F1カメラマン熱田護の「気合いで撮る!」

番外編:メキシコの地でホンダF1初勝利マシンの「RA272」が走った! 中村良夫初代監督との思い出とともに走行の様子を振り返ります

 ホンダF1が初優勝したのが、今から60年前の1965年10月24日、メキシコGPでした。

 ドライバーはアメリカ人のリッチー・ギンザー選手。ギンザー選手にとって唯一のF1での勝利となりました。

 マシンはHONDA RA272。

 1965年というのはホンダF1にとって参戦2年目、全10戦中8戦に参戦していて、メキシコGPが最終戦でした。

 それまでの成績はベルギーGPとオランダGPでギンザー選手が6位に入賞して2ポイントを獲得していたに過ぎません。チームメイトはロニー・バックナム選手。

 メキシコGPで、ギンザー選手は予選3位からレーススタートしてトップに立ち、そのまま優勝しました。

 おそらく、この年のホンダF1のパフォーマンスはトップレベルではなく、普通に戦っていれば勝てるような体制ではなかったような気がします。

 初参戦の1964年のドイツGPから通算11戦目で初優勝できたのは、監督の中村良夫さんの力が大きかったように思います。

 海外に出るだけでもものすごく大変な時代に、オートバイメーカーであったホンダが車体とエンジンを設計・製造し、4輪モータースポーツの最高峰にチャレンジするということは、想像するだけでもとんでもないことです。

 中村良夫さん、ホンダF1初代監督。

 僕は幸運にも中村さんと一緒にヨーロッパを旅したことがあります。1992年と1993年、今はもうありませんが山海堂という出版社から出ていた雑誌「GPX」の連載記事と「F1グランプリ全発言」の取材のためです。

 ルカ・モンテゼーモロさんを訪ねてフェラーリ本社へ、ベルナール・カイエさんを訪ねて南仏のご自宅へ、ペーター・ザウバーさんを訪ねてスイスへ、マックス・モズレーさんを訪ねてロンドンへ……。

 ジョン・サーティースさんのご自宅に伺った時に感じたこと。サーティースさんは、2輪の最高峰クラスで4回、F1ではフェラーリに乗ってチャンピオンを獲っています。両方でチャンピオンを獲っているのは現在に至るまでサーティースさんただ一人です。さらにホンダの第1期で2勝したうちの2勝目は、サーティースさんのドライブで1967年のRA300によってもたらされました。

 イギリスの豪邸に中村さんと一緒に伺ったのはお昼前。大きなテーブルに奥さまの手料理のランチを用意してくださって、サーティースさんと奥さま、お子さまが2人と中村さん、柴田さんと僕が座って、みんなでランチをいただきました。

 中村さんとサーティースさんの、監督とドライバーという長年にわたる関係はもとより、人間関係がきっちり構築できていたからこそ、そのような歓待をもってご自宅に招待していただいたのだと思います。

 食事のあと、取材が始まったのですが、僕は撮影もほどほどにして、2人のお子さんと一緒に庭に出て遊ぶ係をしていたのが懐かしく思い出されます。

 他にもたくさんご一緒させていただきました。

 基本的には僕が運転手で、ライターの柴田さんか、編集長の左近さんが助手席に乗り、中村さんが後席に座り、3人で移動します。

 その道中、食事のときや移動中の車内でいろんな話をしました。いや正確に言うと、したはずなのですが、そのほとんどを忘れてしまいました……なんともったいない。

 それでも覚えているのは、モナコGPの始まる前の3日間くらい、中村さんと2人きりになることがあって、ホテルから海沿いを歩いて行ける中華料理店で酢豚をつつきながらの会話。

「熱田さん、誤解を恐れずに言うと、戦時中の時間は技術者にとっては天国のような時間なんです。なぜならば予算をふんだんに使って自分のアイデアを研究し、実際に物として作り出せるんですね。その結果が戦果として評価される。非常にやりがいのある仕事でした。まあ、F1と似ているような部分もありますが、撃ち落とすか撃ち落とされるかという命がかかっていますからね。必死に仕事をしました」。

 中村さんは1918年山口県生まれ、東京大学工学部航空学科卒業。中島飛行機に入社し、ほどなく戦争が始まって陸軍航空技術研究所で中尉に任官。爆撃機「富嶽」の設計や、「零戦」「隼」のエンジンの改良設計、ジェット戦闘機「火龍」のエンジン設計などを経て、終戦。柳屋鉄工所、日本内燃機製造などを経て、1958年に本田技研工業に入社。その入社面接のときに、本田宗一郎社長に「ホンダはF1をやる気があるのか?」という質問をして「できるかできないか分からんが、俺はやりたいよ」というやりとりがあり、入社後に実際に参戦に向けて動いたのは中村さんであったわけです。初代F1監督、本田技研工業顧問、自動車技術会副会長、国際自動車技術者連盟会長を務め、1994年に逝去されました。

