【ハンガリーGP】
アクシデント続きの予選、決勝
実力を見せ始めたKERS勢

 F1は大河ドナウを渡り、ハンガリーに入った。ハンガリーGPは、1983年から計画が始まり、1986年に初開催を迎えた。以来、毎年夏にスケジュールされている。初開催から1988年までは、ハンガリーはまだ共産主義国で、いわゆる「鉄のカーテン」の向こう側でのイベントだった。

ハンガリーの歴史を変えたF1
 「僕達はF1で国と社会を変えるんだ」。当時、サーキットの電話局で働いていた青年は、僕にこう語ってくれた。あの時代、すべてが統制されて、抑圧された雰囲気だった。しかし政治的に「民主化」を唱えると、1956年にソ連が武力でこれを鎮圧したハンガリー動乱の悲劇を繰り返すことになる。そこで、ハンガリーの人達は、西側の最先端の技術とスポーツ、文化、ファッション、コマーシャリズムすべてを備えたF1を導入することで「後戻りできない」という状況を醸成して、自然な民主化と自由化を実現しようとした。

 構想発足当初は「西側のブルジョワジーによる退廃的で血塗られたイベント」とF1を全面否定する政府役人もいた。しかし、ハンガリーは5世紀ユーラシア大陸を駆け巡った騎馬民族であるフン族の末裔の国。スピードは民族の血に流れるものであり、庶民はF1を大歓迎した。

 また、F1の原点である1906年の第1回フランスGPのウィナー、シスー・フェレンツはハンガリー人だった。1936年にはブダペスト市内のネープリゲート(市民公園)で、当時のグランプリレースの1戦としてハンガリーGPが開催されていた歴史もあった。ハンガリーにはF1が根付く土壌があったのだ。

 ハンガリーGPは開催した人達の思いを超えるスピードで、ハンガリーの歴史の流れを変え1989年には東側諸国の中で早くから民主化を達成。さらにこの動きがベルリンの壁崩壊、東欧諸国だけでなくその盟主だったソビエト連邦の崩壊の原動力になった。

レッドブルとトヨタはブダペスト市内でプロモーションを行った

モナコのようなコースレイアウト
 レースの舞台となるサーキットは、地元では「フンガロリンク」と呼ばれる。「フン」は「フン族」から来ている。当初、1936年にグランプリが開催された公園での開催も考えられたが、安全上不可能となり、フンガロリンクが新設された。

 「モナコのようなコースが面白くなるんだ」というコースレイアウトは、F1の興行主であるバーニー・エクレストンのアドバイスと、エクレストン自らが描いたレイアウトスケッチをもとに、1980年代前半当時のFIAの安全規定を盛り込んでデザインされた。

 そのため、メインストレート以外は、ごく短いストレートと低速コーナーが連続し、モナコのコースの脇にランオフエリアを増設したようなコースになった。モナコと同様にF1開催コースの中では極低速で、マシンにとっては空気抵抗を増やしてもダウンフォースが欲しいところになる。

 例年、真夏の開催で気温が高く、冷却用の空気を取り入れるストレートが短いため、ブレーキやエンジンの冷却にも厳しい。しかも、コース幅が狭いので、追い抜きが難しく、予選を含めた、戦略の巧さが求められる。フンガロリンクは、1986年のピケ対セナを筆頭に、2003年のアロンソの最年少優勝(当時)など、名勝負やF1の歴史の転機となる名シーンの舞台にもなっている。

フンガロリンクはツイスティな極低速コースだ

 

ハンガリーがデビューとなったハイメ・アルグエルスアリ

見えてきたブロウンGPの弱点
 「ハンガリーでは強さを取り戻せるだろうし、こんな状況を続けられない」。

 イギリス、ドイツと低温下での開催で、タイヤをうまく使えなかったジェンソン・バトンは、夏の暑さが恒例となっているハンガリーGPで再び流れを取り戻そうとしていた。前回、新型ボディーに手ごたえを見つけたマクラーレンも、同じコース特性のモナコで好調だったフェラーリも、このハンガリーで「流れを変えたい」という思いだった。

 だが、バトンとブロウンGPには期待どおりとはいかなかった。8月初旬から7月末に開催時期が早まったせいなのか、例年の酷暑というほどにはならず、路面温度は他のチームには適温でも、バトンにはもう少し足りないところだった。ここまでくるとタイヤの温度特性よりも、BGP001がタイヤ温度を上げられないというクセがあるのではないかと思われた。

