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ホンダ、「RA272」「RC164」など歴史的に貴重な所蔵車両の走行確認テストレポート

ホンダコレクションホールの所蔵車両を写真と動画で紹介

2020年2月20日 開催

ツインリンクもてぎで「ホンダコレクションホール」所蔵車両の走行確認テストを開催

 本田技研工業は2月20日、ツインリンクもてぎ(栃木県芳賀郡茂木町)南コースで、同施設内のミュージアム「ホンダコレクションホール」所蔵車両の走行確認テストを実施した。ホンダコレクションホールでは所蔵車両を動態保存しており、走行確認テストを定期的に開催している。

 このテストは一般にも公開されており、南コースを一望できる土手の上などから見学することができる。すぐ目の前でレーシングマシンが走行するということもあり、平日にもかかわらず多くのファンが甲高いエキゾーストノートを堪能しに集まった。

ピットとなるテントでは走行確認テストの準備が進められる
2輪車は走行直前までメンテナンスのためカウルが外されている
ヒーターでエンジンを暖める
走行時は展示用とは別のタイヤを使用
タイヤウォーマーで走行用のタイヤを温める
2輪車のタイヤもタイヤウォーマーで温めていた
取り外されたカウルが並ぶ
外装が外されたマクラーレン ホンダ MP4/5(1989年)
RA300(1967年)
RA272(1965年)

 今回テスト走行を予定していた車両は、2輪車が「RC164(1963年)」「NSR500(1984年)」「NS500(1985年)」「NSR500(1985年)」「CBR1000RRW(2004年)」の5台。4輪車は「RA272(1965年)」「RA300(1967年)」「マクラーレン ホンダ MP4/5(1989年)」の3台。午前中に2輪車のテスト走行を行ない、コースに降りて間近でマシンを見学できる昼休憩を挟み、午後に4輪車のテストを実施。2輪、4輪とも、元ホンダワークスライダー宮城光氏がテスト走行を担当した。

 テスト走行が実施された南コースは、全長が約1km。各マシンはピットとなるテント前からスタートし、右まわりと左まわりを数周ずつ周回。ストレートの距離は短いが、1速、2速程度ならかなり回転数を上げられるため、レーシングカー独特の走行サウンドに期待が高まる。

走行確認テストが実施されたツインリンクもてぎ・南コース
走行確認テストを見守る多くのギャラリー
全ての車両をテスト走行した元ホンダワークスライダー宮城光氏
走行後は宮城氏によりマシンとテストの解説があった
走行確認テストダイジェスト動画(9分44秒)

2輪車

 2輪車の走行確認テストは、「RC164(1963年)」「NSR500(1984年)」「NS500(1985年)」「NSR500(1985年)」「CBR1000RRW(2004年)」の5台が予定されていたが、ロスマンズカラーのNSR500(1985年)はマシン不調により走行が中止となった。

RC164(1963年)

エンジン:空冷4ストローク4気筒DOHC ギヤ駆動
排気量:249.3cc
最高速:220km/h以上
最高出力:46PS以上/1万4000rpm
その他:常時噛合式6段リターン

RC164(1963年)

 1963年ロードレース世界選手権250ccクラスに参戦したマシン。1959年の浅間火山レース(第3回全日本オートバイ耐久レース)にプロトタイプであるRC160が出走。トランジスター点火やカム変更など改良を加え、空冷4ストロークDOHC4バルブ直列4気筒250ccエンジンのワークスマシンとしては最終型となった。日本における初の世界GPで、ジム・レッドマンの駆るRC164が優勝した。

 今回のテスト走行はエンジンよりも車体側、特にブレーキに関しての将来性を考え、新たに製作したブレーキの動態確認をした。当時のブレーキは一部に耐用性の低いマグネシウムの使用や、ブレーキシューに現在では使用できない材料を使っている。そのため、オリジナルのパーツは保存し、このような実走テストで今後も長く走らせられるように部品を作り直した。

