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「スバル車のあるべき姿」を歴代開発担当者が語る「スバル歴史講座」
スバル テックツアー 2016~際立つ「安心と愉しさ」へ~で開催
2016年10月12日 00:00
- 2016年10月2日 開催
スバル(富士重工業)は10月2日、栃木県佐野市にあるスバル研究実験センター(SKC)で報道関係者向けイベント「スバル テックツアー 2016~際立つ『安心と愉しさ』へ~」を開催した。
スバルは今年度から報道関係者向けの企画としてスバル テックツアーを開催しており、第1回は8月7日に実施された「SDA:スバルドライビングアカデミー」(スバル、走れるエンジニアを育成する「スバルドライビングアカデミー」)。それに続く第2回が今回行なわれた「スバル歴史講座」だ。このプログラムでは「人を中心とした、安心と愉しさのクルマづくり」というスバルの基本姿勢を、クルマ作りの歴史解説によって紹介していくもの。さらに「スバル 360」をはじめとする“スバルらしさ”が強く出ている「歴史車試乗」も行なわれた。
それではプログラムの内容を紹介していこう。最初に行なわれたのは「プラットフォーム50年の熟成と革新」で、長年に渡ってスバル車の開発に携わってきたエンジニアによるトークセッションとなった。参加メンバーは富士重工業のOBで、在籍中は主に実験部門で「走りの開発」を担当していた大林眞悟氏、富士重工業 スバル商品企画部 新型インプレッサ プロジェクトゼネラルマネージャーの阿部一博氏、富士重工業 スバル第一技術本部 車両研究実験第一部 部長の藤貫哲郎氏の3人だ。
まずは、今のスバル車の原点となる「スバル 1000」について、現代のクルマ作りから見てどう感じるかについての話題となった。スバル 1000の開発が始まったのは1960年代のはじめということで、今回のメンバーには直接開発に関わった人はいないが、大林氏だけはスバル 1000が現役の時代に入社しているので、このクルマについては大林氏から解説された。
1960年代の日本といえば、1964年に東京オリンピックが開催され、それに合わせて交通インフラも急ピッチで整備が行なわれていた時代だ。新幹線の開通もこの時期だが、自動車メーカーにとって大きいできごとになるのは高速道路網の開通である。それまでの日本のクルマは最高速が60km/hまでで、悪路でも快適に走れることを基準に作っていたという。その最高速が100km/hに高まるということは、大林氏いわく「見当の付かない世界」ということだった。
当時の会社はスバル 360でひとまず成功していて、次に小型車の開発が進んでいた。そこで高速道路を安定して走れることも開発の課題になったが、そうなるとスバル 360で採用したリアエンジンレイアウトは高速での安定走行に向かないと判断され、エンジン搭載位置がフロントになった。ただ、スバル 360でも実現していた居住性のよさを求める姿勢は継続されたので、スバル 1000はFFレイアウトが採用されることになった。
ただ、このクラスのFF車というのは日本ではあまり例がない。欧州には何台かあったものの、どれもスバルが求めるものではなかったので、結局は自社で独自設計を進めることになった。その結果、スバル 1000はFFレイアウトながらエンジンは縦置きとされ、オーバーハングを短くすることを目的に水平対向エンジンが作られて搭載された。このようにスバル 1000は、自分たちで考えられることは全部やろうという発想で作ったクルマだと大林氏から語られた。
続いては「レオーネ」について。レオーネはスバル 1000のあとに登場したクルマだけに、スバル 1000の反省点を取り入れた作りになっていた。その反省点とは、スバル 1000はクルマとしての性能はよかったが、量産車には不向きだったというところだ。なにしろスバル 1000は開発時に高い理想を追い求めたクルマだっただけに、生産性に欠けて製造コストが上がっていた。さらに整備性も今ひとつだったという。
さらに世の中の流れで排出ガス対策や衝突安全基準などがテーマになってきたため、そういった要素をスバル 1000のコンセプトやレイアウトで実現するのは厳しかった。そこでレオーネは、課題や問題点を直しながら作りあげたのだが、完成したクルマからはスバル 1000にあった軽快で楽しい走りが失われていた。これについて開発に関わった大林氏は残念に感じたと口にするが、反対に「どうすればもっと走りのいいクルマになるのか?」という仕事としてのテーマができるきっかけになったという。
