてないですか。みんな爆発したってはじめ言っていて、タイヤか何か分からないけども、ゴムらしきものがパラパラと降ってきた時に、あっ、これはタイヤだなと思って、そのまま山田がみんなのところに行って「止めましょう」と。

──レース自体はその後も続行されましたよね。

青木氏:続行されたんですけど、たまたま雨が降ってストップしたんです。不幸中の幸いですね、あれも。

──その2004年のトラブルが最も苦労したところじゃないかとは思いますが、全般的にMotoGPタイヤの開発、供給をしていくうえで、それぞれの立場で難しかったのはどんなところでしょうか。

山田氏:コンペで入っていった(参戦を決めた)時ですね。当時はミシュランが席巻していた状況で、技術的にもかなり高いものがあると分かっていたんでね、交渉して、最初に一緒にやってくれる(タイヤを採用してくれる)チームを見つけるのが一番苦労しましたね。(レースにおいて)タイヤの影響ってすごく大きいというのがみんな分かっていますから。各チームすごいお金を投入していますし、結果が出ないタイヤはお金をもらっても使えないと言われます。しかし、いいチーム、いいライダーがいないと勝てないから(タイヤの性能を)実証できない。

青木氏:技術の立場から言えば、2004年にトラブルを起こした原因の1つでもあるんですが、2ストロークから4ストロークに切り替わって排気量が500ccから990ccになった時。その時に、我々もかなりタイヤにかかる入力(負荷)が上がると想定していたんですけども、結局我々の想定以上に上がっていた。990ccから800cc、1000ccと何度か変わっていますけど、この10年間で速度が上がり、タイムが上がり、タイヤにかかる入力がものすごく上がってきているんですね。

 これにタイヤが追いついていかなきゃいけない。データをもらって来年はこれくらいタイム上がる(想定だ)から、耐久性はこのへんにしなきゃいけない、という、バイクといたちごっこで追いついていかなければならない。そこで安全なものをきちんと出すというのが一番難しかったですね。

 スーパーバイク(1000ccクラスのバイクで争われる全日本ロードレース選手権、JSB1000)も僕は担当していますけども、初めはスーパーバイクのちょっと上くらいと考えていたのが、終わってみると、もう2倍から3倍くらいタイヤの入力が違う。ただ、そこを知ることができたので、他のカテゴリーにもいろんなことができるようになって、技術的には上がったかなと思いますね。

──(市販車ベースの)スーパーバイクと比べると、MotoGPの方が車重は軽いわけですよね。それでもタイヤの負荷はMotoGPの方が大きいんですか。

青木氏:まず出力が一番違いますね。あと(電子的な車両)制御がスーパーバイクはMotoGPと大きく異なり、車体を起こしてから開けるのがスーパーバイク的な走りなんです。MotoGPは今はもう制御がものすごく高度で、キャンバー角60度みたいなところからいわゆるドライブフォースをかけられるようになってきている。とにかくタイヤの寝ているところの耐久性っていうのは、スーパーバイクと比べると倍以上違いますね。

タイヤ開発で青木氏が惚れ込んだライダーとは

──ところで、シーズン中の仕事の進め方は実際のところどんな流れだったのでしょうか。例えばレースが終わった後、次のレースに向けての準備、プラクティス、予選、決勝という1~2週間の中でやっているルーチンワークやイレギュラー対応というのは?

安全に走れることを重視してチームを指揮したという山田氏

山田氏:ワンメイクになってからは、毎年少しずつスペックを変えたりとかしているんですけども、基本的には前のシーズンの結果で、このサーキットには今年はこのスペックを持って行きましょう、というのを決める。あとはこっち(小平)が全部作ってくれて、生産計画も全部立ててくれて、そのタイヤを船で送る。私の方はしっかりした運営をするのが一番で、ドイツにいる十数人のスタッフと連携して確実なサービスを提供する、という仕事ですね。

 レース中はチームから各サーキットで何かしら要望が出てくることがあります。だいたい金曜日にライダーを集めてサーキットの安全上の確認などを行なうセーフティコミッションを開いて、その時にタイヤの話が出ることもある。そうすると私のところへ「こういう要望が(チームやライダーから)あるよ」という話を受けたりもする。そういう時は開発スタッフと話し合うこともありますね。

