日下部保雄の悠悠閑閑

8月15日

1945年3月10日の東京大空襲で焼失した神田にあった昌平館。その時の焼け跡から拾った溶けた灰皿。伊東にあった松林館にもあった灰皿。子供の頃はなぜこんないびつなものがあるだろうと不思議に思っていた。旅館を店じまいした時に父の親友に託されたが回りまわって今は我が家にある

 古いフィルムに映し出される76年前の8月15日は静かで暑い日だったようだ。それが310万人という日本人の死者を出した戦争が終わった日だ。戦争はすべてを破壊し生命を奪う。戦争経験者が異口同音に言うのは“戦争はやってはいけない”という言葉だ。

 戦車隊にいた父は内地の連隊にいて実際の戦闘に加わることはなかったが、10万人が死亡した3月10日の東京大空襲の翌日、戦車連隊があった千葉から何もなくなった焼け野原の東京に進出し、その時の惨状を自分に語ったことがある。

 父の実家は神田で旅館をしていたので、両親を心配したんだと思うが幸い私にとっての祖父、祖母は無事だった。その代わり神田の旅館はすべて燃え尽きてしまった。これまでの労力は一瞬で無になってしまったのだ。その名残の灰皿がなぜか今もウチにある。高熱で溶け表面がガラス状になった瀬戸物だ。何もなくなった焼け跡から灰皿を拾っている祖父母の姿を想像すると切ない。

灰皿の裏側は意外ときれいだった。父の親友が後年忘れずに記しておこうとした時に貼付したもの。昌林館はおそらく松林館と混同してしまったのだろうと思う

 旧陸軍の戦車は大陸での歩兵援護のために開発された兵器だったので、米軍相手の対戦車戦闘ではひとたまりもなかっただろう。父は運よく戦争を生き延びて自分がいる。

 本家にあたる長岡の親戚は中国で終戦を迎え、ソ連の理不尽な要求で極寒のシベリアに抑留された。幸い生き抜いて戦後何年かして日本に帰国できたが、戦争のことはやはりほとんど口にしなかった。明るい人だったのである日臆せず聞いてみたことがある。その時、マンドリン、マンドリンと言って楽器を構えるような仕草をしたことを覚えている。抑留中に監視しているソ連兵が持っていた機関銃のことだ。発射されたのを見たのかもしれない。

 自分自身は戦争を知らない世代だが、幼かった頃は防空壕の跡が日本中アチコチに残っていた。暗く湿った防空壕は崩落の危険もあったので立ち入り禁止だったが、やはり戦争の残り香があり怖い穴だった。

 もうすぐ来る8月15日。戦争に行った世代も少なくなってしまった今、不戦の意味を少しの時間でも考える日にしようと思う。

日下部保雄

1949年12月28日生 東京都出身
■モータージャーナリスト/AJAJ(日本自動車ジャーナリスト協会)会員/2020-2021年日本カー・オブ・ザ・イヤー選考委員
 大学時代からモータースポーツの魅力にとりつかれ、参戦。その経験を活かし、大学卒業後、モータージャーナリズムの世界に入り、専門誌をはじめ雑誌等に新型車の試乗レポートやコラムを寄稿。自動車ジャーナリストとして30年以上のキャリアを積む。モータースポーツ歴は全日本ラリー選手権を中心に活動、1979年・マレーシアで日本人として初の海外ラリー優勝を飾るなど輝かしい成績を誇る。ジャーナリストとしては、新型車や自動車部品の評価、時事問題の提起など、活動は多義にわたり、TVのモーターランド2、自動車専門誌、一般紙、Webなどで活動。