 本田宗一郎さんとは意見が合わずに対立していたことは有名な話ですが、僕たちとの会話の中でも同じでした。人間的には愛すべき人柄であるのは確かですが、技術的なことはまるで分かっていないと……。

 という流れがあって、参戦2年目の1965年シーズン、中村さんはF1から外れて国内で4輪の開発作業をしていました。

 しかし、1.5リッターエンジンの最終戦、空気の薄いメキシコならば勝てる見込みがあるので、監督復帰を果たしたそうです。

 本戦前にテスト走行も実施して、中村さんの航空機技師の知見を活かした薄い空気に対応したセットアップを施したV12気筒エンジンは絶好調となったわけです。

 そして、レース後に「来た! 見た! 勝った!」という有名な電文を東京本社に送ったわけです。

 中村さんという存在がホンダにあったからこそ、F1に参戦し、メキシコでの勝利があったわけです。

 ダメなことにはとことんダメと言い、決して偉ぶらず、人の意見に耳を傾け、冗談が大好き、笑顔が素敵な人でした。物腰の柔らかい方で、記憶力を含め頭脳明晰、どんな質問にも丁寧に答えてくれるそんな人柄でした。僕のような、ぺーぺーのカメラマンにもいつも熱田さんとさん付けで呼んでいただきました。

 晩年、慶應病院にお見舞いに行ったとき、財布から小銭を出してきて、

「熱田さん、これでマルボロを一箱買ってきてくれませんか?」

 いや、どう考えてもダメでしょう……。

「いや、いいからどうしても買ってきてください」

 断れるわけはなく、言われるままに売店で買ってきたマルボロとおつりを病室の袖机の中に嬉しそうな顔をしながら隠していた中村さんが忘れられません。

 あのマルボロはおいしかったですか?

 著書にサインをいただきました。

「F1とは人々のロマンであり情熱だと思います」

 この写真は2000年の鈴鹿です。左から中嶋悟さん、ジョン・サーティースさん、ゲルハルト・ベルガーさん、ジャック・ブラバムさん、鈴木亜久里さんです。

 右側のマシンがRA272です。ホイールが今とは違ってますね。左側は翌年のマシンRA273です。

 木箱に入ってエルマノス・ロドリゲスサーキットに運ばれてきたRA272。

 現地で作業に当たったホンダの6名。左から千葉さん、川畑さん、樋口さん、兜石さん、藤井さん、高見さん。

 今回の60周年イベントに関してモータースポーツ課の高見さんに聞きました。

「昨年のブラジルGPでセナ選手のMP4/7を走らせたときに、2025年のメキシコGP初優勝からの60周年が同じ週に開催されるという偶然を知って、ホンダとして2026年から参戦開始という節目の意味合いもあるので、イベントをやることを昨年の10月くらいからFOMに対して交渉を開始しました」

 60年という時を経て再び同じサーキットを走るというのはホンダにしかできないことです。

 現役のホンダ関係者も興味津々。

 イベントの本番は日曜日の朝、9時25分~9時40分で予定されていました。レッドブルのガレージ前で角田選手が乗り込み、1ラップした後フォロソルまで来て、三部社長と渡辺HRC社長と角田選手の3人でインタビューという段取りでした。

 当時を振り返り、着ているツナギも用意したそうです。

 朝7時30分にエンジンのチェックのために始動しました。1.5リッターでV12気筒という今では考えられないようなエンジンです。素晴らしい音!

 このエンジンのオリジナルはマグネシウムのブロック。金属の経年変化で走行には耐えられないので、このエンジンは設計図をもとにアルミで作り直したものです。

 車体自体は基本的にオリジナルで、サスペンションのアーム類などは新規製作です。ガソリンタンクはハンドルの前にあって、レース時には車体の左右にもあったそうです。

 宮城光さん。ご存知の方も多いと思いますが、元レーシングライダーです。モリワキからデビューして、全日本500ccクラスに参戦し、テラカラーのNSR500で活躍。アメリカのレースにも参戦し、帰国後は4輪レースにも参戦。現在はホンダ・コレクションホールが所有するさまざまなレーシングマシンの動体保存時のドライバー&ライダーを担当。MotoGPの解説やジャーナリスト業をしています。