 具体的には、気温を想定して持って行っても、すごく寒かったり暑かったりとかして、もっと柔らかいタイヤや、もっと硬いタイヤが欲しいとかですね。舗装が一部張り替えられた時だと、このタイヤじゃ全然もたないよ、という話もある。その場で解決できることじゃないので、それは次の年なり、後半のレースなりに活かしていって、なるべく多くのユーザーに満足してもらって、安全にレースできるように考えています。

青木氏:コンペ時代とワンメイク以降とで違っているところもありますが、共通しているのは、いくつかスペック違いのタイヤを現場に持って行くので、最終的にどのタイヤでレースしてもらうか、どれが一番ベストかを選ぶために、我々は使用済みのタイヤを毎日現場で切るんです。切って、本当に中に故障が何もないか、どれくらいゴムが使われているかを、6、7人でチェックする。夕方からそういう作業を始めて、安全性を確認したら、次の日はじゃあこのスペックでいきましょう、と。で、決勝レースの前にはなるべくロング(ラン)をしたタイヤを確認する。

 以前のコンペの時は、決勝レースが終わったらすぐにそのタイヤを全部現場で切るんですね。問題があったかなかったか、その判断を元に、翌々週のレースかその次のレースで、必要に応じてタイヤの仕様を変える。時差があるので現地の夜、日本の朝を待って、データやレポートとともに指示を送る。タイヤの仕様を変えられるタイミングを見計らって、時差があるなかで日本と密に連絡を取り合いながら、非常にスピーディに仕事を進めなければならないという点は大変でしたね。

 MotoGPはちょっと特殊で、(2009年に)ワンメイクになってから事前テストがないんですよ。JSBなどの国内レースではだいたい事前テストがあって、そこで決めたものを持って行きます。だから短期間でタイヤを作って運ばなければいけないんですけども、MotoGPの場合は(基本的にそのサーキットで)1年に1回しか開催されないので、昨年のデータを全部洗って、翌年のスペックをなるべく早く決めて船便で送ります。1年前のデータと、1年前から今年どれくらいタイム上がるか、というシミュレーションをして、その結果からどのスペックのタイヤを持って行くかを、今のウインターシーズンとか発送する前までに決めるんです。

──ワンメイクとはいえ、ライダーによってはタイヤの好みが違っていることもあったんじゃないでしょうか。一般的にはどんなタイヤが好まれて、どんな性能がライダーから要求されるものなのでしょうか。

山田氏:レースタイヤ全般がそうだと思うんですけど、やっぱり「高いグリップが持続すること」が、時代が変わっても変化のない要望です。あとは滑った時のコントロール性と、ハンドリングの良し悪し、旋回性の良し悪し、それが全てという感じですね。

──それとは異なる好みのライダーもいましたか?

山田氏:ライダーによってもそうだし、マシンによっても違うというのはありますね。ただ、ワンメイクではタイヤに合わせてマシンを作ることを、各メーカーが一生懸命やっています。タイヤの性能を100%活かせるマシンを作れるかどうか、ライダーもそういう乗り方ができるかどうかが競争ですから。

青木氏:今はワンメイクなのでタイヤに合わせてください、ということなんですけど、反対にコンペの時は我々がライダーやチームに合わせるんですね。特に(コンペ時代の)2007年、2008年は、全員違うスペックなんです。バイクごとの差ももちろんあるんですが、結局はライダーの好き嫌いの方が大きくて、ライダーごとのスペックの好き嫌いに個別に対応したんです。タイヤの形状や構造について、ライダーに「これが好きだ、これじゃないと走れない」と言われると、そのスペックのコンパウンド違いを準備するとか。すごい数でしたね。

──そうやって要求してきたなかで、一番わがままなライダーは?