そんなレオーネのあとに開発された「レガシィ」だが、時代的にパワーユニット関係では排出ガス対策が厳しくなっているので、そのなかでパフォーマンスを上げるための悪戦苦闘とも言える作業が求められたという。スバルはそのなかでも、1978年の「昭和53年規制」に日本でいちばん早く適合させ、次に向けた先行開発に弾みが付いていた。同時に足まわりや車体も開発を進めていたのだが、ここで技術とは別に「どういう走りを目指すべきなのか?」「どのレベルの走りを目標にすればいいか?」と言うイメージを持たなければいけないということで、それらを確認するための場としてモータースポーツに注目し、なかでも生産車に近いクルマで一般道を走るラリーを重視。1980年からサファリラリーに参加して、「長時間に渡って高速で走り続けても疲れることなく、安心して走れるクルマとはどういうものか」というイメージを掴むことため活動していた。
レオーネからレガシィに替わったとき、エンジンも「EJ」型が登場したのだが、開発当初はその予定はなかったという。なにしろエンジンを変更するとなれば工場から作り替えることになるし、シャシーなどの設計もまた違うものになるからだ。そういったことからエンジンを新しくしようという意見は出ていたが、実現しにくい環境であったと言う。
そのころ、レオーネはアメリカ市場で信頼性の高さや4WDによる走破性の高さ、そして価格の安さから好調なセールスを続けていたが、為替が大きく変わり、それまで1ドルあたり240円だったのが一気に120円になった。これで安さというセールスポイントがなくなって販売が落ち込んだ。これを受け、いよいよ新しいエンジンを投入して行かなければならない状況に追い込まれてしまったわけだ。
ただ、販売が順調だったため資金はあったのでエンジン開発を開始。同時に今回のプログラムの会場でもあるスバル研究実験センターの建設と、アメリカの工場建設も行なうという、スバルにとって大きな動きがあった時代だった。
これらが成功すれば投資はキッチリと回収できるはずだったが、初代レガシィは苦戦した。これについて大林氏は「そこはスバルらしいというか、一気にトップを狙おうと一生懸命作りすぎたんですね。そのためちょっとコストが高くなっちゃいまして、スバル 1000のときと同じですね」という。
ただ、レガシィ自体はいいクルマで、日本市場では高い評価を受けたことは事実。しかし、大きな市場であるアメリカは「いいクルマ」と言うだけでは売れず「いいクルマは世の中にたくさんある。そのなかで特徴はなんだい?」と聞かれるとのことだ。もちろんレガシィにも特徴があり、それは日本で評価されたのだが、アメリカではそうならなかったのだ。これによってレガシィ全体の販売が伸び悩むことになり、トータルで赤字になってしまった。
それでも、このレガシィで取り組んだチャレンジはムダではなかった。レガシィの開発では一生懸命いいものを作ることに注力した。そして生産のためにコストダウンも行なったのだが、その行程で性能を落とすことはしなかった。これは前述したスバル 1000からレオーネのときに辛い思いをしていたことから、「落とすどころかむしろ高める」という気概で進めたとのこと。それだけに市場に出たレガシィは高く評価されたのだ。
また、不評だったアメリカ市場でもなんとか販売を伸ばそうと知恵を絞った結果、ツーリングワゴンの車高を上げることで走破性向上とスタイル面に特徴を持たせた「アウトバック」が誕生し、これが苦戦していたアメリカで成功。レガシィがもともと持っていた走りのよさにアウトバックの個性を追加したことで、ようやくアメリカでも認められたのだった。
このあと、大林氏はコンセプトワークも担当することになった。当時は4代目レガシィの開発時で、レガシィ自体は初代から2代目、3代目とモデルチェンジするたびによくなっていったのだが、一方で衝突安全対策などによって車重が重くなっていた。そこで増加した車重に対応するため、エンジン出力を上げて足まわりを強化したり、タイヤを変更するといった対策を講じたが、それがクルマを肥大化させることになっていった。
ここで大林氏は「この流れはスバル車のあるべき姿ではない」と考え、ここはクルマを軽くして性能を上げようという発想をした。ただし、軽くする方向でクルマ作りを行なうと、走りはよくなっても振動が出たり音がうるさくなったりといろいろな部分に弊害が出やすいのも事実だった。でも、作り替えるにはそこを抑えるというより、初代レガシィ同様に「課題はクリアするだけでなくむしろよくする」という姿勢で取り組んだ。