 さらに、金曜日は路面の汚れがひどく、土曜午前は前夜の雨で路面状態がさらに悪い方に戻ってしまったため、総じてグリップが足りなかった。こうした中、今回セバスチャン・ブルデーにかわってF1デビューとなるハイメ・アルグエルスアリが地道に周回を重ね、デビュー前のF1でのテスト経験不足を補おうとしていた。

フェリペ・マッサ

マッサのアクシデント、被害を軽減したのはヘルメットとHANS
 路面の状態が好転し始めたのは、予選に入ってからだった。その予選Q2ではマッサが大ケガをする事故が起きた。マッサは、アタックラップの次の周だった。そのすぐ前にはバリチェロが先行。このバリチェロのリアサスペンションが壊れ、スプリングのひとつが脱落し、運悪くそこにさしかかったマッサのヘルメットに当たった。これで頭部に外傷を負ったマッサは4コーナーの外側のバリアに衝突した。

 現在のF1のリヤサスペンションは、左右に独立したスプリングとダンバーを備えているほかに、もっぱら車高コントール機能を受け持つ小さなスプリングとダンパーのユニットを中央に備えているものが多い。これで、左右のリヤタイヤは路面をとらえて、安定を増すと同時に、エンジンのパワーをうまく路面に伝える一方、車高をできる限り一定に保つことで車体の底で発生するダウンフォース量を一貫して稼ぎだそうとしている。バリチェロ車から落ちたのはこの車高コントロール用の小型スプリングで、重さは約800gだった。

 FIAは2004年により頑丈で安全性を高めたヘルメットの規格を制定。これは製造コストがかかり、1個が100万円以上になる。しかし、FIAは安全向上と、さらなる量産技術の発展によるコストダウンと普及を願って、F1に強制導入していた。だが、いかに頑丈なヘルメットでも、800gのスプリングを高速で受けたのでは、マッサは外傷を免れなかった。

 病院搬送後の様態が心配されたマッサだったが、その後1週間で急速な回復を達成した。これは、高度に進歩した脳神経科の医療技術だけでなく、高価だが安全性の向上したヘルメットとHANS(Head And Neck Support:頭部・頚椎部の損傷を防ぐ装備)のおかげでもあった。こうした安全技術とその開発については、次回くわしくお伝えしたい。

予選を征したのはアロンソだったが

 混乱気味の予選を制したのはアロンソだったが、発表された車両重量は637.5kgと最軽量。2、3番手はベッテルとウェバーで、レッドブルの強さがよりはっきりしてきた。4番手にはハミルトンがつけた。しかも、650.6㎏という車両重量はライバルとほぼ同じで、マシン自体の性能が上がったことをうかがわせた。コバライネンは6番手、ライコネンが7番手につけた。

 このKERSを搭載した3台の存在は、予選トップ3位にとって脅威となった。KERS搭載車は、1コーナーまでの発進加速と、2、3コーナーからの立ち上がり加速でも優位に立つ武器になるからだ。


ハミルトン、コバライネンがKERSを活かしてダッシュした

実証されたKERSの効果
 決勝はグリッド上位3人の不安どおりになった。KERSを利用して、ハミルトン、コバライネン、ライコネンが加速。ここでレッドブル勢との接戦になり、ライコネンはベッテルに接触。ベッテルは左フロントサスペンションを痛めてしまい、29周目にリタイヤしてしまった。

 アロンソは燃料の軽さでスタートダッシュを決めて、トップを確保した。予定どおり12周目に1回目のピットストップを行った。しかし、ここで右前タイヤのロックナットの締め込みが完了する前に発進の合図が出てしまった。鋭敏な反射神経を持つF1ドライバーは、ロリポップと呼ばれる指示棒が上がると瞬時に反応してスタートする。アロンソは不完全なタイヤ装着のまま動き出した。

 ここでチームは、アロンソに無線で停車を指示せず、そのままコースに出してしまった。結果、アロンソの右前タイヤが走行中に脱落。アロンソはリタイヤを余儀なくされたばかりか、脱落したタイヤがコース脇を飛び跳ねてしまった。