 今回はRA272のリザーブドライバーとして現地に来ていたので、お話を伺いました。

熱田「延べ、このRA272に何時間くらい乗ってますか?」

宮城さん「25年乗っているので正確には何時間乗っているか分かりませんが、一番乗っているのは僕だと思います」

熱田「乗ったらどんな感じのマシンなんですか?」

宮城さん「いや~素晴らしいですよ。今は回転を抑えて1万1000回転で走っていますが、1万4000回転まで回ります。トルクも意外とあるんですよ。低速もあるんです。とはいっても6000回転くらいからですけどね。クラッチのフィーリングもコイルスプリングなので非常に操作性はいいんですが、ストロークが15~20mmくらいしかないので、つなぎ方は少しコツがいるかもしれません。いろんなレイアウトがオートバイのエンジンから来ているので理解しやすいとは思います」

「エンジンの振動はないです。ダイナミックバランスがきちんと取れていないと回転が上まで回りませんし、振動があるといろんなところにクラックとかが入って耐久性もなくなりますからね」

「そういう意味では、このエンジンは長く走っていますけれど、ものすごく耐久性も優れていると思います。マグネシウムのオリジナルにも乗ったことがあります。今のエンジンと何が違うのかというと、枯れた感じがします……。例えば楽器と同じだと思うのですけれど、アルミにしてもシリコン剤が抜けていっていいフィーリングがするんですよ。排気音などは一緒です。トルクの出方は上までフラットトルクですね。車重も軽いし、タイヤも細いので転がり抵抗が少ないので、下がもたつくという感じはありません。クラッチミートは6800回転くらいからつないで、1万1000回転でシフトアップという感じです」

「ただ、燃調はその都度合わせるのがシビアです。気圧とか気温とかによってフィーリングが変わるので、ズレ始めるとなかなか乗りにくくなります。スロットル開度とエンジンのトルクと回転数がシンクロするようなタイミングは本当に少ない。そういう意味ではより自然的な、動物的な、何かそういうものを感じますね。機械式のフューエルインジェクションなので、キャブレターと現代のインジェクションのちょうど中間くらいの機械で、アクセルの開け方、戻し方、その手前の回転数でどう走ったかで次の回転で影響が出るというようなフィーリングですね」

「シフト操作もHパターンで0.5mmズレると次のギヤには入らないし、エンジンの回転とクラッチ操作のタイミングにコツが必要です。でも分かってしまえば気持ちよくシフトアップできます。エンジンとの対話ですよね。1万4000回転まで回るととんでもなくいい音がします。乗っているより外で聞いている方がいい音!」

 という宮城さんのインプレッションを聞くと、やはり60年前のマシンですから、操作はコツが必要だということです。

 角田選手がレース前にフィーリングが全く違うマシンに乗って戸惑わないか、おそらく心配するまでもなく大丈夫なのでしょうけれど、個人的にほんの少し心配でした。お世話になっているホンダのイベントですからね。

 いよいよレッドブルのガレージ前まで移動。

 角田選手登場。

 乗り込んで、少し暖機運転をしてからスタートなんだけど、クラッチがつながらず、しばしピットレーンでストップ。その後、無事にスタートしていきました!

 ガレージ前から全員フォロソルまで移動して角田選手が来るのを待っていたのですが、途中で止まってしまいました。

 与えられた時間がどんどん過ぎていく中、メカニックさんがスターターを持っていって再始動して無事にフォロソルまでたどり着きました。

 RA272から降りて三部社長と渡辺HRC社長に説明する角田選手。「シフトが下手すぎてすみません」と一言。

 でも、60年前のマシンですからね。コツが必要なマシンです。グッドウッドで乗っていたとはいえ、難しい操作だったのでしょう。大事なレース前によく頑張ったと思います。

 最後は、フォロソルのマーシャルさんと記念撮影して終了でした。

 本来なら、もう1周してサーキットにホンダV12サウンドを轟かせるはずだったのに、時間切れで叶わなかったのが、僕的には少し残念でした。

 今回のRA272イベント、中村さんが見たらどう思ったかな?

熱田 護

(あつた まもる)1963年、三重県鈴鹿市生まれ。東京工芸大学短期大学部写真技術科卒業。1985年ヴェガ インターナショナルに入社。坪内隆直氏に師事し、2輪世界GPを転戦。1992年よりフリーランスとしてF1をはじめとするモータースポーツや市販車の撮影を行なう。 広告のほか、「デジタルカメラマガジン」などで作品を発表。2019年にF1取材500戦をまとめた写真集「500GP」を、2022年にF1写真集「Champion」をインプレスから発行。日本レース写真家協会(JRPA)会員、日本スポーツ写真協会(JSPA)会員。