日下部保雄の悠悠閑閑

1984年RACラリー

1984年のRACラリーに参戦したときのロードマップパート1とパート2

 Car Watchの谷川さんに誘われて静岡ホビーショーに行ってきた。初めてのホビーショーだ。ことのきっかけは、自分が1984年の英国RACラリーに参加した時のランサーターボのプラモデルがアオシマから販売されたので、ぜひ見に行きたかったからだ。

 マカオのBEEMAXとアオシマの共同開発で完成した精度の高いアドバンランサーは、チェスターのフィニッシュでちょっと気恥ずかしいながらもクルマに上って見えた光景をまざまざと思い出させた。

青島文化教材社から6月に発売される予定の「三菱 ランサーターボ '84 RACラリー仕様」

 この年はたぶんADVANチームとしてRACラリーへ3年目の挑戦だった。

 世界にチャレンジする中で、当時の世界3大ラリーの1つと言われていたRACラリーを選んだ理由は、通常閉鎖されている林道や公園がSSのコースになるので、他の欧州ラリーのようなペースノートがない。まだペースノートに慣れていない日本人クルーでもなじみやすかったのではないということ。また、ほぼグラベルで、これもグラベル主体の日本のラリーに近かったこと、そして英語の国であることだった。

 ドライバーだった私がこのADVANチームではコ・ドライバー(当時はナビゲーターと呼んだ)としての参加だったのは、ドライバー同士の方がドライバーやクルマの状況が分かりやすいだけでなく、サービスへフィードバックしやすく、ドライバー同士でコントロールもしやすいのではないかという理由だった。

 ドライバーは昔なじみのADVANチームの大庭誠介選手。当時、彼は猪突猛進型と思われていたが、実際はクルマに負担をかけないで速く走るドライビングは天性のものだった。

2名のサーティフィケーションカード

 RACラリーは毎年スタートする主要都市が変わり、1984年は英国北西部の都市チェスターを起点にスタートして、英国の森林地帯を舞台に5日間のハイスピード耐久ラリーが繰り広げられる。

1984年のルートアウトライン

 毎年11月の下旬にWRCの最終戦として開催されるのですでに英国は寒く、天候もわるい。グラベル、ターマック問わず、路面は常に滑りやすくグチャグチャである。それでいてコースのアベレージスピードは速いし、寝る暇もなく昼夜を問わず走り続けるので耐久色も強い。

 われわれは94号車の山内伸弥/山口励組、102号車の羽豆宏一/田口雅男組と3台での出場だった。まだRACラリーでの成績も残していなかったのでゼッケンは真ん中より後ろだった。この他にも日本人クルーでは加勢/林組(AE86)、鎌田/市野組(いすゞアスカ)が参加していた。

 この時用意したタイヤはグラベル用が2種類、ターマック用が1種類で、主としてグラベル用の「GR-07」を使用していた。国内でも使い慣れたタイヤとそれを海外用にアレンジしたもので、チームトータルで182本ものタイヤが送られたと思う(つまり約60本が基本的にわれわれが使えるタイヤ)。

 エンジンは三菱自動車でグループA用にチューニングされたインタークーラー付き1.8リッターのターボエンジンで、国内用をベースにして出力は上がっていた。海外で三菱ワークスチームが使っていたグループBの2000ターボとは異なる車両で、1800ターボではグループAのホモロゲーションを取得していた。

 RACラリーは当時の国内ラリーの1~3速が主体のコースとは違って、3~5速の高速ダートがメインだ。しかもたいていの場合は雨で滑りやすく(どのくらい滑りやすいかといえば、関東の赤土みたいなイメージでとんでもなく滑る)、路側には切り出した木材が置いてある。そこを全開で行くのだから、ワンミスですべてを失ってしまうのだ。さらにコースオフした際は2輪駆動では簡単に上がってくることはできない。運よくスペクテーターがいる場合は押すのを手伝ってくれるが、山奥では到底難しく、あえなくリタイヤになる。

 ナビゲーターはドライバーの集中力を切らさないように配慮し、クルマやタイヤの情況もチェックしながら、次のサービスでスタンダードメニューのほかに何をするかを組み立てる。また、SSの中では有視界走行とはいえ、マップの中から拾えるコース情報を先読みしてドライバーに伝えるのも仕事だった。

ロードマップの中身の一部

 すでにグループB時代に入っており、メーカーの主力はアウディ スポーツクワトロ、プジョー 205T16、トヨタ セリカターボ、オペル マンタ400、日産 240RSなどで、メーカー、ディーラーチームを織り交ぜて、さまざまなラリーカーが揃っていた。ドライバーもミッシェル・ムートン、ハンヌ・ミッコラ、アリ・バタネン、スティグ・ブロンビスト、etc,etc……と、キラ星のごとく揃っており、順位が上がってくるとワークスチームの影が見えてきた時はワクワクしたものだ。

 このころはチームの配慮で短いレストハルトでもホテルで寝ることができるようになったが、それでも途中チェスターでのレストハルトを含んで3日間のパート1、2日間のパート2は肉体的にも緊張感の点でもハードなスケジュールで、最後のSSをフィニッシュした時は心の中からこみあげてきた喜びで苦楽を共にしたサービス隊と無線でしゃべりまくっていた。

 気が付けばわれわれは総合18位、グループAの3位、A8クラスではミカエル・エリクソンのアウディ クワトロに次いで2位で入賞することができた。

当時、肌身離さず首からかけていたスペアキー

 この時の優勝はアリ・バタネンのプジョー 205T16で、2位はハンヌ・ミッコラのアウディ クワトロ、3位はパー・エクルントのセリカターボ、4位はミッシェル・ムートンのアウディ クワトロだ。

 その後、ADVANチームのRACラリーの挑戦車両はスタリオン、ギャラン VR-4と変わっていき、スタリオンでは1987年に総合11位を得るところまでいった(実はこの時、チョンボして1分のペナルティを食い、10位に入りそこなった)。

 その後、連続して参加して実績を残すとゼッケンも早くなり、まわりはすべてワークスチーム。SSのスタート待ちでは一緒に写真を撮ったり、サインをもらったりと完全にミーハーである。

 ボクと大庭選手のRACコンビは1989年まで続き、大庭選手はその後もRACラリーに挑戦し続けた。第一線を退いてからも国内でクラスを変えて復活した後、ボランティアでプライベートのためのフードサービスをするなど、心からラリーを愛している好漢である。

 精密なアオシマのアドバンランサーを見ていると懐かしいRACラリーの思い出が蘇った。

日下部保雄

1949年12月28日生 東京都出身
■モータージャーナリスト/AJAJ(日本自動車ジャーナリスト協会)会員/16~17年日本カー・オブ・ザ・イヤー選考委員
 大学時代からモータースポーツの魅力にとりつかれ、参戦。その経験を活かし、大学卒業後、モータージャーナリズムの世界に入り、専門誌をはじめ雑誌等に新型車の試乗レポートやコラムを寄稿。自動車ジャーナリストとして30年以上のキャリアを積む。モータースポーツ歴は全日本ラリー選手権を中心に活動、1979年・マレーシアで日本人として初の海外ラリー優勝を飾るなど輝かしい成績を誇る。ジャーナリストとしては、新型車や自動車部品の評価、時事問題の提起など、活動は多義にわたり、TVのモーターランド2、自動車専門誌、一般紙、Webなどで活動。