イベントレポート
豊田章男会長、センチュリーブランドを立ち上げ「ジャパンプライド」を世界に発信 日本から「次の100年」をつくる挑戦
2025年10月30日 08:27
豊田章男会長、センチュリーを通じて日本の心、「ジャパン・プライド」を世界に発信
トヨタ自動車は、東京ビッグサイト(東京都江東区)で開催される「ジャパンモビリティショー 2025」(プレスデー:10月29日~30日/一般公開日:10月31日~11月9日)に、トヨタグループとして出展。東京ビッグサイト南館に、トヨタ、レクサス、ダイハツ、センチュリーを4つのエリアで展示していく。
トヨタグループのプレゼンテーションは、トヨタとダイハツをトヨタ自動車 代表取締役社長 佐藤恒治氏が行ない、レクサスを同 Chief Branding Officer サイモン・ハンフリーズ(Simon Humphries)氏が実施。トリとなったセンチュリーでは、同社 代表取締役会長 豊田章男氏が行なった。
豊田会長は、前々回のジャパンモビリティショー2023では、日本自動車工業会の会長も兼務していたためプレゼンテーションへの登壇はなかった。また、その前の東京モーターショー 2021はコロナ禍で中止となっており、トヨタ自動車会長になってから初めてのプレゼンテーションになる。
今回は、10月13日のトヨタイムズでセンチュリーをトヨタ自動車のブランドとして最高峰と位置付けると発表して初のプレゼンテーション。新型センチュリークーペを世界初公開することもアナウンスされており、センチュリーの位置付け、センチュリークーペの詳細などについて注目が集まっていた。
プレゼンテーションが始まると、豊田会長は豊田喜一郎氏のクルマ作りの思いから紹介。トヨタのクルマ作りではなく、日本の自動車産業立ち上げについて熱く語る。
そこに込められた思いは、プレゼンテーションでも紹介されていた「ジャパン・プライド」であり、日本への強い気持ち。前日に来日していたトランプ米国大統領との意見交換も行なっており、そうした背景もあって、強く日本を語るものになっていたのかもしれない。
豊田会長は、センチュリーの名前は「次の100年をつくる」という意味に受け止めていると語り、仲間とともにセンチュリーブランドを立ち上げることを決意し、センチュリーを通じて日本の心、「ジャパン・プライド」を世界に発信していくと宣言した。
プレゼンを終えた後は、佐藤社長、サイモンCBO、中嶋裕樹副社長、ダイハツ 井上雅宏社長らがセンチュリーのステージに集まり、一緒にクルマを作っている仲間を呼び込み。そこに再び豊田章男会長が登場し、トヨタ、ダイハツ、レクサス、センチュリーのプレゼンテーションを視聴した人々に向けてお礼を述べた。
豊田章男会長のセンチュリーのプレゼンテーションは、新型車であるセンチュリークーペをひと言も語らず、日本のクルマ作り、日本への思い、そして「ジャパン・プライド」を語る。極めて異例で、極めて熱いものであり、今後も長く語り継がれるプレゼンテーションであるのは間違いない。
トヨタ自動車株式会社 代表取締役会長 豊田章男氏プレゼンテーション
豊田でございます。本日はご多用の中、お越しいただき、誠にありがとうございます。
センチュリー。「最高峰」にして「別格」のクルマ。
このクルマは、「日本」を背負って生まれたと私は思っております。今日は少しお時間をいただいて、私流の「センチュリー物語」をお話させていただきます。
「ただ自動車をつくるのではない。日本人の頭と腕で、日本に自動車工業をつくらねばならない」。これは、豊田喜一郎の言葉です。
1930年代、「日本人には自動車はつくれない」と言われた時代に喜一郎がつくろうとしたもの、それは「トヨタ」という会社ではなく、「日本の自動車工業」だったわけです。
この志に共感した仲間とともに、喜一郎の挑戦が始まりました。
そして、トヨタ設立1年後の1938年、そこに一人の男が加わりました。こちらの映像をご覧ください。
センチュリーの開発を担当したのは、トヨタ初の主査、中村健也さんでした。
「同じでないこと」
これがセンチュリーの開発・生産・販売のすべてにおいて一貫した、中村さんの姿勢でした。その開発がスタートしたのは1963年。
トヨタがクルマづくりを始めてから30年、終戦からわずか18年、そんな時代の話です。
「何の伝統も名声もないトヨタが、世界に通用する最高峰の高級車など作れるわけがない」
そんな声が出るのも当然のことでした。それでも中村さんは怯みませんでした。
「伝統は後から自然にできるもの。今までにない新しい高級車をつくろう。今の高級車のアキレス腱は新しいことができないことだ」
そう言って、斬新なアイデアや革新的な技術に果敢に挑戦いたしました。
同時に、鳳凰のエンブレムには「江戸彫金」、シート生地には「西陣織」など、「日本の伝統・文化」を取り入れました。
中村さんは「同じでないもの」を生み出すために、「最新技術」と「日本の伝統・文化」の融合にこだわったのです。
こうして誕生したセンチュリーを、初代はもちろん、二代目、三代目と章一郎は、生涯の愛車として乗り続けてまいりました。
そして、時代、時代のエンジニアに対し、「高速道路を走る時の直進性だけはしっかりやってくれ」「横風対応は大丈夫か」など、毎日のように、その後部座席から改良の指示を出し続けました。
章一郎がそこまでしたクルマは、センチュリーだけでした。
それは、なぜでしょうか? 中村さんが、当時「無謀」とも言われたセンチュリーの開発に取り組んだのは、なぜでしょうか?