山田氏:コンペの時はみんな(笑)。

青木氏:そう、みんなワガママですけどね、僕からすれば(笑)。ただ、ワガママというか、はっきり自分の意志を伝えられるライダーはやっぱり速かったですね。要は他人の意見に流されない人。我々は平等にやろうということで、尋ねられたら「誰がどのスペックをはいているよ」というのも教えるんですよ。そこで走り比べて、「おれはこっちだ」と決められるライダーは速かったです。バレンティーノ(・ロッシ)、ケーシー(・ストーナー)、ロリス(・カピロッシ)とか。

 ただ、そういうトップライダーに流されるライダーもいる。その人たちは自分で決められなくて、じゃあバレンティーノがはいてるから俺もそれでいいよ、とか。このへんはやっぱり一流と二流の差かな、っていうのは感じましたね。

──ではそれに関連して、お2人にとっての「いいライダー」の条件とはなんでしょうか。これは「タイヤ開発に向いているライダー」と言い換えてもいいかもしれませんが。

青木氏:我々はタイヤの設計をしているので、評価がクリアじゃないと前に進めないんですね。もちろん勝つライダーは大好きですけど、それ以上に、テストした時に自分でジャッジできるライダーが大好き。バレンティーノはそれがたまたま両方ともできる。けれど、例えば(マルク・)マルケスとかの若いライダーだと、まだ自分ではっきりジャッジできない。

 両方とも速くて評価もできるバレンティーノみたいなライダーもいれば、反対に遅いんだけど評価ができるっていう人も実はいて。まあ遅くはないんだけど(笑)、印象深いのは、ランディ・ド・プニエ(※)というライダーなんです。タイヤの評価をした時に、彼だけは「このゴムが絶対いいよ」とずっと言っていたんですね。初めは彼1人が言っていたのが、何回もテストしていくと、みんなが「いろんなところで走るとこれがやっぱりいいよね」って。結局そのゴムが、我々がコンペの時に勝ったベースのゴムになっているんです。それを一番初めに見つけたのがランディ・ド・プニエという。

※2006年から2013年までMotoGPに参戦、2014年はスズキのMotoGPマシンのテストライダーを務めた。2015年はワールドスーパーバイク選手権(WSBK)に出場している。

山田氏:あ、そうなの。記憶にないなあ(笑)。

青木氏はランディ・ド・プニエ選手の能力の高さに驚嘆した

青木氏:何が違うかっていうと、例えば新しいタイヤを渡した時に、言い方はわるいですが、おじさんになってくると探りながら走っちゃうんですよ、信じてないから。ランディの場合は、「おお、じゃあ俺、行く」って言って、限界からスタートしてくれるんですね。まあたまにコケちゃうんですけど(笑)。

山田氏:たまにじゃないかもね(笑)。

青木氏:でも、そういう限界まで見てくれる、評価がきちんとできる代表的なライダーがランディというのは、この十何年間変わらないですね。

山田氏:いま青木が言ったようにクリアに評価できる人、サスペンションを変えたりしていくなかで、これはタイヤの差だとか、そういうことまでクリアに言えるライダーがタイヤ開発には適していますよね。そういう意味ではやっぱりバレンティーノはすごいと思うし、記憶力もすごくよくてね。

 我々はアルファベットと数字を組み合わせてタイヤのスペックナンバーを設定しているんですけど、ワンメイクになっても、彼はコンペ時代のその番号を覚えてて、フロントタイヤはこの番号のフィーリングがよかったとか話してくる。こっちはもうそんなスペックナンバーなんて忘れてるのに(笑)。

 MotoGPのレベルになると、どのライダーも走った時の現象をはっきり言えるんだけど、ここをこうしたらコンマ5秒上がるとか、そこまでの分析もバレンティーノはできましたね。

──それを参考にタイヤの仕様を変えたりとか?