この時期には大林さんの部下として藤貫氏も開発に携わっていたが、開発していたころはかなり疲弊したと語る。当時は引き継ぐベースがあり、クルマを作ってからそれを仕上げていくという開発スタイルだったが、それを大きく変えたときに「これはまとまるのかな」と感じたという。会議でもスタッフにネタを出せと言っても、そもそもの理想が高いのでなかなかアイデアが出てこない。そういったことから大林氏は「これは開発スタイルから変えていく必要がある」という結論に至った。ところがこのとき、大林氏自身は定年が迫っていて自分でやりきる時間はないという状態だった。そこで仕事を引き継いでくれる人材として選出したのが藤貫氏だった。
藤貫氏からは「当時、ボディ剛性と言われてもよく分かりませんでした。ボディ剛性が上がるとクルマの動きがピーキーになるし、ドライバーからは落としたほうがいいと言われたり混沌としていました。でも、そこは剛性を変えるとボディにどういうことが起きているのか調べて、きちんと説明できないとダメだということで、そこを10年以上やり続けてきました。そしてようやく分かってきた感じです。それが実現したのも最近の計測技術がよくなったことが大きいですね。当時はノイズが多くてデータにならないことも多かったのです。でも、分かってしまえば、ポイントは部材同士の結合点にあったり、フレームの通し方を変えることで、重くしなくても運動性がよくできたり、振動が消せたりすることが分かった」とのこと。そんな積み重ねが生かされているのが、新型「インプレッサ」に採用された「スバルグローバルプラットフォーム(SGP)」だという。
このSGPだが、実は新型インプレッサと同じ程度のシャシーを持った試験車が2006年ごろにはできていた。ただ、これは図面があったわけでなくワンオフとして作られたものだったとのことで、当時、藤貫氏と阿部氏もこの試験車に乗っていた。そこでの2人の感想は「これは市販車でやりたいよね」というものだった。また2008年には、当時はまだ社長就任前だった吉永泰之社長にも試乗してもらい、「こういうものを世に出したいんですよね」という話もしていたとのこと。このように新型インプレッサのSGPは、実はかなり前から走っていたことが明かされた。
それほど期待が大きいSGPだが、採用されるまでにはかなりの時間が掛かっている。その理由はやはりコスト。実際にこのプラットフォームを採用した新型インプレッサの開発費は、普通のインプレッサの開発費より3倍は掛かっているとのこと。それは試算の段階でも分かることだと思うが、それでもゼネラルマネージャーである阿部氏が採用を決めたのは、藤貫氏から「これを使えば2006年に乗ったあの走りが実現できる」と言われたからだという。
ここで大林氏から面白い質問が藤貫氏に向けて投げかけられた。それはステアリングのギヤ比について。今回のイベントに参加するにあたり、大林氏は事前に新型インプレッサに試乗していたが、そのときにステアリングがクイックなことと、クイックながら安定感が高いことに気がついたという。
新型インプレッサに採用されたギヤ比は13.0:1と言う数字で、これまでのスバルのスポーツタイプ車では15.0:1あたりに設定されていたのでかなりクイックな設定だ。それだけに、これまでの常識ではこのような数値にするとステアリング操作に対してクルマの挙動がクイックなりすぎてしまうため、例えば危険回避のときなどの急操舵時にスピンしやすい傾向にあった。ところが新型インプレッサの挙動は急な操作においても怖さや危うさは一切なく安定しており、そしてクイックゆえの取り回しのよさが印象的だったとのこと。
そこで大林氏は「これはどうやっているんですか?」と藤貫氏に尋ねた。その回答は「基本的には車体の力の流れでリアタイヤのグリップを早めに出すこと。そのために解析でリアサスの動きを見ていたら、リアのアライメントが設計どおりに動いていないところがあったんです。そこできちんと動くよう作ったところ、クイックなハンドリングでも普通の挙動に収められた」ということだ。
それを聞いた大林氏は納得した表情で、「単なるスポーティな走りではなく、優しい走りになっているんですよね。また、ステアリングがクイックなのは操作が遅れがちな年配者のとっても乗りやすくなることだと思います。クルマはドライバーが走らせるものなので、こういう作りこそクルマにおける本当の意味のユニバーサルデザインです」と口にした。
話題はまだまだ盛り上がる雰囲気だったが、予定の時間を超えているということで終了となった。しかし、ここまでを聞いただけでも、スバルのクルマ作りに対するこだわりの強さが伝わってくるトークセッションだった。
ここから先は、会場になったスバル研究実験センターで展示されていた歴代スバル車の写真をご紹介する。このあとプログラムでは、この貴重な展示車のなかから「スバルのエポックメイキングな車両」として選ばれた数台のモデルを特別に試乗できる機会も設けられた。この試乗の模様や、同日に行なわれた「スバル車と水平対向エンジンの歴史」の解説講座については改めてご紹介する。