ここからは、私の解釈になることをお許しください。
二人の胸にあったもの。それは、終戦のわずか3か月後に、喜一郎が立ち上げた「自動車協議会」に込めた想いだったのではないか。私は、そう思っております。
この自動車協議会は、現在、私自身が会長を務めております「日本自動車会議所」の前身となる組織です。その立ち上げに際し、喜一郎は、こう述べております。
「民主主義 自動車工業国家を建設し、平和日本の再建と世界文化に寄与したい」
この言葉が私の頭から離れませんでした。
「平和日本の再建」には、「自動車工業が原動力となり、日本の人々に笑顔と平和な日常を取り戻したい」という産業報国の精神が込められております。
「世界文化への寄与」とは、「異なる国や民族が持つ文化の理解や交流を通じて、より良い社会を築くこと」
それを意味していると思います。
当時の日本に必要だったもの。それは、「日本に生きる人間としてのプライド」だったのではないでしょうか。
だからこそ、中村さんは、喜一郎の息子である章一郎とともに、日本の伝統に支えられた、世界に誇れるクルマ、世界の平和と文化の交流に寄与できるクルマをつくろうとしたのではないでしょうか。
「ジャパン・プライド」
それを背負って生まれたクルマがセンチュリーだと私は思っております。
初代センチュリーの誕生から、半世紀以上が経過した今、日本はどうなっているでしょうか。
「Japan as No.1」と言われた時代は過ぎ去り、「失われた30年」という言葉が定着する中で、日本という国が、少し元気や活力を失ってしまっているのではないでしょうか。
世界の中で、その存在感をなくしてしまっているのではないでしょうか。
今の日本を、喜一郎や中村さんが見たら、何と言うでしょうか。
おそらく、何も言わずに、動き出すと思います。
戦後のメディア報道で「ゼロからの発進」というタイトルを見た中村さんは、「ゼロなんかじゃない。たしかに設備は壊れ、モノや金はなくなった。だけど、これまで積み上げてきた日本のチカラ、技があった。だから立ち上がれた」。そう言って、怒ったそうです。
今の日本には、世界に広がった「自動車工業」があります。この国を支えてきたモノづくりの技能があります。
世界の人びとを魅了する美しい自然。豊かな食文化やおもてなしの心があります。
今や日本の代名詞となった漫画やアニメーションがあります。音楽やスポーツの世界でも、日本の魅力を世界に発信し続ける若者たちがいます。
私は、今こそ、「センチュリー」が必要なのではないかと思うのです。
こちらの映像をご覧ください。
「センチュリー」
その名の由来は、「明治100年」とも、「トヨタグループの創始者・豊田 佐吉の生誕100年」とも言われておりますが、私は「次の100年をつくる」という意味に受け止めております。
そして、センチュリーに刻まれた「鳳凰」のエンブレム。「鳳凰」とは、世界が平和な時代にのみ姿を見せる伝説の鳥です。センチュリーは、単なる車名ではありません。世界の平和を心から願い、日本から「次の100年」をつくる挑戦。それこそが、センチュリーなのだと思います。
章一郎亡きあと、これは、私自身の使命だと思いました。もちろん、私ひとりでできることではありません。トヨタには、中村健也さんのスピリットを受け継ぐ仲間がたくさんいます。
そんな仲間とともに、「センチュリー・ブランド」を立ち上げることを決意いたしました。
「One of One」
中村さんの言葉を借りれば、「同じでないこと」。センチュリーは、トヨタ自動車のブランドの一つではありません。日本の心、「ジャパン・プライド」を世界に発信していく、そんなブランドに育てていきたいと思っております。
みなさん、「ネクスト・センチュリー」にご期待ください。