山田氏:ライダーからはいろんな要望が来るんだけども、ワンメイクで公平にやらなければいけないから、タイヤを大きく変えることができないんです。ただ、1度安全のためにということで、フロントタイヤの構造をちょっと変えてみたことがある。みんな「乗りやすくはなってる」って言いながら、自分もよくなっているけど、相手の方がもっとよくなっていたら結局負けるから、このスペックはダメだ、とかそういう話になるんですよ(笑)。

 とはいえ、最終的にはブリヂストンが決めなければならない。安全に、乗りやすいタイヤ、というコンセプトがあったんでね、敢えてグリップを上げてラップタイムを上げようという狙いで開発はしていなかった。でも、マシンがどんどん進化してきたので、ラップタイムはどんどん上がっていきましたよね。

今後は国内レースにおける活動に注力

2人とも日本に家族を残し、世界を駆け回った

──ところで、ご家族はずっと国内にいらっしゃったんですよね。1年中世界を飛び回っていて、ご家族とゆっくりできる時間は多くはなかったと思うのですが、コミュニケーションはしっかり取れていましたか。

山田氏:ご心配ありがとうございます(笑)。

青木氏:はっきりいって、取れていないです(笑)。

山田氏:私はレースを始めた頃に子供が生まれたので、その時はかなりきつかったですね。子供が小学生の時に、授業参観や運動会などの行事に行けないのがほとんどでした。我々が子供の頃は父親なんてめったに来たことがない印象だったんだけど、最近はもう両親とも行くのが当然みたいだね。妻が友達に「うちは母子家庭だから」とか触れ回ってたらしいですけど(笑)。

 まあでも、よかったのは、こうやって報道もされて、何をやっているのかが分かるところ。仕事柄家を空ける人なんて一杯いると思うんだけども、何をやっているのか言わなきゃ分からないわけじゃないですか。幸運にもこの仕事は雑誌とかにも出てくるので、それは運がよかったと思いますね。

青木氏:たしかに僕も運動会なんかには行けてないですね。家族には最初、バイクレースでタイヤの技術スタッフとして行っているとは言ったんだけど、4~5年経った時に、たまたま「これがパパがやってるやつだよ」ってテレビでレース映像を見せたら、子供も妻も知りませんでした(笑)。「で、タイヤは何をやってるの?」と。確かにいい質問だね、っていう(笑)。今はある程度分かっているのかもしれないですけど。

──家族に対してできなかったことが多いとは思いますが、14年間のMotoGP参戦でやり残したことはもうありませんか。もしくは、これだけは悔いが残る、というようなことは?

青木氏:むしろものすごくレベルの高いところで技術を作れたので、それを他のいろんなレースや実際の商品にかなりフィードバックできて、製品のレベルが上がって、お客様に喜んでもらえるものが出せるようになった、というのがすごくよかったなと思いますね。

 やり残した、というか、MotoGPは年々ものすごく進化するので、この進化をもう体感できないっていうのは残念だなあと。どこまで進化するのか、そばで見ていたかったなとは思いますね。やり残したというのは、僕は今はあまり感じていないですね。

山田氏:私も自分としてはいい仕事ができたし、やり尽くした感はある。ただ、ウチの会社は開発も含めて4輪の人がほとんどだし、開発スパンも商品化するまでが長い。ところがMotoGPは、特にコンペの時は2週間後のレースのためのタイヤを作って、勝つことでその場でタイヤの性能が実証されるというすごくクリアな世界。ホンダさんも以前言っていましたけど、社員教育の場としていいというのが、自分でもすごく実感していたので、そういう経験をもっといろんな人にさせたかったな、というのがありますね。だからそれができなくなったのが残念だな、っていう感じです。

──数年後、もう1度MotoGPのタイヤを作ってほしい、と言われたらどうしますか?

山田氏:人も金もかかる話ですからね、でも喜び勇んでやる人は多いと思います。私自身としては、さっき言ったように(若い人に)経験させたいなというのがすごくあって、その道をまた作って、後進に譲るという意味で、まあ、ちょこっとやってもいいかな(笑)。

青木氏:やっぱりやりたいですよね。世界の最高峰のところを経験できるのは、技術屋としては喜ばしいことですから。

山田氏:MotoGPに参戦しているから入社しましたっていう若い子もいるから、リクルーティングにも効果があるんですよね。

──MotoGPの活動が終了した今、今後2人はどういった仕事をしていくのでしょうか。

山田氏:私はモータースポーツ推進部というところでレースの運営をメインにやっているので、JSB、モトクロス、鈴鹿8耐を含め続けていきます。コンペのJSBでも開発を続けて技術を作る、というところは力を入れていくことになっています。私は現場にも行くことになると思います。もうあんまりやることもないんですけど(笑)。

