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トヨタ、創業者 豊田喜一郎氏の米国自動車殿堂入りで記念式典

豊田章男社長が祖父の豊田喜一郎氏にインタビューする動画公開

2018年8月6日 発表

2018年の米国自動車殿堂に選出され、殿堂入りを果たした豊田喜一郎氏

 トヨタ自動車は8月6日、創業者の豊田喜一郎氏が2018年の米国自動車殿堂に選出されて殿堂入りを果たしたことを受けて、同社事務本館ホール(豊田市トヨタ町1番地)で記念式典を開催した。

 同式典にはトヨタ役員のほか、トヨタグループ各社の代表者や若手社員など約100人が出席。会場では、7月19日(現地時間)に米国デトロイトで開催された授賞式に参加した内山田竹志会長とジム・レンツ専務役員が受賞報告を行なった。

 なお、同社Webサイトで同社代表取締役社長の豊田章男社長が1950年にタイムスリップして祖父の豊田喜一郎氏にインタビューするビデオが公開されたほか、ニュースリリースでは、豊田章一郎名誉会長と豊田社長のコメントが掲載されたので、以下に全文を掲載する。

7月19日 米国自動車殿堂 授賞式の様子
7月19日 米国自動車殿堂 授賞式の様子

豊田章一郎名誉会長のコメント全文

 米国自動車殿堂には1994年に豊田英二さんが、また、2007年に私も入らせて頂いておりますが、本年は織機の事業から自動車事業に挑戦した喜一郎の起業家としての創業時の功績が、自動車の母である米国から高く評価されての殿堂入りであり、大変光栄なこととして、嬉しく思っている次第でございます。

 生前喜一郎は「自分は織機の技術では世界の誰にも負けない自信がある。しかし自動車については何もやらなかった。みんな部下や仲間がやってくれた」と言っておりました。その言葉には、「自動車事業は1人でできるものではない。多くの仲間が結集して汗を流してもらったからだ」という感謝の気持ちが込められておりました。

 喜一郎は戦後志半ばで倒れ、喜一郎が目指した本格的な大衆乗用車の実現を見ることはできませんでしたが、その夢と志は、喜一郎と夢を共有した部下の方々に受け継がれ、1955年にクラウンとして実現致しました。

 その後今日まで、私どもの発展の原動力となってきましたのは、「現地現物」「価格は市場できまる。絶えざる原価低減努力」「品質は工程で造り込む(自工程完結)」「イノベーションへの挑戦」、そしてこれらを担う人材の育成であります。これらは、いずれも創業期から喜一郎がクルマ作りで取り組んでいた考え方、姿勢そのものであり、喜一郎はトヨタ自動車やトヨタグループに今日まで生き続けております。

豊田章男社長のコメント全文

 喜一郎は57歳という若さでなくなりましたので、私は直接会ったことはございませんが、今回の受賞にあたっても、「米国自動車殿堂にも、みんなで入るのだ。自分は代表して名前があるだけだ」と言ったのではないかと思います。

 私は、喜一郎とその仲間の方々について考えるとき、必ず思うことが2つあります。1つは、創業期を支えてこられた先人の方々のおかげで今のトヨタがあるという感謝の気持ちです。

 もう1つは、それにも関わらず、先人の方々は、よいところをほとんど見ていないという無念の想いです。それだけに、憧れた米国の地で、自動車殿堂入りという形で、先人の方々の努力と挑戦の日々が報われたことを、自分のこと以上に嬉しく思います。

 先人の方々が、日本の未来のために、当時は不可能と言われたクルマづくりに挑戦してくださったからこそ、今の私たちがあります。そのタスキを受け継いだ私たちがリスク、リスクと言って、何も挑戦せずに安全なことだけをしていたのでは、先人の方々にも、次世代の人たちにも申し訳がたちません。未来のモビリティ社会をもっと楽しく、もっと豊かなものにするために、私自身が先頭に立って闘い続けてまいります。そして、「自分のためではなく、社会のため、次世代の笑顔のために闘う」という創業の原点を、若い人たちにしっかりと継承してまいります。