 フロントブレーキはダブルパネルのツーリーディングで、合計4か所のブレーキシューがドラムの内側に当たることとなる。ワイヤー調整式だが、走行前に調整しても走行中にワイヤーが引かれ、ワイヤーごとの伸び具合も変わるため、当時はこの4か所のブレーキシューのアタリを均一にして制動力を高めるのは難しい技術だったようだ。

 走行後の宮城氏の解説では、「エンジンは通常1万4000rpmまでまわすが、今回はブレーキシューのテストということで1万2000rpmで走行した。エンジンの暖気を含めて1~2周をスローで走らせながら、後半少し回転数を上げた。直線で減速していたのは、ブレーキシューのあたりを確認していたから。ブレーキをかけた際のサスペンションストロークなどを確認しながら走行させたが、おおむね良好だった。ブレーキのアタリの温度の違いがあったが、これからメカニックがしっかりと調整していく」と、好感触だったことを明かした。

RC164(1963年)
NSR500(1984年)

エンジン:水冷 2ストローク V型4気筒 ケースリードバルブ
排気量:499cc
最高出力:140PS以上
その他:プレスバックボーンフレーム

NSR500(1984年)

 1984年、前年にV型3気筒のNS500でチャンピオンを獲得したホンダは、さらなる動力性能を得るためにV型4気筒のNSR500を開発した。より低重心化と運動性能の向上を図って、燃料タンクを車体下部に配置する車体レイアウトを採用。先進的な試みだったが、弊害が多く発生して熟成が進まず、当時最速ライダーとも言われたフレディ・スペンサーをもってしても、この初代NSRでは3勝を挙げるにとどまった。翌年の2代目NSR500ではレイアウトを元に戻し、ライダーとコンストラクターズチャンピオンを獲得した。

 当時のサスペンションやホイールなどの足まわりには、マグネシウム素材が多く使われている。マグネシウムは現在の鍛造とは違い鋳造技術で作られているため、30~40年の耐用を考慮していない。このようなレーシングホイールは1年に1度、新品にするのが原則だ。このNSR500では今回、足まわりを一新した。ハブまわりに使われていたマグネシウムはアルミ材質の部品に変更。NSコムスターを呼ばれているホイールも新しく作り直した。フロント、リアのブレーキディスクは、鋳鉄からステンレスに変更し、新しいブレーキパットが装着された。重要保安部品を作り直すことで、今後も長く走らせられるようにしてあるが、元の貴重な部品は車両がコレクションホールに展示される際に取り付けられ、オリジナルの状態が復元される。

 宮城氏は「カウリングを外した状態での“職人技”というか、作り込みの素晴らしさというのは、35年たった今見ても息を呑む美しさがある」と、初代NSRの魅力を語るとともに、「今回NSR500は1万2000rpmまで回転させた。スロットル開度100%で1万2000rpm。1速、2速だけだが大変よく走った。一方、下のトルクがあるマシンではない。500ccという排気量がありながらも、半クラッチを多用してのスタートとなる。低回転でのトルクのなさが、当時のフレディ・スペンサーやランディ・マモラ選手たちを苦しめたとも言われている。タイヤはフロントは16インチ、リアが17インチ。こういったハンドリングも今となっては経験することができない。クイックな、軽さを狙ったハンドリング」とテストを振り返った。

NSR500(1984年)
NSR500(1985年)

エンジン:水冷2ストロークV型4気筒ケースリードバルブ
排気量:499cc
最高出力:140PS以上
その他:プロリンク式リアサスペンション

NSR500(1985年)

 1985年、前年のNSR500の失敗から車体レイアウトを通常に戻し、さらに強力なエンジンを搭載することでフレディ・スペンサーが12戦中7勝し、2年ぶりにライダーとコンストラクターズの2冠を獲得した。この年、フレディ・スペンサーは250ccクラスにもエントリーして7勝を挙げ、史上初の250cc、500ccのダブルタイトルを獲得。また、この年から英国タバコメーカー「ロスマンズ」がホンダのスポンサーになった。

 今回のテストでは、ピットからコースに出てエンジンを始動させたものの、走行することなくテスト走行は中止となった。動画にはエンジンがかかっている様子が収録されているが、実際の走行がなくて残念だ。