 この問題はスチュワード(競技審判団)の審議対象になった。結果、危険な状況を知りながら対策をせずにコースにマシンを送り出し、極めて危険な状況を引き起こしたルノーチームの責任は重大とされ、スチュワードは次回ヨーロッパGPの出走禁止処分を言い渡した。この処分にルノーチームはすぐに控訴手続きをとり、8月17日に国際控訴院(ICA)での審理と裁決にゆだねられることになった。

 これで、トップはハミルトンのものとなり、独走態勢を築いた。ハミルトンとMP4-24の走りは、今季序盤戦とはうって変わってとても安定していた。2番手にはライコネンがつけ、KERS搭載車で今季前半苦戦した2チームによる1-2体制になった。これを追ったKERS非搭載車の筆頭はウェバーのレッドブルだった。

ハミルトンが独走して優勝した中嶋を抑えきったバトン

 一方ブロウンGP勢は、ここでも不振だった。バトンはなんとか7位を確保して、チャンピオン争いでのダメージを少し小さくした。だが、バリチェロは10位で、ポイント争いでさらに遅れをとってしまった。バトンにしても序盤はオーバーステアが出て思うようにペースが上げられず、幅が狭く抜きにくいコース特性を活かして中嶋の追撃をなんとか抑えきっていた。

 中嶋は、オープニングラップでバトンの前に出ていたのだが、2周目でバトンに抜かれていた。これでバトンの後ろに延々抑え込まれ、さらに終盤、ハード側のタイヤでバトンがペースを取り戻したことで、8位に終わった。ロスベルクが4位と今回のウィリアムズFW31は好調で、中嶋自身も本来ならより速いラップで周回できる力があったことは、ラップタイムからもうかがえた。2周目の一瞬が、中嶋にとって高い代償になってしまった。

さらなる混戦が待ち受ける
 ポイントランキングでは、バトンが70点でトップを維持したものの、2番手のウェバーが51.5点とさらにその差を縮めた。反面、今回無得点だったベッテルは47点、バリチェロは44点と、上位2人との差が広がった。王座争いはバトンとそれを追う3人から、バトン対ウェバーに傾き始めた。

 マクラーレンとフェラーリの昨年の2強の成長があり、ブロウンGPとレッドブルによる今年の2強との勢力図争いもより興味深くなった。さらにこのマクラーレンとフェラーリの1-2は、KERSの有効性を結果で実証したことになり、KERSに対して否定的な大部分のチームにとっても、KERSについての再考を迫ることになった。

 バトンとブロウンGPの独走と思われた今季前半。中盤でのレッドブルの躍進。だがハンガリーは、今季のF1の流れにさらなる大きな変化をもたらした。

 F1は次のヨーロッパGPまで1カ月の休みに入る。そのうち2週間はファクトリーの操業も停止すると、協定で定めた。だが、F1をとりまく状況はノンストップだ。

 ルノーがヨーロッパGP(8月28日決勝)に出られるかはICAの判決次第で、もしもアロンソが出走できないと、ヴァレンシアのオーガナイザーにはチケット販売で大打撃となる。だが、負傷したマッサの代役として、フェラーリからミハエル・シューマッハが2年半ぶりに「期間限定」で現役復帰することになり、シューマッハはトレーニングを開始した。

 スペインはドイツ人にとってリゾート地のひとつ。以前スペインGPの集客を支えたように、またドイツからのシューマッハサポーターがスタンドを埋めるかもしれない。一方、BMWは今期いっぱいでF1から撤退することを表明した。

 「新2強」対「昨年の2強」。終盤戦に向けてF1はより混戦になりそうで、この終盤戦の行方をうかがう意味でも、次のヴァレンシアでのレースはいっそう興味深いものになる。

URL
FIA(英文)
http://www.fia.com/
The Official Formula 1 Website(F1公式サイト、英文)
http://www.formula1.com/

関連記事
【2009年7月29日】BMW、2009年でF1から撤退
http://car.watch.impress.co.jp/docs/news/20090729_305795.html
【2009年7月30日】フェラーリ、マッサ選手の代役にミハエル・シューマッハを起用
http://car.watch.impress.co.jp/docs/news/20090730_305991.html

バックナンバー
http://car.watch.impress.co.jp/docs/series/f1_ogutan/

(Text:小倉茂徳)
2009年8月7日