 タイヤの性能がいいのは当然として、信頼できるかどうかも重要です。チームやライダーとのコミュニケーションで信頼感というのも出てくるのでね、そういうところをフォローしにいく。まあ私が行っても行かなくてもレース結果は変わらないですが(笑)。

青木氏:私もそれと同じような方針の下で、JSBとモトクロス、鈴鹿8耐という日本のレースで新しいことにチャレンジしていきます。2017年からレースでは世界的にタイヤの17インチ化が始まるので、これまで我々はMotoGPも国内も16.5インチでやっていましたけど、今度は17インチのタイヤで今までと同じようなパフォーマンスで、勝てるものを作るという挑戦を始めています。

──海外を飛び回っている時より多少は時間もあるのではないかと思います。こういうことをやりたい、というような願望は?

山田氏:この間数えたら今年(2015年)はMotoGPに5回行かなかっただけで、13戦行ってたんですね。テストを含めると100日以上は費やしていたので、それがなくなりますから、時間的な余裕はできる。私はMFJのタイヤ部会も担当していて、ST600が2015年からワンメイクになり、2016年から中央戦もワンメイクになるので、よりユーザーに近いところをケアしていきたいと思っています。あとは走行会も販売会社が力を入れて回数も増やすということなので、そこも協力して、よりユーザーに密着した活動をしていきたいなと。

山田氏、青木氏は国内レースに向けた活動を行なっていく

青木氏:仕事ではここ(小平)にいられる時間が長くなります。今までできなかった新しいトライという意味では、(JSBなどで)技術的な面でやれることがまだまだあるので、MotoGPを担当していたスタッフみんなと一緒にやっていきたいなと思いますね。あとプライベートは時間があるので、そろそろバイクを買おうかなっていう(笑)。

山田氏:私もここ2、3年草レースに出たり、20数年ぶりに行ったツーリングも面白いなあと思って、バイクの楽しさを改めて知ったところです。以前は10年間くらいサーキットでバイクに乗ってテストしていたんですけど、その時、乗って楽しいっていう感覚は全くなかった。仕事なのでプレッシャーが(笑)。朝起きて、「あっ、今日は雨降ってるからテストない!」って喜んでいたくらいでした。

──最後に、お2人にとって「MotoGP」とはなんでしょう。

山田氏:1991年から2003年までGP125に出て、その後MotoGPへのチャレンジが始まりました。みんな勝つためにレースをやっているわけだから、自分としても勝てるタイヤを作りたかった。でも、GP125ですら勝てなかった。突然のようにMotoGPというチャンスが来て、そういう意味では、その後の14年間、テスト含めると15年間のMotoGPは、私の仕事の集大成でもあったかなという感じですね。

青木氏:こうやって振り返ってみると、僕にとっても、会社にとっても、MotoGPは我々を鍛えて育ててくれたのかなあと、今はそう思いますね。現場では当時は苦しいこともあったんですけど、技術的なレベルを上げられて、自分も違う見方をできるようになりましたし。

──MotoGPの将来を占ううえでは、Moto2やMoto3の状況も気になりますが。

アレックス・リンス選手の将来性の高さに注目している青木氏。2016年以降、リンス選手はどんな活躍を見せるだろうか

青木氏:Moto2は、とにかく中上(貴晶)君をはじめ、日本人がまず頑張ってほしいなと思って見ているんですけど、(アレックス・)リンスは速いですね。たぶんそのうち(MotoGPに)出てくるだろうなと思います。Moto3は未知の若いのが一杯いるので、あそこで日本人が活躍できていないのが残念です。

 本当は日本のバイク、日本のタイヤ、日本のライダーで勝てたら、それが我々にとって一番うれしいこと。玉田君がやってくれましたけど、その後がなかった。山田とは若い日本人ライダーを育てていく環境作りを会社としてやれたらすごくいいなあ、という話をしています。山田にはいろいろアイデアがあるみたいなので、これから何かやってくれるんじゃないでしょうか。

(日沼諭史)