NS500(1985年)

エンジン:水冷2ストロークV型3気筒ピストンリードバルブ
排気量:498cc
最高出力:130PS以上
その他:ダブルクレードル式フレーム

NS500(1985年)

 1982年に登場した2ストロークV型3気筒ロードレーサー「NS500」の最終モデル。1985年、HRCのワークスマシンやプロダクションレーサーの開発ライダーであった阿部孝夫氏が全日本ロードレースに参戦。開発が主目的のレース参戦だったため勝利を挙げることはできなかったが、レースを通じて開発された技術は、その後のレースに直結してホンダに数々の勝利をもたらすこととなった。

 1979年より世界グランプリに復帰したホンダレーシングチームが、それまでのNR500、4ストロークに続くグランプリマシンとして開発したのがNS500(1982年)だ。クロモリ製スチールフレームのプロトタイプを経て、1985年型のNS500のようなアルミフレームへ進化してきた。3気筒V型エンジンはVバンク前が1気筒、後ろが2気筒。当時、世界グランプリでは4気筒のパラレル、もしくはスクエアフォーのエンジンが主流の中、3気筒にしたメリットは車重が軽くなるということとエンジンのメンテナンス性が向上することだという。

 宮城氏はテスト走行について、「この3気筒のNS500に乗ると、下のトルクがあって扱いやすい。当時16インチのフロントタイヤは多くのライダーを悩ましていたが、今乗ると大変乗りやすい。最初にこの16インチタイヤを経験したライダーは苦戦したが、時間を重ねるごとに高い戦闘力を発揮していったのがよく分かる」と語った。

 今回のテスト走行では足まわり、車体関係、エンジンに新しいものを導入したわけではなく、ホンダコレクションホールが行なっている定期的な動態走行となる。宮城氏は、「今回は1万1000rpmまでエンジンをまわした。3気筒のマシンはコレクションホールに数台あるが、このNS500はワークスマシン。エンジンの寿命などを考えると、これ以上はあまり走行させずに温存した方がいいかもしれない。2ストロークとしては、距離を走った感が否めないマシンだった」と振り返った。全体のバランスはよしとしながらも、フロント用の16インチタイヤが数少なくなってきていることにも触れ、「これからはこのタイヤをどうやってキープしていくかというのも課題」と語った。

NS500(1985年)
CBR1000RRW(2004年)

エンジン:水冷4ストローク直列4気筒DOHC 4バルブ
排気量:998cc
最高出力:195PS以上
重量:165kg以上
その他:ユニットプロリンク式リアサスペンション

CBR1000RRW(2004年)

 ベースとなったCBR1000RRは、それまでの900ccベースだった1992年後半から発売されたCBR900RRシリーズを継承し、2004年に1000ccに排気量をアップして登場したシリーズの初期モデル。シートカウル内に付けられたアップマフラーが印象的な、近年スポーツモデルの代表マシンとも言える。モトGPマシン「RC211V」から技術を継承されたユニットプロリンク式リアサスペンションは、新しいリアのトラクションの感覚を多くのライダーに経験させることになった。

 CBR1000RRのワークス仕様がこのCBR1000RRWで、2004年の世界耐久選手権シリーズ第5戦の鈴鹿8時間耐久ロードレースに参戦。コース上で転倒が続く波乱の展開の中、終始安定した走りを見せた宇川・井筒組が優勝し、ホンダは8連覇を達成した。

 CBR1000RRからの変更点で大きく目を引くのがスイングアーム。当時のハイグリップタイヤに対応すべく大きな剛性を与えられ、さらに全長が延長されている。結果的にはフロント荷重を少し増やす形になっている。市販車は前後17インチタイヤだが、このワークスマシンはフロント16.5インチ。当時は16インチと17インチ両方の利点を取ったサイズということで、世界グランプリでは近年まで採用されていたものの、現在はすでにこの世に存在しないサイズ。今後、このように動態確認をするにも、古いタイヤのままうまく距離を伸ばしていくことしかできないという。

 今回のテスト走行について宮城氏は、「今日の走行は回転数を1万1000rpmくらいに抑えた。それでもストレートで、トルクと回転の出力の上がり具合でフロントが軽く浮いていくので、当時でも最高速を狙ったマシンだということがうかがえる。エンジン、ブレーキ、サスペンション共に好調だった。タイヤだけが今後の走行において問題」とまとめた。

4輪車

 4輪車は「RA272(1965年)」「RA300(1967年)」「マクラーレン ホンダ MP4/5(1989年)」の3台の走行テストが予定されていたが、RA300はピットから出ることなく走行中止。マクラーレン ホンダ MP4/5は2周走ったところで中止となってしまった。

RA272(1965年)

エンジン:RA272E、水冷4ストローク60度V型12気筒DOHC 4バルブ ギヤ駆動
排気量:1495cc
最高速度:300km/h以上
最高出力:230PS以上/1万2000rpm
重量:498kg(総重量)
その他:サブフレーム付軽合金モノコックボディ、6段変速

RA272(1965年)

 1965年、1500cc時代最後のF1選手権最終戦。メキシコグランプリでホンダとして初めて優勝を飾ったリッチー・ギンサーが駆ったマシンの同型車。水冷1500ccV型12気筒エンジンは230PS以上を発生し、当時のF1レーサーの中でも群を抜いたパワーを誇ったが、F1参戦2年目で経験の浅かったホンダは、その強力なエンジンと車体のマッチングに苦しんだ。

 ホンダは1962年10月に行なわれた東京モーターショーで、「S360」「S500」という2台の軽自動車を発表した。それまで2輪車しか作ったことのないメーカーが4輪車を発売するということで大変話題となり、翌年の1963年にS500を発売。その翌年となる1964年からホンダはF1に参戦した。当初英国から供給される予定だったフレームが間に合わず、自社オリジナルで作ったシャシーで参戦したのが前モデルであるRA271。参戦2年目となる1965年にRA272を2台投入。ゼッケン11のリッチー・ギンサー選手が最終戦のメキシコグランプリで優勝。今回テスト走行で走らせたゼッケン12のロニー・バックナム選手は、5位入賞を果たした。

 V型12気筒1500ccエンジンは、2輪のエンジンレイアウトを延長し、V型にしたというコンセプト。コレクションホールにはこのエンジン単体も展示されているが、よく見るとホンダの誇る2輪車の6気筒エンジンをV型12気筒にしたようなレイアウトになっているという。

 今回のテスト走行ではトランスミッションの作動確認を行なった。テストを終えた宮城氏は、「エンジン音を聞くと分かるが、このストレートを2速で出てきて、トップギアの6速まで入れた。5速、6速に関しては回転数を上げられないが、その後6速から5速、4速、3速、2速とシフトダウンする形でトランスミッションの作動性を確認した。今回はエンジンを約1万rpmまでまわしたが、マシンが現役のころは1万3500-1万4000rpmあたりまでまわったはず。自分が実際にテストしたマシンもそれくらいまわすことがあったが、今は長く継続するという前提で1万rpmに抑えた。それでもこれだけ高周波のいい音を出してくれるので、こういった高性能エンジンの魅力というのは捨てがたい。素晴らしいものだと思う」と褒めたたえた。

RA272(1965年)
RA300(1967年)

エンジン:RA273E、水冷4ストローク90度V型12気筒DOHC 4バルブ ギヤ駆動
排気量:2992cc
最高速:350km/h以上
最高出力:420PS以上/1万1500rpm
重量:590kg
その他:サブフレーム付軽合金モノコックボディ(インディカー用ローラT90シャシー)

RA300(1967年)

 F1世界選手権の排気量規定が変更になって2年目。ホンダはRA272の後継マシンとして、新開発の3000cc自然吸気エンジンを搭載したRA273でF1に参戦。軽量でハンドリングに優れたRA300は、第9戦イタリアグランプリでデビュー・ウィンを飾り、ホンダF1に2勝目をもたらした。

 今回のテスト走行ではマシン不調により、ピットから出ることなく走行中止となった。

RA300(1967年)
マクラーレン・ホンダ MP4/5(1989年)

エンジン:RA109E、水冷4ストローク72度V型10気筒DOHC 4バルブ ギヤ駆動
排気量:3493cc
最高速:350km/h以上
最高出力:600PS以上/1万2000rpm
重量:500kg(フォーミュラウエイト)
その他:ホンダ PGM-FI(電子制御燃料噴射装置)

マクラーレン・ホンダ MP4/5(1989年)

 1989年。前年までの1500ccターボエンジンに代わり、3500cc自然吸気エンジンへのレギュレーション変更を受け、ホンダが開発し、マクラーレンMP4/5に搭載されたのがV型10気筒のRA109エンジン。当時、アラン・プロストとアイルトン・セナをドライバーとし、最強のチームと唄われたマクラーレン・ホンダはアラン・プロストが4勝を挙げ、2年連続のドライバーとコンストラクターズチャンピオンの2冠に輝いた。

 今回のテストでは、ピットからコースに出てきたものの、軽く2周を走った時点で走行が中止となってしまった。これについて宮城氏は、「最初の周回でエンジンの不調が確認されたので、いったんピットに戻った。もう一度総合的に確認しようということで1周まわった。奥のストレートで4速まで入れたが、通常の着火状態でないことが判断されたので、再びピットに入った。メカニックが確認したところ、10気筒あるシリンダーのいくつかの点火系に問題があることが分かったので、残念ながら走行中止となった」と理由を述べた。

 さらに「このような不安材料がある中で、スロットル開度を無理やり開けて走っても正しい燃焼がされないため、結果的にコンロッドや駆動系に負担をかける。コレクションホールでは毎回このようなテストをしていて、さまざまな車両を持ってきても、まったく走ることができないマシンもある。その都度対応して、先人たちが作ってきたマシンを維持し、後世に残していこうと努力を惜しまず取り組んでいる」と付け足した。

マクラーレン・ホンダ MP4/5(1989年)

 午前中に行なわれた2輪車の走行確認テストと、午後に行なわれた4輪車のテストに挟まれた昼休憩には、テントの前に走行する車両が並べられた。一般来場者はテスト走行中はコース内に立ち入ることができないが、この時ばかりは間近でマシンを見ることができるとあって、昼休憩の間中テント前は人だかりが途切れることがなかった。コレクションホールの所蔵車両なので、普段はホンダコレクションホールでゆっくりと見ることができるが、タイヤをはじめとしたいくつかの部品が走行確認テスト用という点では、貴重な機会ともいえる。

直前まで走行していた名車を間近で見られるとあって、ファンは大いににぎわった

所蔵車両の展示も

 また、コース外の駐車場にはテントが張られ、所蔵車両の展示も実施された。今回展示されたのは、「RC162(1961年)」と「CB750フォア(1969年)」の2台。

 RC162は、1961年の世界グランプリ 250ccクラスに参戦するため、RC161に変わって新たに投入された4気筒マシン。フレーム剛性や空力特性を向上させるとともに、最高出力も45PS/1万4000rpm以上へと高められた。デビュー戦となる第2戦西ドイツグランプリで高橋国光氏がホンダに250ccクラス初優勝をもたらし、さらに日本人ライダーとしても世界グランプリ初優勝を記録。第4戦マン島TT戦では1位から5位までを独占した。この年ホンダは250ccクラスで西ドイツグランプリ以降のレースを全勝。第3戦以降は最終戦まで表彰台を独占するだけではなく、翌年の第9戦まで19連勝を果たした。

 CB750フォアは、量産2輪車として世界初の並列4気筒OHCエンジンに、油圧式ディスクブレーキ、ホンダ初のダブルクレードルフレーム、印象的な4本マフラーなど、新たなチャレンジの集大成として誕生した。1968年の東京モーターショーで発表され、1969年から日米で市販が開始された。他社のフラグシップモデルのほとんどが2気筒650ccという時代に、CB750フォアは最高出力67PS/8000rpm、最高速200km/hというパフォーマンスを発揮した。

コースの外では所蔵車両の展示もされていた
「RC162(1961年)」
「CB750フォア(1969年)」